2010年11月2日(例の恐怖経験の発生日と思われる日、特に午後から晩までの数時間。宿命通等で見る時は、非常な警戒をしてください。とても高い超強度の恐怖経験です。)から十年近く経ち、例の恐怖経験を中心に、苦しみの原体験について緩和を目指してきました。
今日は個人的な記念日でもあるので、
この十年のことや思想的なことを吐き出したいと思います。

この十年、考えることはほとんどが例の恐怖経験でした。その中で他の苦しみもやってきて、本当に苦しい十年でした。最近、不思議な世界観でも疎通を通して、美女疎通を中心に癒しを得てきました。環境も数年前程よりは落ち着いてきて、癒しで何とか凌げそうな感じも出てきました。そう述べることは新しい苦難を誘いそうで恐ろしいですが、それが今の実感的な気分です。

例の恐怖経験→最初は自然体がいいとか、ぼっーとする、死の恐怖はあんなに怖いのかと思う→本を読み始めて宗教や哲学に関心を持つ理系の科学については普通の科学の範囲だけ、キリスト教会で勉強する→就職して本を読み続け、あらかたの一般の古典的名著を読む、ごみ拾いや禁欲、菜食をしたり憐れみや共感的道徳を実践し、宝天が出始める、上級能力の存在を感じる、さとられ体験が激しくなる→倫理的破局感、監禁状態→ひたすら考え事、本のペラめくりと疎通できる様になる→人工言語や疎通方法の発見をする→宗教の記述と一致している発見かもしれない、と宗教や言語を主に関心を持つ→宝天や元素の極限疎通により超越的存在に関心をもつが、同時に実際的な隠れた現実の支配者の存在も本での疎通やさせられ体験で確認する、例の恐怖経験や倫理的破局感が人為的なものであることを発見する→苦しみと苦しみの対策が体系化されていき、それが宗教的にも統合でき、さらにそれは自分で考えたにも関わらず、させられ体験で降ってきたものらしいこと、本を書き始める→させられ体験の妨害的指導で次第に深く考え事もできなくなっていき、苦しい、という感情すら、明らかにさせられ体験や思考吹入で矯正され、鬱屈した状態が続く、倫理的破局感から逃れる様に引っ越す→考えの電子化を兼ねてツイッターを何気なく始め、習慣的に見ていたまとめサイトで美しい異国の女性をみて落ち着いていたら、そのツイッターで隠れた疎通感が出てくる様になり、苦しみを吐き出す様に隠れたまま、距離をおいたままツイッター上で疎通を感じる様になる、さとられ体験には慣れていたのでその延長上で疎通を重ねる→実際にイベントで会いに行き、できたばかりで不完全なままの本を渡したりする→複数の女性で疎通や本を渡したりする→疎通や耽美が癒しになり、癒しを感じて深刻な状態が落ち着いてくる→させられ体験や悪夢が激しくなり、苦しみを考え過ぎた後遺症だけでなく、重いさせられ体験が当たり前になる→明るく考えたりリソースを清めたりすることができないと自分や自我がつぶれそうに感じる、幸福の丸暗記という発想を思い付く。隠れた科学力の高さでは現実的な来世の自意識存続もあり得るらしく、させられ体験で例の恐怖経験等が起こせ得るので、即死や自殺も危険であると認識が改まり、安全保障が大事であることから、宗教的存在や王について強く関心をもち、深い考え事もできないので、指針としては宗教を実践するしかなくなる→各宗教を中心に本を書き続け、幸福の丸暗記の発想から、美少女疎通の想い出や自著の各宗教原文を含む宗教書を、させられ体験で記憶や能力もどうなるかわからないままの状況でも暗記しようとする、宗教書のリソースとしてのかたさを高めようとする

宗教や学問、
余暇生活、
大なる者や美少女とのケア的疎通、
というのが強引に3点にまとめると今の激烈感ある苦しみから、何とか和らげてくれたと思います。


思想としては、

極限疎通や、伝統的社会や環境を、宗教や言語を中心に分析し、王以上の存在の確信等により、死の恐怖や自傷自殺がない様に保つことや先の3点等により、何とか生き延びること。安全保障者との疎通?

幸福の丸暗記や思想体系をリソースを含めて肯定的なものにすることや考え直すこと、命名言語を含めた自分の思想の洗練や本等の媒体でのまとめ、各宗教書や自著宗教書からの宗教的生活の設計や実践、丸暗記。

十年自分なりに言動してきて、主に出てきたのがこの2つの思想?ダルマ(正義、安全保障、苦しみからの自由)、アルタ(共同体、実利、苦しみを和らげる楽しみや楽なことの元)ということと表現できそう?
ダルマ、アルタ、カーマ、モクシャと続くかも?

それで

神天如
(安全保障者として、愛として、究極的なこと)

存在のこと、現世や来世のこと、過去世のこと
(ダルマ、アルタ、カーマ、モクシャ、等という実際的なことやそれらを健全に獲得し、全くの無、等とは違った、存在幸福の探求)



(究極的な苦しみのこと、知らない方がよいこと、やよいことを知らなくても、極大の経験的苦しみや未経験の苦しみの解決や緩和ができなくても、何とか生き続けること、存在は苦しみ、という分析的論理が人間に与えられるとしても、よい来世か何かであったり、原理はよくわからないが究極的には幸福な永生を得ること)

苦痛
(人生は苦痛であり、自殺すらも許されない安全保障論理が見え隠れしても、何とかやり過ごせるか?今現在が例の恐怖経験や苦しみの原体験群の様な激烈な苦しみではないかどうか、それらをどうやって避けたりやり過ごすか、今が苦しみの原体験群と比較してどうか、という意識のラベリングや健全さを保つ何か、宗教的生活や健全なこと)




宗教に関心を持つのは、
神さまとの関係の持ち方を示す方法や勉強すべきことが、他に体系化されていることを知らないからかも。宗教以外に、形而上も含めた安全保障や
神さまとの関係を健全にする方法かあるなら探すし、他に方法を見つける必要もあるかも。
実際的には、苦しくても、宗教を実践したり関心を持って取り組んでいると、悪いことをせずにすみ、自分の自我において助けがあるかもしれません。苦しすぎたので、宗教や宗教に基づく高度な社会統治が無かったら、薬物の快楽を探求したり、自傷自殺していたかもしれません。それに宗教的生活を実際にやってみると、自分からみて洗練されたと感じたり、健康にも効く科学的発見がどんどん出てくるし、来世を信じたり宗教的思考に染まると、人間に合っているのだから、実際に楽に感じられる考え方や生活スタイルだと実感できます。それに天や極限疎通、させられ体験や実際の生活も、支えが与えられている気がして、苦しみの中でも、何とか生きていける、という気がします。


言語は哲学的探求でもでてきたことで、疎通や思考においても基礎的で、実際的にも癒やしの効果があるし、宗教の教えでも重要視され、宗教と言語は一体的と感じます。言語自体のシステムに教えも含まれ、また思考、社会や環境等は言語を通じて表象や自我に流入するので、少なからず影響を受けるから、自分で言語を造って思考等を既存言語以外で基礎付けてみたい、とも考えます。宗教で言語を取り扱うのは、政治的等においては言語が無力であって、言語の遊びは悪いことをしない為の余暇活動としては向いている素材かもしれないとも考える時があります。宗教でも社会でも遊んでもらえるので、言語にも関心を持ちます。実際の実生活でも、異国の言語で書かれている各宗教文の習慣的読誦や修行法は、心地よさも伴って健康にも効いています。


ありがとうございます。
吐き出せてスッキリしました。
この様な愚行も大きな苦しみ故とはいえ、
お赦しくださり、ありがとうございます。