ShortStory.531 売りもの | 小説のへや(※新世界航海中)

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 1話完結の短編小説を書いています。ぜひご一読ください!
  コメントいただけると嬉しいです。無断転載はご遠慮ください。

 成人式、どうしましょうか?(要検討)

 

↓以下本文

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「若いのに、本当にこんなことをして大丈夫?」

 

 男が言うと、早苗(さなえ)は頷いた。

 明るい表情からは、天真爛漫な様子が見てとれる。

 

「もう、18歳なので」

 

 どんな意図でそう言ったのかはわからないが、

 今度は男が頷いた。眼鏡の奥の目は細く、笑っている。

 

「そうか、そうか。それもそうだね」

 

 彼はそう言いながら立ち上がると、

 腰のあたりをさすった。早苗の倍以上は年の離れた彼である。

 すでに頭髪にも白いものが混じっていた。

 早苗が彼の方へ顔を向ける。身近な者でなければ、

 彼女が緊張しているのだとはわからないだろう。

 

「それじゃ、そろそろ始めようか」

 

 早苗の喉がこくりと鳴った。

 彼女としても、最良の選択とは言えなかったが、

 どうしても大金が必要だった。

 代償と決意さえあれば、それは得られる。

 

「はい――」

 

 

 

 

 売りもの

 

 

 

 

「さて、ここで問題です」

 

 職員の向井(むかい)は、人差し指をたてると微笑んだ。

 眼鏡の奥の目は細く、白目も黒目も見てとれない。

 着ている白衣には、汚れひとつなかった。

 傍らには別の職員がひとり立っているが、

 彼女は無表情でただただ虚空を見つめているだけだった。

 

「すべてが済んで高額の報酬を手にしたその女性は、

 最後までまったく喜びませんでした。なぜでしょう」

 

 問われているのは、正面に座っている別の男である。

 向かいの手元の書類には、樋口(ひぐち)とあった。

 彼は乾いた唇に触れながら、考えている様子である。

 

「ふふ、もうおわかりのようですね」

「それはもちろんですよ。何だって、そんな質問を僕に?」

 

 樋口は眉間に皺を寄せた。

 白い壁の個室には、彼ら三人しかいない。

 外の廊下には、他の職員が行き来する音が聞こえていた。

 

「いえ、これは皆さんにしている話ですので、お気になさらず」

 

 向井は手元の書類に目を移しながら続けた。

 樋口は人差し指で、テーブルの上を叩いている。

 

「彼女は高額の報酬のために、『喜びと楽しみ』の感情を売りました。

 だから大金を手にしたときには、喜ぶ気持ちを失っていたのです。

 まだお若いというのに、これから先の長い人生、

 楽しいことがあっても嬉しいことがあっても何も感じず、

 喜びを表現することも、他者と共有することもできません。

 しかし、哀しいという感情はまだ残っていますので、

 悲観に暮れるかもしれません。望んだ大金が手に入ったにも

 関わらずです。おそらく彼女は再びここを訪れるでしょう。

 『哀しみ』の感情や残りの感情を売りに」

 

 結末には察しがついていたというように、

 樋口はため息をついた。一方の向井は、

 相手の反応は意に介さぬといった様子である。

 

「一体何のために得た報酬だったのでしょうね」

「そんな事、知りませんよ。僕には関係のない話だ」

 

 目的の見えないやり取りに、樋口は語気を強めた。

 

「おしゃべりをしに来たんじゃないんだ。早くしてくれ」

「すみません。仰る通りですね。今の話はお忘れください。

 それでは施術に入ります。こちらへ」

 

 向井は立ち上がると、部屋の奥の通路へと手を向けた。

 樋口は横に置いてあった自分の鞄を掴むと、向井の先導も

 遮って奥の通路へとひとり歩いて行ってしまった。

 

「怒りが湧いてくるのも、あと数十分の間だけですから、

 不安に思わなくても大丈……ああ、君にはその心配はありませんね」

 

 向井は傍らに立つ職員を見た。

 彼女には、不快そうな顔も、怖がっている様子も見てとれない。

 しかし、向井は彼女の表情に、別の感情を読み取っていた。

 専門家にしかわからないであろう、微かな変化である。

 

「なるほど。羨ましい、ですか。

 売って失った感情が再び自然に湧いてくることはない。

 羨ましいなら頑張ってその感情を買い戻すしかないですね。

 もちろん、売値より高額になりますが。それとも、

 その感情もまた、売りますか――」

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

<完>