先日、cafeでカラーメンタリングのセッションをさせて頂きました。
リラックスしながら語るという行為は、自身の世界への奉仕だと感じます。
9月いっぱいで今までの仕事をやめた自分です。
新しい仕事を探すために
面接をいくつか受けたけれど
経歴と年齢によって、わたしの言葉ではなく
履歴書の中にある文字で私は、私という人間を判断されたことが、これまでの就活よりも強い印象として残りました。
“なめんなよ”みたいな気概を感じたり、
“何が出来るの?”という思いが伝わってきて
思い過ごしかも知れないけれど
そんな思いがすごく伝わってくる感じがして
そして、それらの事について、
聞いてもらえなかった、というわたしの思い。
とても残念な気持ちを抱いたけれど
そう思われるのも、ごもっともだと思う自分もいる。
私の気持ちとしては、やっぱり、説明したかったけれど、私も、それに対する想いが伝わる言葉を発していないことに気づいて、すごくハッとしました。
わたしも相手からの質問を待っていたんだなぁって。
それだけそう感じて思っているのに、
わたしは相手からの質問を待ってたけだったと。
言葉って、不要だと思う事もたくさんあるんだけど、発すると、どんな言葉でも、自分の思いや自分の輪郭を濃くして、自身と世界に明確に示してあげる力がある。
伝わるって、やっぱり、世界を動かす動力だって、すごく思う。
輪郭を濃くすると、内側も取り巻く世界も祝ってくれるような感覚を感じる。
ご縁が繋がる方たちともにそれらを味わいたい想いがわたしの中にある。
目に見えたりするものじゃない、形のないものだから…感じるものって、結果の前の過程みたいなものだから、なんていうか、現実として、直接的な魅力につながらないのかもしれないけれど、
過程 にある愉しみ って、
経験値としては、何よりもすごく役に立つツールであり、宝物だと私は思ってます。
輪郭を濃くするほど、身体が喜んでくれる感じがして。
それは、ミライへのお祝いみたいもので、現実にいざなう肉体が、そこへ連れてってくれるような気もしています。
カラーメンタリングが、そんなキッカケを出してくれて
ご縁とともにたくさん話しを聞かせてもらいたいとつよく思うこの頃です