阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

イビチャ・オシム元監督の民族共存への思いを再び

2022年11月25日 02時03分15秒 | 政治
昨夜は日本がドイツを破った試合の後に放映されたNHKスペシャル『民族共存へのキックオフ-“オシムの国”のW杯』を食い入るように観ました。この番組は2014年に観て、元サッカーユーゴスラビア代表監督のイビチャ・オシム氏が果たした役割に深い感銘を受けました。オシム氏についてもっと知りたい。私自身のボスニア・ヘルツェゴビナ勤務の経験をもとに、『紛争の仲介』や『紛争後の和解と民族の共存』という長年の問題意識についてオシム氏の考えを知りたいと願うきっかけになった番組です。

W杯予選に参加する条件としてFIFAから突きつけられた、セルビア、クロアチア、ムスリムに分裂したボスニアサッカー連盟を統一する大きな役割を果たし、祖国ボスニアを2014年のW杯ブラジル大会出場に導いたオシム氏の哲学がその半生とともに描かれています。ユーゴスラビアが分裂し、内戦に突入していく中、代表チームの監督として、民族主義者の脅迫を受けながら、あくまでも中立でフェアな選手起用を貫いた信頼が、彼が最高の仲介者になり得た大きな要因だと改めて実感しました。

2017年、再びボスニアに行き平和構築の調査をした際、ボスニアサッカー協会を訪ねオシム氏が果たした役割についてヒアリングしました。用意していた質問を次々にぶつけたところ「それはオシム氏本人に聞くのが一番ですよ」と言われることが沢山ありました。「本人は今、オーストリアのグラーツにいるので、そちらに行けるなら連絡しますよ」と言ってもらったのですが、日程的に不可能でした。残念でしたが、脳梗塞で倒れ、心臓にも病を抱えるオシム氏に会えるとは思っていませんでした。ところが!その夜連絡があり、何とオシム氏がサラエボに来て、私に会ってくれると言うのです。サラエボ勤務の外交官で高校の同級生でもある熊倉隆行氏、そしてボスニアサッカー協会の方々の尽力でした。

オシム氏の言葉の数々に心を打たれました。
「サラエボが魅力的だったのは、各民族が共存する多様性があったからだ。サッカーの美しさは、多種多様な個性がそれぞれの強みを見つけ、磨き上げ、一体になることだ。私はそれをサラエボから学んだ」

国家分裂の危機に瀕したユーゴスラビアをワールドカップでベスト8に導き、レアル・マドリードなどの強豪チームからのオファーを断り続け、弱いチームを劇的に変える数々の奇跡を見せてきた名監督だからこその言葉の重みを感じました。オシム氏の生き方自体が、大国、あるいは力のあるチームが意のままに世界を操ろうとする世界の現状への強烈な問題提起と感じました。

オシム氏の奥さん(アシマさん)からは日本がアメリカから武器の購入を増やすことについてどう思うかと聞かれました。日本はアメリカとは同盟関係にあるが、私は紛争解決のための仲介や、平和構築など平和に寄与する日本を目指していて、それを安全保障の戦略のひとつと考えている、そのためにはできる限り中立と思われることが不可欠。アメリカ追従になり過ぎるとその可能性を放棄することになるので反対と答えると、アシマさんは手を叩いて同意し、オシム氏が仲介者として信頼され、サッカー連盟の統一に寄与できたのも中立だったからだと強調していました。隣で私をじっと見つめながら深くうなづくオシム氏の表情も印象的でした。

サラエボがセルビア人武装勢力に包囲され多くの市民が命を落とす中、祖国に帰れないオシム氏と、自分だけがサラエボから出るわけにはいかないと苛烈な生活を耐え抜いた夫人は、生死さえも確認できない時期が長く続きました。だからこそ、平和を願う気持ちの強さ、サッカーを通した民族融和への二人の思いは心に刺さりました。お二人からは口だけ勇ましい日本の政治家とは真逆の本物の勇気を感じました。

体調の不安があるオシム氏との会話時間は30分。アシマさんが時間を管理すると言われたのですが、あっと言う間に1時間が経ち、そろそろ失礼しなくては...と思った時にオシム氏が言いました。「もう少し話そう!グラッパに付き合ってくれないか?」オシムが悪戯っ子のような目で見たアシマさんは仕方ないわね...と言う顔をしながらも、オシム氏が語るほどに元気になり、会話を楽しんでいると言って喜んでOKしてくれました。さらに2時間、オシム氏の少年時代、これからのオシム氏の夢など奥さんも交えて熱いトークを聞くことができました。幸せな3時間でした。

貧しい労働者の家に生まれたオシム氏は、奨学金を得てサラエボ大学数学科に入学。ボスニア工科大学の学長でもあるガニッチ氏(元ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領)によると、際だって優秀な学生だったそうです。数学の教授を目指していたそうですが、東京オリンピックの代表選手になったことを契機に大学を中退し、サッカー選手になったそうです。大学生当時、数学を教えていたのがアシマさんで、オシム氏は教えることもとても上手だったそうです。その当時は生活のためにサッカーをしていたけど、指導者としてのオシム氏は契約金や報酬については、一切話を聞くこともなかったそうです。「いくらもらえるの?と聞いても知らない!と言うのよ!」と言うアシマさんは、そんな夫を心から誇りに思っていることが伝わってきました。

オシム氏に夢を聞くと「民族共存の象徴としてのスタジアムを作りたい」とのことでした。私が1996年に日本政府の選挙指導員としてサラエボに勤務していた時、まわりの山をセルビア人武装勢力に包囲され、平地が少ないサラエボでは戦死者の埋葬場所の確保が困難で、1984年のオリンピック会場、オシム氏がプレーし、采配をしたサッカー場、さらに一部の山の斜面が墓地になり、雪が積もったかのように真っ白に見えました。残念だけど、サッカー場は民族主義者の争いの場でもあったと言うオシム氏。だからこそ、民族融和の象徴としてのサッカースタジアムを作りたいとの言葉、胸に迫りました。

この旅では、前述のエユプ・ガニッチ元ボスニア大統領にも会いましたが、難しい道と知りつつも理想を貫くオシム氏の生き方そのものがボスニアの人々に大きな影響を与えているとのガニッチ氏の言葉を実感しました。苛烈な内戦の当事者であり、今は少数派であるセルビア系住民との関係は今なお多くの火種を抱えています。だからこそ、セルビア系のミシモビッチ選手が主力としてボスニアをワールドカップに導く活躍を見せたことの意義はとりわけ大きなものだったことを実感しました。「同じ人間として接すること。多様性の価値を認めること」仲介者としてのオシム氏がセルビア人によるサッカー協会を説得したシーンはこの番組のハイライトであり、私が一番聞きたかったことでした。オシム氏は人生を通してその言葉を体現してきた人だと感じました。

私に会うつもりになったのは、サッカーではなく民族和解や平和構築について聞きたいという風変わりな訪問者だったからだそうです。でも、グラッパを飲むに連れ、サッカーについても熱く語り始めました。日本代表やジェフ市原のかつての教え子について、また戦術について質問もされましたが、この点では詳しく答えられなかったのは心残りです。でも、私の名刺の『走るさかぐち』はオシム氏の『考えて走るサッカー』を参考にしたと答えると、政治もサッカーも自分が汗をかくことが大切だよ!と大きく頷いてくれました。

今年5月に亡くなったオシム氏。劣勢を耐え凌ぎ、ドイツから劇的勝利を挙げた日本代表の活躍を天国で喜んでいることと思います。

#イビチャ・オシム
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#ボスニア・ヘルツェゴビナ
#サッカーワールドカップ






















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