アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ(4)

12月は、4回シリーズで「アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ」というのをお届けしています。アルケゴスの転落」の部分はファイナンシャルプラナーとして思うことがあり、「人間のかなしさ」の面ではクリスチャンとして考えさせられる部分があり、クリスマスの月にちなんでこの両面から思ったことを書いています。今回は最後です。いろいろ考えたことを綴ってきましたが、今回は、アルケゴス問題を考えながら、学んだことを投資の面からと、人間に関する面からとに分けてまとめてみたいと思います。

過去の記事はこちら:

アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ(1)

アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ(2)

アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ(3)

投資に関することで学んだこと

学んだというよりは再確認したというほうがいいかもしれません。このブログをこれまで読んでくださっている方にとっても再確認だと思います。以下のことです。

投資してよい自分のお金で:

「投資してよい」お金というのは、何かあったときにすぐ対応できる現金はちゃんととりわけておいて(エマージェンシー・ファンドとよぶ。月々の純生活費の3から6か月目安)、それを超えて確保できるお金を投資に振り分けていくこと。

「自分のお金」というのは、借りたお金ではなく手元にあるお金ということ。もちろん、リスク高になることは承知でレバレッジを賭けて(お金を借りて)投資するのもありかもしれませんが、広く一般の人がリタイヤメントやカレッジ資金など、長期的目的のために投資をするなら、「自分のお金」で投資するのが一番だと思います。

もし、「大好きな会社の株を持ちたい」、「クリプトカレンシーをちょっとやってみたい」など、リスクが集中するようなことをする場合は、「万が一なくなっても、(他人はもちろんのこと)自分の家計にも影響のない額にとどめておくことです。

カジノのルーレットと同じく、市場がどう動くかは誰にも正確に予測することはできない。自分にはわかりえないというところで、分をわきまえることが大切と思います。

分散投資 

同じノリで、どの株式、どのファンドが今後伸びるかは、誰にも正確に予測することができないので、広くリスク分散したインデックスファンド投資を基本とすることです。

ひとつ、ふたつが最悪の下落をしても、他があるので大損失にならないこと。これが分散投資の美しさです。

長期投資

同じのノリで、どの株式、どのファンドがいつ上がるかは、誰にも正確に予測することができないので、いったん投資したらずっと長期で持ち続けることです。

明日、最悪の下落をしても、5年後、10年後に振り返れば、それはグラフ上の小さな価格低下としてとらえられる。これが長期投資の安心です。

投資においては、「自分にはわかりえないことを知る」、「わかりえない自分の分をわきまえる」ことが成功の秘訣のように思います。

人間について学んだこと

すぐ的が外れる

人間は的を外す者であること。まあ、これは私自身のことになりますが、朝起きて日ごとに聖書を読み瞑想し(祈り)、自分の的が聖書のことば、神に当たっているかをチェックすることが大変たいせつ。的は常に外れるので、毎日的を当てなおすことをしないと、的外れ(聖書でいう罪)がどんどん大きくなってしまう。

的が神以外のもの(お金、地位、物、スコア、ソーシャルメディアのLlikeやFollower、人の賞賛などなど)に当たると、もともとよい目的ではじめたことも、悪い結果に終わることがある。

自分が正しいと思わない

「自分が正しいとは思わない」というのは、「いつも自分が間違っている」と思えということではないでし。「いつも自分が間違っている可能性がある」と思えということです。全知全能であり愛である神は完全に正しい方だけれど、人間にすぎない自分はたまに/だいたい正しいことはあっても完全に正しいことはありえない。

人に自分の足らないところを注意されたら「そんなわけはない」という代わりに、立ち止まって「そういうところがあるかもしれない」と思う力。これは弱さでなく強さだと思います。

明るみに出す

どこか正しくなくても、自分ではなかなかわからない。それに気づきたくもない。ひそかにやりたいようにやりたい。

人間、自分の状態を光のもとに出してチェックされるのは大変気が重いものです。何も悪いことをしていなくても、タックスリターンで監査を受けるのは誰も好まないでしょう。でも、人間弱いもので隠すことができれば隠してしまいますから、だから敢て明るみに出すことは本当は自分のためだと思います。

わかっていると思わない 

何度もやっていること、とくに何度もやってうまくいっていることで、「自分はもうこれはわかった」と思うとき、おごり、高ぶりの心が生まれ、思いもよらない大失敗へとつながる。

「わかった」と思えば人の意見を謙虚に聞けないし、「わかった」と思えば誰かにチェックしてもらう必要もない、「わかった」と思うことは危険です。「わかった」の代わりに、「ああ、またひとつ新しいことを学んだ。でもまだまだ学ぶことはあるんだろう」という姿勢がよいのではと思います。完了ではなくて現在進行。聖書の私の好きなことばにこんなのがあります。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、

その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。

(新約聖書 第一コリント人への手紙 8章2節)

最後にクリスマス・・・

人が良く知っているけど、実はわかっていないものの一つがクリスマスだと思います。アメリカでも日本でも12月になると街は華やかに飾られ、どこの家にもクリスマスツリーがあり、学校でも職場でもクリスマスイベントがあり、友人・家族にクリスマスカードを書いたり、クリスマスギフトを買うのに大忙し。

そもそもなぜクリスマスにはギフトを買うのか・・といえば、きっとクリスマスはgiving(与える、差し出す)というのがテーマだからだと思うのです。サンタクロースのはじまりをちょっとgoogle検索してわかったことをまとめるとこんな感じです。

由来は4世紀に東ローマ帝国小アジアのシュラ(現在のトルコ)に実在したカトリック教会司教セントニコラウスだというのが一般的。ある時ニコラウスは、貧しさのあまり三人の娘を身売りしなければならなくなる家族の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れた。このとき暖炉には靴下が下げられていており、金貨はその靴下の中に入ったという。この金貨のおかげで家族は娘の身売りを避けられた。

このカトリック司教セントニコラウスの逸話は、もちろん聖書の書かれた後の話なので、聖書には出てきません。そして、この話では、三人の娘の身を救うためにセントニコラウスが差し出したものはお金でしたが、本当のクリスマスの意味は、私たちのおかした、またこれからおかすであろう、すべての的外れ(罪)の重みの代償として、自分のいのちを差し出した=つまり十字架にかかって死んだキリストに感謝し、そのキリストの誕生を祝うことです。この十字架の死のおかげで、私たちはどんな的外れをおかしても、神に立ち返りたい=的を当てなおしたいと思ったとき、すぐに戻ることができるのです。もちろん、ビル・ファン氏も立ち返り、赦されることができます。

本当のクリスマスの意味を思うなら、キリストの死にならって、痛みをもって与える(give)する、まあキリスト教用語では「自我に死ぬ」というような言葉を使いますが、自分がしたいようにではなく相手に合わせる、自分が使おうと思っていたものを相手のために差し出す、自分の時間を誰かほかの人のために使うというようなことが、本当のクリスマスgivingなのではないかと思うのです。ところが、これが商業化され、ブラックフライデーに始まりクリスマス商戦が繰り広げられ、人々はTo-doリストをこなすようにギフトを買い、またもらう人は欲しくもないものを貰い、クリスマスの後でどっと返品する・・ これも大きな的外れでしょう・・・

というような話が、教会ではクリスマスの時によくされます。巷は的外れなクリスマスを祝っていますが、クリスチャンの私たちは「ほんとうのクリスマスを祝いましょう」みたいな話もよく出ます。でも、実は、このクリスマス、聖書には一切出てこない話です。キリストの誕生の場面は出てきます。でも、それが12月25日だったとは、あの分厚い聖書のどこにも書いてありません。これもgoogle検索をしてみると、こんな感じのことが書いてありました。

クリスマスが始まったのは2世紀~4世紀頃と思われる(ちなみにキリストが生まれたのは紀元前数年前だと言われています)。ペルシャの太陽信仰ミトラス教という宗教の「光の祭り」が12月25日でした。また、ローマ帝国のもともとの土着の祭りである農耕の儀式も12月25日前後でした。そこでローマ皇帝が、これらの祭りをすべて吸収する形で12月25日をキリストの降誕祭に制定したといわれている。

なんと、クリスマスの起源は別の宗教だった!実際、当時のユダヤの慣習や文化を踏まえ聖書をよく研究してみると、キリストが生まれたのはユダヤの仮庵の祭り(秋)のころではないかと言われています。仮庵の祭りは聖書に何度も出てきます。まあ、聖書ははっきりと知らなければならないことははっきりと書いてあるので、キリストがいつ生まれたかが書いてないということははっきり知る必要がないことなのでしょう。クリスマスのように商業化、形骸化、的外れになる人間の性を知っての神様の知恵かもしれません。

とにもかくにも、聖書に出てこないクリスマスなら、教会で祝う「ほんとうのクリスマス」も実は「ほんとうのクリスマス」ではないことになり、私たちクリスチャンでさえ的はずれなことを行っているのかもしれません。(ちなみに、クリスチャンがお祝いするイースターも同様で、聖書に出てきません。)

自分は何かを知っていると思う人がいたら、

その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。

「自分はわかっちゃいない」 この心向きがたいせつなんだろうなと思うのです。

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2 comments

  1. クリスチャンの視点から語る投資に関するポスト、いつも心に染み入るように感じています。
    私はクリスチャンではありませんが、家族と何年も教会に通った身からすると納得することばかりで、
    聖書を基にいつも自分を振り返る姿勢を持つことができる岩崎様のようなクリスチャンは素晴らしいものだと憧れます。
    このような記事をまたは意見できるのを楽しみにしております。

    1. 新人さん、コメントありがとうございます。
      私は素晴らしい人間でもあこがれていただけるような者でもなく、ただただ罪びとです。ほおっておくと、ずれていく。。
      素晴らしいのは、そんな者をいつも引き止め、ケアし、導く神。
      忍耐と寛容というやさしさと、頑固おやじのような厳しさを持ち合わせた主です。
      新人さんも何年も教会に通った・・とおっしゃっておられますから、すでに神様の大きな恵みの中にしっかり入っておられますね。

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