花のふる日は63

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「まあ、今は、美人の奥さん専属の弁慶やけどな。子供、予定日いつやった?」
 安川の何気ない言葉に、千雪は表情を硬くした。
 コンビニでの二人のシーンが頭に蘇り、一気に現実を突きつけられた気がした。
 それが普通やん。
 何を動揺してんのや、俺は。
「ほんま? 研二もついにオヤジになるんか。何や、年くうわけやな」
 つとめてさり気なく口にしたつもりだった。
 だが、グラスを持つ手が震えているのに気づき、千雪はそれを隠そうとグラスを空ける。
「研二、祝い酒や、何飲む? ウイスキーとかブランデーとかもあるし? せや、これ開けよ、京助、カミュ?」
 シンクにグラスを持っていき、傍らに並べてあるブランデーのボトルを見ながらグラスを洗おうとして、千雪の手がすべり、他のグラスとぶつかって割れた。
「いってぇ………うわ、血ぃ出た」
 見る見る指先から溢れる血に、千雪は思わず目をつぶる。
「ったく、何やってんだ、お前は。救急箱、どこだ?」
 すぐに京助がやってきて蛇口を捻り、千雪の手を流水で洗い流す。
「電話台の下の引き出し……」
 京助が振り返ると、研二が既に救急箱を持って立っていた。
「ああ、悪いな」
 京助は救急箱から消毒薬とカットバンを取り出した。
「それ、古いんちゃう? 俺、ここ何年も中身見てないで」
「新しいぞ」
 京助は消毒薬のボトルを持ち上げて消費期限を確かめる。
「ほな、倉永さんが変えといてくれたんかな。うわ、京助、まだ、血ぃ止まらん」
「相変わらず、千雪は血ぃ見るん怖いんか」
 子供のように血を見て目をつむり、喚きまくる千雪を周りが面白がって囃したてる。
「お前、確か、ミステリー作家とかやなかったか?」
「うるさい、ほっとけ! 嫌いなもんは嫌いなんや」
「たかだか五ミリの傷だ、騒ぐほどじゃない。大体、珍しくシンクに立ったりするからだ、これで、よし!」
 京助がカットバンを巻いた指はまだ赤く滲んでいる。
「京助、まだ、止まらんで」
「ほっときゃ、そのうち止まる。お前はシンクに近づかんでいいからあっちに行っとけ」
「ちぇ、命令しよって」
 救急箱を閉じて立ち上がった京助は、そこに突っ立っている研二の目とまともに出くわした。
 その目の中に、京助は確かに剣呑なものを感じた。
「もう、いいよ、研二くん、君も座ってて。ブランデーは持ってくから」
 にっこり笑った京助だが、研二に返す眼差しは明らかに挑戦的になる。
 今さら千雪に弁慶は必要ないんだよ、お前さんは身重の奥さんの心配だけしていろよ。
 口にはしないが、心の中でも言葉で牽制する。
「京助さん、パイ、焼けました」
 シンクの奥で黙々と酢の物や豆腐で酒のつまみを用意していた井原が呼んだ。
「おう、サンキュ」
 オーブンから取り出したパイを切り分け、京助が小皿に盛りつけると、井原はつまみと一緒に酔っ払いがたむろすテーブルへと運ぶ。

 


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