ベルサイユ宮殿・・・年間600万人が訪れるフランス一の華麗な宮殿です。
中でも鏡の間の豪華さには誰もが驚かされます。
この宮殿の主が太陽王と言われたルイ14世です。
4歳で即位してから、実に72年間、フランス史上最長の王位を務めました。
しかし、その生涯は、華やかな宮廷とは裏腹に苦悩に満ちていました。

ルイ14世が即位する前のフランスでは、政治は宰相を中心に臣下が行っていました。
しかし、ルイは宰相ではなく、自ら国を統治することを宣言します。

1638年、パリから西へ19キロのサン=ジェルマン=アン=レー城で男の子が産声を上げました。
フランス・ブルボン王朝3代目となるルイでした。
しかし、幼いルイを待っていたのは、過酷な運命でした。
1643年、4歳の時、父・ルイ13世が41歳の若さで病死・・・
まだ5歳にもなっていないルイは、4歳で国王に即位します。
母が摂政となり、宰相のジュール・マザランと二人でルイを支えました。
ルイの教育係も務めたマザランは、イタリア人。
ローマ教皇庁で活躍していましたが、ヘッドハントされました。
ルネサンス文化が花開いたイタリア人らしく、政治だけでなく、芸術にも造詣が深かったのです。
マザランの影響で、ルイは絵画や建築などの芸術に、幼いころから興味を持ちました。
また、ラテン語や歴史の勉強よりも、乗馬や球技などの体を動かすことが大好きでした。
そんなルイは、窮屈な宮廷生活が苦手でした。
大使や各種団体の謁見、前線への訪問など、王は様々な行事に出席しなければならなかったのです。
私生活を持たない幼い国王・・・ルイは、ほとんど笑わなかったといいます。

「人前で話さなくてはならないとき、それが私には苦痛だった」byルイ14世

パリの中心部にあるパレ・ロワイヤル・・・現在は、文化省や国務院などが入る建物ですが、かつてはルイの住居の一つでした。
1648年、9歳のルイは、ここで命の危険にさらされていました。
当時、ヨーロッパでは、各国の利害が複雑に入り乱れ、戦争(30年戦争)が続いていました。
フランスは、隣国スペインが力を持つことを恐れ、ルイが生まれる3年前から戦争に参加。
マザランは、この戦費を賄うために、次々と新たな税制を導入します。
すると、重税に耐え切れずに・・・
1648年、ルイ9歳の時、各地で反乱(フロンドの乱)がおこります。
この時、ルイは忘れられない体験をします。
暴徒と化した民衆が王宮になだれ込み、ルイに寝室までなだれ込んできたのです。
ルイが出来ることと言えば寝たふりだけでした。
どうにか難を逃れたルイ・・・この後、ルイはパリを離れ、戦乱から逃れるために各地を転々としました。

それがトラウマに・・・??
パリの街への嫌悪感、パリの民衆への恐怖感・・・パリの中の王宮は、危険が高い・・・!!

フロンドの乱では、味方のはずの親族・貴族も反乱軍へ・・・!!
5年後、反乱はようやく治まります。
ルイは後に、こんな言葉を残しています。

「何人に対しても愛着を持ってはいけない」byルイ14世

1653年、14歳の頃・・・
ルイが熱心になっていたのがバレエでした。
バレエは、当時の貴族のたしなみで、ルイは7歳から27歳まで毎日2時間の練習をしていました。
14歳の時には、夜のバレエという演目で、太陽神アポロンを演じています。
この頃、「地動説」がヨーロッパではほぼ常識化していました。
太陽を中心として他のものは太陽の周りを回る=王様は太陽でなければいけない!!
これをイメージ戦略として、人々の心に無意識に刷り込んでいったのです。

真実のルイ14世 神話から歴史へ [ イヴ・マリー・ベルセ ]
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ルイが成長すると、マザランはルイを戦場に連れていきました。
1658年、19歳の時、フランス北部の戦場を視察したルイは、高熱を出して危篤になりました。
しょうこう熱だったといわれています。
当時の医学では手の施しようがなく、王の枕元には病を恐れて誰も近づきませんでした。
しかし、ひとりだけルイを熱心に看病する少女がいました。
マリー・マンシーニ・・・マザランの姪・・・ルイの初恋でした。
病が癒えるとパリに戻り、マリーと二人で過ごすようになります。

「王の心の中の動きについて、敏感な宮廷の人々も私と同じように、どうやら陛下が私を愛しておられることを見抜いていた」byマリー

マリーは、大の読書家でした。
ルイは、マリーに好かれようと、猛烈に読書し、この時期に多くの教養を身に着けたといわれています。
そんな王の気持ちに、マリーも応えるようになっていました。
1年後、ルイはマザランに「ルイと結婚したい」と告げました。
マザランは、ルイの母にこのことを相談すると・・・

「そのような考えを抱くなら、必ずや全フランスがあなたや彼を敵として立ち上がるでしょう
 私もまた、みずから反乱の先頭に立ち、自分の息子と戦うことになります」byアンヌ

母は、頑として許さず、2人は引き離されました。
当時、フランスは、隣国スペインと交戦中・・・母は、スペインと婚姻関係を結ぶことで、事態を納めようと考えていたのです。
1年後、フランスとスペインの平和条約が結ばれ、ルイはスペイン王女マリー・テレーズと結婚式を挙げるのです。
プライベートも王の仕事・・・

「自分が王であり、王となるために生れたのだという気がしたのだ」byルイ14世

その翌年の1661年、さらにショックな出来事が起こります。
ルイが22歳の時に教育係・・・宰相マザラン病死!!
ルイは、亡骸の側で涙を流したといいます。
翌日、大臣たちはルイにこう尋ねました。

「マザランがいない今、政治はどなたが??」

「朕だ!!」

ルイの回想録には、こう記されています。

「私は何よりもまず、宰相を用いないことを決めた
 一方では、王のあらゆる職務を果たす者(宰相)がいて、他方ではただ王という称号を与えられている者がいるというのは全くもって、けしからぬことだからだ」byルイ16世

ルイは、みずからが先頭に立つ親政で、フランスを率いていくと家臣に宣言しました。

ルイ14世は、22歳の時、ベルサイユ宮殿の建設を始めます。
ところが、完成までには50年近い歳月がかかっています。
建設には、1日当たり2万5000人が動員され、毎日のように死者が出たといいます。
どうしてそこまでしてベルサイユ宮殿を造ったのでしょうか??

ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」やラファエロの「美しき女庭師」・・・これらの名画は、いずれもルイ14世が所有していました。
芸術に高い関心を持っていたルイ14世・・・しかし、フランスは、この分野がイタリアより大幅に遅れていました。
宰相のマザラン亡き後、みずから政治を行ったルイ・・・まずは芸術振興に力を入れます。
芸術作品の保護や研究、普及を目的としたさまざまなアカデミーを設立。
絵画や彫刻、建築に関わる芸術家を支援しました。
この時に設立した王立舞踊アカデミーは、「オペラ座バレエ団」のもととなっています。
ルイは、アカデミーのメンバーにこう言います。

「諸君は、私が諸君をとても高く評価していることが分かるだろう
 なぜなら、私にとって最も大切なものを、諸君に委ねているからだ
 それは、私の栄光である」byルイ14世

芸術政策の一番の目的は、王の栄光を世に広めることでした。
その為、王の偉業をたたえる戦争画が、数多く書かれました。
さらに、凱旋門や広場を造って、パリの街を改装、庶民にも王の栄光をわかりやすく示して見せました。

1661年、ある苦々しい出来事がきっかけで、ルイはベルサイユ宮殿に情熱を傾けることとなります。
原因は、臣下のニコラ・フーケです。
フランスでも指折りの金持ちで、芸術にも精通していました。
その年、ルイはフーケの城のパーティーに招待されます。
17世紀建築の傑作といわれる美しい城で、壮麗な宴が催されました。
フーケは非常にセンスがよく、ヴォール・ヴィコント城は非常に均斉が取れて均一でした。
特に庭園は、左右対称のシンメトリックで、直線と曲線を使い、美的にすっきりしています。
ルイ14世はフーケに激しく嫉妬しました。
彼は権力の中心・財力の中心であるだけでは気が済まなかったのです。
美的なものの中心でもいなければならなかったのです。
3週間後、フーケは公金横領罪で逮捕・・・ルイの指示による無実の逮捕だったといわれています。
ルイは、フーケのもとで働いていた建築家、作庭家、画家たちをそっくり引き抜き、みずからの宮殿を作らせます。
ルイの宮殿は、パリの南西22キロのベルサイユで造られていました。
当時のベルサイユは、父・ルイ13世が狩りを楽しんだ森が広がるばかりの田舎でした。
この地を選んだ理由には、ルイの少年時代の経験がありました。
フロンドの乱で民衆にはやに乱入されるという体験をしました。
ベルサイユはパリから22キロ離れているから民衆が乱入するなんてことはないのではないか??と考えたのです。
宮殿づくりの流れは・・・
もともと父が狩りのために使っていた小さな館がありました。
ルイは、この館を改装し、周りに厩舎と使用人の居住棟を建てました。
そして、庭園を大々的に改造します。
広大な敷地を整備し、左右対称の幾何学模様のデザインをもとにフーケの城から移植した千数百本のオレンジをはじめ次々に樹木を植えていきました。
フーケの城の庭を造った作庭家に、ベルサイユの庭も作らせたため、二つはそっくりとなりました。
そして、父の館を取り囲む形で新しい建物を増やしていきました。

ベルサイユ宮殿を造り始めて17年ほどたったころ、ルイは南の翼棟と北の翼棟の建設を指示します。
南の翼棟は王侯たちの住居、北の翼棟は貴族たちの住居です。
ルイは、貴族をベルサイユ宮殿に住まわせて、みずからの監視下に置こうとしました。

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1682年、ルイは都をパリからベルサイユに遷都しました。
そして、貴族や役人、召使など3000人あまりがこの宮殿で過ごすようになります。
2年後・・・鏡の間が完成・・・
庭園に面した回廊を少しでも明るくするために、鏡が357枚使われ太陽の光を反射させました。
ルイは、その出来栄えに大満足だったといいます。
鏡の間には、政治的役割がありました。
外国の使節が王に謁見するには、戦争の間から鏡の間を通って平和の間で待つ王のもとに来ることになっていました。
どんな国から来た使節でも、鏡の間の豪華さに気後れし、ルイに会う時には圧倒されてしまったといいます。
ベルサイユ宮殿で、最も豪華な部屋の一つがアポロンの間です。
この宮殿を造るうえで最も大事だったのは、太陽王のイメージを強調することでした。
その為、宮殿内には至る所に太陽神アポロンがいます。

「太陽は全ての国に光を届け、平等で公平だ
 あらゆるところで晴明、喜び、活動を絶え間なく生み出し、あらゆる場所で善をもたらす
 太陽はまさに偉大な王国の最も生き生きとした最も美しいイメージとなるのだ」byルイ16世

この豪華な宮殿の建築費用を調達していたのが、財務総監のコルベールでした。
小貴族の生まれでしたが、有能だったのでマザランに取り立てられ、ルイの側近となっていました。
コルベールは、重商主義を行います。
高い関税をかけて輸入を減少させ、国産品の質を高めて輸出を増加させ、外貨を稼ごうとしました。
その為に職人の養成に力を入れます。
外国の優秀な職人を連れてきたり、職業訓練学校を設立したり、職人を育てました。
ベルサイユ宮殿の建築でも、こうして育てた職人が活躍します。

「フランスは、実際に必要なもののすべてを生産することができる
 したがって、国境の外から何も買ってはならない
 反対にフランスは、余ったものをすべて外国に売らねばならない」byコルベール

ルイの日常は、時間通りにおこなう儀式で埋め尽くされます。
朝起きるとすぐに”起床の儀”・・・貴族たちが、ルイの身支度を手伝います。
この時、身分によって誰がどの衣装を王に着させるのか、細かく決まっていました。
例えば、下着を渡すのは、その場で最も身分が高いものでした。
ルイはこうして、誰の地位が高いのか、一目でわかるようにして忠誠心を煽りました。
宮廷儀礼を細かく行うことによって、宮廷人を全部序列化したのです。
軍事力で支配しようとすると、近衛兵を古文の周りにはべらせないといけないが、軍事力によらない支配の仕方を考え出したのです。

ベルサイユ宮殿は、一般庶民にも公開されていました。
ルイは、王の寝室すらも公開していました。
ルイは、便座に座り、人前で用を足すこともありました。
かつて、人前で話すことも苦痛でしたが、その気後れはすぐになれるものだと語っています。
普段は威厳を保っていましたが、イタリアのある貴族はこんな姿を目撃しています。

「扉がたまたまあけられたり、王が寝室の外に出るとき、彼は急いでもったいぶった態度を取り、表情を作る
 それはあたかも、舞台に上がる時のようだ
 要するに、彼はどのように王を演じたらよいかよく知っているのだ」

ルイ14世の正妻は、スペイン王家から来たマリー・テレーズでした。
しかし、ルイは結婚後も新しい恋人を次々と作りました。
恋=ベルサイユ宮殿の改築していきます。
1661年、結婚して1年後の22歳の時にアンリエットに恋をします。
彼女はルイの弟フィリップ・ドルレアンの妻でしたが、二人の仲は冷え切っていました。
アンリエットと親密な関係になったルイは、ベルサイユ宮殿の居住部分を改築・・・自分の寝室の真下に弟負債の寝室を作り、彼女の部屋に行きやすいようにしました。
側室が公認だった当時でも、さすがに弟の妻は問題・・・と、母にたしなめられます。
ルイがそのことをアンリエットに相談すると・・・

「陛下が私のところに忍んで来られるのは、私の侍女に恋をしているからだと思わせるようにするのです」

侍女を使ってカムフラージュを提案します。
ルイの愛人役に選ばれたのは、侍女ラ・ヴァリエールでした。
しかし、ルイは彼女にも本気で恋をしました。
ラ・ヴァリエールは、内気で純朴な女性でしたが、文学や芸術への深い教養が、ルイを惹きつけたといいます。
ベルサイユ宮殿の建設で、初めに庭園を整備したのは、ラ・ヴァリエールを喜ばせるためだったといわれています。
ルイは、彼女のために芝生や花壇を作りました。

1664年、25歳の時にはラ・ヴァリエールのためにベルサイユの庭園に600人を招き、3日に渡って祝典・・・祝典「魔法の島の歓楽」を開きました。
ラ・ヴァリエールは公認の側室となり、2人の間には4人の子供が出来ました。

ところが、ラ・ヴァリエールの妊娠中、ルイに積極的にアプローチする女性が現れました。
絶世のびじゅと言われたモンテスパン夫人です。
2人とも配偶者がいましたが・・・1666年、28歳の頃、恋に落ちます。
しかし、ルイは、ラ・ヴァリエールとも別れなかったので、2人の女性との関係は、そのまま8年間も続けました。

1667年、28歳の時にベルギーに侵攻し、戦争(フランドル戦争)を始めます。
自分の勇士を見せるためです。
鏡の間・・・今のベルサイユ宮殿の元が造られたのは、モンテスパン夫人のためだったといわれています。
「戦争」と「宮殿の改築」が、自己表現だったのです。
モンテスパン夫人は、ルイの子供7人をもうけます。
それをいいことに、王妃のような振る舞いをはじめ、10年以上、宮廷内で権勢を振るいました。
ところが、転落の日は突然やってきました。
モンテスパン夫人は、ラ・ヴァリエールを捨て、自分だけを愛するように黒ミサに参加していました。
この事実が発覚すると、ルイが彼女と会うことは二度となくなりました。

ルイの女性遍歴は、まだまだ続きます。
次は、子供の養育係だったマントノン夫人。ルイより3歳年上で、夫と死別していました。
教養豊かなマントノン夫人に対し、ルイははじめ”気取り屋のインテリ女”と決めつけ、不愛想に接していました。
しかし、預かっていたルイの娘がわずか2歳で他界すると、マントノン夫人は大粒の涙を流して詫びました。
その姿にルイは感動したといいます。

「マントノン夫人は人を愛することを知っている
 彼女に愛されたなら、とても幸せだろうな」byルイ14世

文学や芸術に詳しく、知的で優しいマントノン夫人に惹かれていきました。

1683年、ルイが44歳の時、正妻マリー・テレーズが病死・・・
その2か月後、ルイはマントノン夫人(48歳)と秘密結婚。
ルイは、このことを公表しようとしましたが、彼女は身分違いの結婚は周りの反発を招くと強く反対・・・結婚は秘密とされました。
マントノン夫人は、敬虔なカトリック信者で、終始穏やかな態度でルイに接したといいます。

ルイが女性と宮殿づくりに夢中になっている間に、フランスの財政はどんどん悪化・・・
戦争や宮殿にかかる莫大な費用を側近のコルベールがなんとかやりくりしていました。
しかし、この後、コルベールを失うと転落の一途をたどることになります。

国王に権力が集中し、フランス絶対王政・・・ベルサイユ宮殿は、ルイ14世がフランス中の貴族を従わせた象徴でもありました。
ヨーロッパ各国との戦争でも勝利、その力を国の内外に見せつけました。
しかし、ルイが跡継ぎに残した言葉は・・・

「私のマネをしてはならない!!」byルイ14世

1685年、47歳の時にルイは、大きなミスを犯してしまいます。
国中のプロテスタントを弾圧します。
フランスは、国王を中心に多くがカトリックでしたが、財務担当のコルベールはプロテスタントの生活を保証しました。
何故なら、プロテスタントには優秀な職人が多かったからです。
フランス経済のために必要な人材でした。
しかし、コルベールが病死すると、プロテスタントに改宗を迫るなど、風当たりが厳しくなっていきました。
これには、敬虔なカトリック信者であるマントノン夫人の影響があったともいわれています。
フランス国内では、竜騎兵と呼ばれる武装集団が現れます。
彼等は、各地でプロテスタントに乱暴を働きました。
武力によって改宗を迫られたプロテスタントは、次々と国外に亡命!!
その数は、およそ20万人といわれています。
国外逃亡したのは、主に商工業者が中心でした。
それは、コルベールが育てた商工業者たちでした。
この人たちが逃げ出したおかげで、逃亡先の国で新しい産業が起こりました。
スイスの時計工業・・・これは、フランスにあった時計工業がスイスに移ったものです。
せっかくコルベールが財政バランスを均衡させていたのに、無茶苦茶になってしまいました。

さらに、ルイの宗教弾圧に反感を持った周りの国々が、対フランス同盟を結成し、戦争が勃発します。
1688年、50歳の時アウクスブルク同盟戦争・・・フランス1国でヨーロッパ中を敵に回す大戦争になってしまいます。
戦争は9年も続き、ルイは今まで獲得した領土を失いました。
戦争に加え、飢饉も広がり、国家は財政危機に陥ります。
収入を上げようと、ルイは重税を全国民に課しますが、反感を買うだけで効果は薄いものでした。
さらにルイは暴走します。
戦争が終わってわずか5年・・・1702年63歳の時にスペイン継承戦争勃発!!
王様に直接意見を言える人が誰もいなくなってしまっていました。
そして・・・ルイ14世自身も、だんだんと衰えてきていました。
最後は、まったくやる必要のない戦争を始めてしまったのです。

王家にも、不幸が続きます。
ルイ14世が72歳の時点では、王位をつぐ資格のある男子は6人おり、ブルボン家は安泰と思われていました。
しかし、次々と病で亡くなるなどわずか3年で皇位継承者は4歳のひ孫だけになってしまいました。
76歳のルイ・・・糖尿病と思われる病に苦しみながらも儀式に出ました。
任せられるものがいなかったのです。
そして太陽はついに沈んでしまいます。
その少し前・・・ルイは跡継ぎのひ孫にこんな言葉を残しています。

「戦争に関して私のマネをしてはならない
 常に周りの国との平和の維持に努めよ
 そして、良い助言に耳を傾けて、出来る限り国民を豊かにさせよ
 残念ながら、私にはそれが出来なかった」byルイ14世

ルイ14世が亡くなって74年後、フランス革命によって王政は倒されます。

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