1960年、南米アルゼンチン・・・
イスラエルの諜報機関モサドが、敗戦から15年後もなお逃走を続けるナチス幹部たちを追っていました。
大物幹部の隠れ家が見つかり、一人の男が拘束されました。
アドルフ・アイヒマン・・・リカルド・クレメントと偽名を使い、身をひそめていました。
アイヒマンは、ユダヤ人の強制収容所移送の中心人物でした。
ナチスの犠牲となったユダヤ人は、600万に及びます。
逃走中のアイヒマンが語っていた肉声が残されていました。
「ユダヤ人のその後の運命に関心はありませんでした
彼等の生死など、関係なかったのです
私たちが1030万の依田屋人をすべて殺すことができたら、満足してきっとこう言ったでしょう
”これで敵を根絶できた”」byアイヒマン
しかし、逮捕を指揮したモサドの長官は、狂気の実行者を見て驚きます。
「初めてアイヒマンと会ったとき、私は唖然とした
いったいどうしてこんなごく普通に見える人間が怪物になったのか」by長官
世界を地獄に突き落とした800万の巨大政党・・・ナチス。
狂気の帝国を作り上げたのは、独裁者に命を捧げたエリートたちでした。
稀代の扇動家・・・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス
ドイツの全メディアを支配し、プロパガンダ国家を作りあげました。
国民をナチスの思想に染め上げ、狂気へと駆り立てました。
「私の身にもしものことがあった場合、私の後継者はゲーリングである」byヒトラー
ヒトラーに次ぐナチスNo,2に上り詰めた国家元帥ヘルマン・ゲーリング
ドイツ軍を率いてヨーロッパを蹂躙し独裁者の狂気を世界へと解き放ちました。
親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラー
純血主義に基づくエリート集団・親衛隊を指揮し、冷酷無比の計画によってホロコーストの狂気を実行しました。
「500から1000の死体の山を多くの者が目にしてきただろう
だが、それは愛する国民のため、任務を果たしたに過ぎない」
ひとりひとりはごく普通の人間でした。
それがなぜ、狂気にとりつかれていったのでしょうか。
ヒトラーとナチ・ドイツ【電子書籍】[ 石田勇治 ]
ドイツに巨額の賠償を課したベルサイユ条約によって、国民は貧困と飢えに苦しんでいました。
政治は混乱し、暴動やストライキが頻発・・・各地で極右組織が乱立し、社会は騒乱状態に陥りました。
「お金だけでなく、すべての価値観が崩れ去り、意味を失いました
至る所に救世主を名乗る人が現れ、
”世を救うため神に遣わされた”と言いました」
一人の男が酒場の酔っ払いたちを相手に演説をうち、喝采を浴びました。
後のナチス総統アドルフ・ヒトラーです。
ナチス・・・国家社会主義ドイツ労働者党は、地方都市ミュンヘンを拠点とする50人ほどの弱小政党でした。
第1次大戦で、一兵卒だったヒトラーをはじめ、党員のほとんどが労働者や元軍人・・・
反ユダヤを表す鉤十字を掲げ、ナチス一党独裁によるドイツ復興を訴えました。
しかし、一般大衆の支持を得ることはありませんでした。
「初めの頃は、演説を聞きに集まる人々が時には7,8人しかいなかった
人々が当時、我々を攻撃したとしても、それどころか嘲り笑ったとしても、我々は幸福にひたったに違いない
何しろ我々が憂鬱だったのは、ただ完全に無視されることだったからだ」byヒトラー
ナチスの看板部隊・突撃隊・・・
ならず者の戦闘集団だった突撃隊・・・それをヒトラーに忠誠を尽くす軍事組織に鍛え上げたのは、ひとりの元軍人でした。
ヘルマン・ゲーリング・・・後のナチス国家元帥です。
ナチ党員には珍しい上流階級の出身でした。
ゲーリングは空軍のエースパイロットとして活躍し、敵18機を撃墜し、最高武勲章を受章・・・
戦場の英雄となりました。
しかし、敗戦ですべてが一変します。
ドイツ軍は、軍備を制限され、空軍は解体されました。
職を失ったゲーリングは、曲芸飛行士となるも長くは続きませんでした。
絶望の淵で、ゲーリングはヒトラーの演説を聞きました。
「ドイツは戦いに負けたのではない
ユダヤ人と共産主義者の陰謀によって敗戦国となったのだ」byヒトラー
その言葉に、ゲーリングは魅了されました。
「その確信を持った言葉は、一言一句まるで私の魂からほとばしり出るかのようだった
良い時も悪い時も、私はあなたに運命を委ねよう
それがたとえ、私の命を懸けることになったとしても」byゲーリング
英雄の入党に、ヒトラーは大喜びしました。
「素晴らしい!!
勲功章を授かった戦場の英雄とは!!
想像したまえ
これ以上ないほどの宣伝だ!!
その上彼は、金持ちで、私は一文の金も払う必要がないのだ」byヒトラー
入党間もないゲーリングを、ヒトラーは突撃隊の隊長に就任させます。
統率の取れなかった隊員たちに、ゲーリングは将校の経験を活かして規律と団結心を叩き込みます。
英雄の入党は話題を呼び、隊員も急増・・・突撃隊はナチスの看板部隊となっていきました。
「ハッキリ言って荒っぽい怖そうなチンピラと思っていた隊員も、今ではすっかり変わって光の戦士となりました
いつでも前身の用意のできている熱烈な十字軍戦士となっています」byナチ党員
ナチスは、ミュンヘンの強力な極右政党に成長・・・党員は5万5000人にまで成長していました。
1/16 ヘルマン・ゲーリング(WW I エースパイロット)【MA16034】 プラモデル ミニアート
1923年11月・・・ミュンヘン一揆・・・
ナチスは政権を奪おうと武装蜂起を決行しました。
政治要人がそろう集会を襲撃し、突撃隊の機関銃で会場を威嚇、ヒトラーは要人たちを人質にし、呼びかけます。
「今ミュンヘンで、国民革命が始まった
市全域は直ちに我が舞台によって占領される」
しかし、計画は素人同然でした。
人質に逃亡を許し、警察が出動・・・突撃隊は、なすすべもなくとらえられ、武装蜂起は一晩で鎮圧されました。
ヒトラーは逮捕・・・ゲーリングは国外に逃亡しました。
ナチスは活動を禁じられ、逮捕者の多くは刑務所に収監されました。
自殺まで思いつめたヒトラーを、供に収容されていた共に収容されていた一人のナチ党員が支えます。
ルドルフ・ヘス・・・後の総統代理です。
ヒトラーの秘書として常に付き従っていたヘスは、大学で地政学を学んだ秀才でした。
中等教育しか受けていないヒトラーにとって、ヘスの豊富な知識は発見に満ちていました。
ヘスは、ドイツ地政学の権威ハウスホーファー教授を獄中でヒトラーに引き合わせます。
教授は、ドイツが再び強国となるためには、東への領土拡大が不可欠だと考えていました。
新たな着想を得たヒトラーは、ヘスと二人三脚で、みずからの政治思想を書き上げます。
「わが闘争」です。
”ドイツが領土を拡張するといえば、それはロシアを犠牲とする他に道がない
ロシアを分割して、ドイツは大きくなるのだ”
これがナチスの根幹思想の一つ・・・東方生存圏の拡大となります。
ヒトラーは、その実現に向け、武装闘争をやめ、選挙活動に専念すると、ヘスに告げました。
「我々は国会に首を突っ込もう
確かに、選挙で勝つのは時間がかかる
だが、最終的には奴らの憲法が我々に勝利の道を保証するのだ」byヒトラー
再起を目指そうとするヒトラーを見て、ヘスはこう綴っています。
「私は前よりもっと総統に傾倒している
私は彼を愛している」byへス
1924年、1年足らずでヒトラーは釈放・・・
しかし、政府はナチスを危険集団と見なし、ヒトラーの演説を禁止しました。
選挙活動の道を閉ざされたヒトラーのもとに、ひとりの青年から手紙が届きました。
送り主は、ヨーゼフ・ゲッペルス・・・後の宣伝大臣です。
「あなたは奇跡をおこない、我々の心にかかる雲を取り除かれた
いつの日か全てのドイツ人があなたに感謝するでしょう」byゲッベルス
ゲッベルスは、ハイデルベルク大学哲学科で、博士号を取り、駆け出しの文筆家として活動していました。
新聞で、ミュンヘンでのクーデターを知って、ヒトラーこそがドイツの指導者だと確信したのです。
ゲッベルスは、活動を禁じられたヒトラーに変わり、最初の一年で189回もの演説をこなしました。
ゲッベルスには、聴衆を陶酔させる演説の才が備わっていました。
「我々は、国民にパンを、国家には栄誉を取り戻すことを決意している」byゲッベルス
ヒトラーは、ゲッベルスの才能に惚れ込みました。
「ゲッベルスこそ私は長い間待ち望んでいた人間だ
この難しい仕事にうってつけの男だ」byヒトラー
1926年、ゲッベルスはナチス・ベルリン地区の指導者の就任。
ミュンヘンの地方政党に過ぎないナチスにとって、首都ベルリンの攻略は最重要課題でした。
首都では無名のナチスの知名度を上げるために、ゲッベルスはあらゆる手法を繰り出しました。
敢えて対立政党の地盤で、過激な演説を打ち、反発を先導します。
会場の緊張が高まったところに突撃隊を突入させ、大乱闘を繰り広げました。
ゲッベルスの起こした乱闘騒ぎは、翌日の新聞各紙の一面を飾りました。
ナチスの事務所には、2600通の入党志願が届きました。
批判を煽ることで、注目を集める・・・炎上商法です。
1928年、ナチスは国政選挙で12議席を獲得・・・
国会進出の一歩を勝ち取りました。
ヒトラーは、オーストリア出身で、ドイツ国籍がなく、議員にはなれませんでした。
その為、国会での活動は亡命先から帰国したゲーリング、ゲッベルスに託されました。
しかし、ナチスにとって、国会進出は野望実現の通過点にすぎませんでした。
「我々は、議会の友人ではない
中立の立場でもない
我々は敵としてやってきた
狼が羊の群れに襲い掛かるようにここに来たのだ」
1929年8月ニュルンベルクで行われたナチス党大会・・・
ナチス党員は、13万・・・ミュンヘンでの武装蜂起から6年で2場以上に膨れ上がっていました。
しかし、大方の国民は、ナチスの躍進を一過性のブームとしか考えていませんでした。
当時の三大新聞の一つ、ベルリン日刊新聞は、ナチスについてこう断じました。
「行きどころのないアウトロー気分
迷える子羊たちの若気の至り
自分とは別の人種をねたむ劣等感
雲をつかむような政治主張
むき出しの暴力本能
理想主義を装う自己陶酔
そうしたものをごたまぜにして抱え込んだ団体である」
しかし、この年の10月、ナチスにとって天祐ともいえることがいきます。
1929年10月、アメリカ・ウォール街で株価が大暴落・・・世界恐慌へと広がります。
ドイツ政府は、有効な政策をうてず、失業者は300万人に上りました。
国民の間に、政府への失望が広がっていました。
「何千もの工場が閉鎖された
政府の対策は国民には冷たく、まじめな労働者は食べ物が欲しければ盗みでもするほかない
だからナチスに入党したのだ」
失業者の不満の受け皿となったのが、強いドイツの復活を国民に約束するナチスでした。
「私はドイツ国民に証明する
国が生き残るのに必要なのは”正義”でありその”正義”に必要なのは”力”でありその”力”の源は国民ひとりひとりの強さなのだと!!」byヒトラー
この時期、失業者の指示を集め、急成長を遂げる党がもう一つありました。
ドイツ共産党です。
労働者による革命を訴える共産党は、ナチスとしばしば激しい衝突をしました。
共産党の準軍事組織・赤色戦線は、街頭に繰り出し、ナチスを攻撃しました。
1930年1月、事件が起きます。
ナチス突撃隊中隊長ホルスト・ヴェッセルが、共産党員に銃撃されたのです。
政治とは無関係な女性をめぐるいざこざでしたが、ゲッベルスは事件をナチスのプロパガンダに利用しました。
ホルスト・ヴェッセルは、共産党との闘争の殉教者とされ、ナチスのキリストと祭り上げられます。
ゲッベルスは、いささかの迷いもなく、プロパガンダを実行していきます。
「”あなたはただのプロパガンディストだ”といわれれば、答えはこうだ
”キリストは他の何だというのだ 宣伝しなかったか
本を書き、説教したではないか
ムハンマドは、何か違っていたのか?
ブッダは宣伝課ではなかったか?”」
ナチスと共産党との闘争は、血で血を洗うものとなっていきます。
「突撃隊院の一人が、赤色戦線の一味に襲われた
白昼、人通りの中でカミソリで喉を切り付けられたのだ
その突撃隊院は即死した
翌日、爆弾がさく裂し、ピストルがなった
共産党の指導者2人が、路上で射殺された
これが、赤のやつらに道理を教える唯一の手段だ」byゲッベルス
共産党との抗争は、この上ない選挙戦伝となりました。
共産主義を嫌悪、恐怖する人からの支持を集めたのです。
弱小政党だったナチスは、107議席を獲得し、最大野党に躍進!!
「私たちは、粘り強い闘争の末に、労働者を赤いベルリンから奪い取ったのだ
労働者を獲得する者は、国民を獲得する
国民を獲得する者は国家を獲得する!!」byゲッベルス
新時代の政党として、ナチスは一躍メディアの注目を集めます。
ナチスの次の目標は、政権の獲得でした。
国会で政府を攻撃するゲーリングの肉声が残されています。
「戦闘にことごとく負ける司令官は、戦場を去るべきです
軍隊は、ひとりの司令官のために血を流すべきではなく、国民もまた、事態を収束させる能力のない政府のために破滅させられるべきではありません」byゲーリング
戦場の英雄・ゲーリングは、その知名度を生かし、大統領ヒンデンブルクに接近します。
しかし、陸軍元帥でもあるヒンデンブルクは、一兵卒上がりのヒトラーを軽蔑していました。
「あの男を私の下で首相にしろというのか?
やつには郵便局長あたりがうってつけだ
私の肖像が描かれた切手でもなめるがよい」byヒンデンブルク
ゲーリングは、大統領の息子を賄賂で口説き落とし、会談のチャンスを使います。
1931年、ヒトラーとヒンデンブルクの会見が実現・・・色物政治家とみられていたヒトラーに、権威が添えられました。
ナチスに対する国民の支持が高まると、財界との関係も深まっていきます。
ゲーリングは、共産主義の台頭を危惧する資本家や、銀行家の協力を取り付けます。
ナチスは、次々とパトロンを獲得し、多額の選挙資金を手に入れます。
「ナチズムより、共産主義の方がはるかに危険だ
民間企業軽視など、極左の方が人の道から外れている」by元国立銀行総裁
ナチスは、これまでの過激な主張を隠し、資本家には共産主義者からの保護を、労働者や農民には悪徳資本家からの解放を約束しました。
1932年7月・・・ナチスは230議席を獲得し、遂に議会第一党となりました。
1933年1月、ヒトラー首相就任・・・1年前にドイツに帰化したばかりでした。
「この運動を成し遂げるため、7人の党員から1200万人の支持を得る政党へ成長させたように、これからも我々は躍進するつもりだ!!」byヒトラー
「1933年1月30日は、ドイツがかつての栄光を取り戻した日として、その歴史に深く刻まれるであろう」byゲーリング
「夢か幻か、今、私はヒトラーと共に首相官邸の執務室にいる」byへス
「いったん我々が権力をとったら、決して手放しはしない
我々が死体となって官邸から運び出されない限りは・・・!!」byゲッベルス
政権を獲得すると、隠していた狂気はすぐにあらわになりました。
最初に動いたのはゲーリングでした。
ベルリンがあるプロイセン州の内務省を掌握!!
警察組織から反対勢力を一掃し、ナチ党員で固めました。
さらに、補助警察として、突撃隊を採用し、戒護権限と武器を与えます。
ゲーリングは、ナチスの意のまま動かすことのできる警察権力を作り上げました。
「内務省のTOPに立つことを引き受けた時、私はいかに困難な任務を背負ったかを自覚した
今後、権力の中に紛れ込んだ政治的異分子どもを、鉄の放棄で一掃するつもりである」byゲーリング
政権獲得の翌月、ナチスに再び天祐とも思われる事件が起こりました。
1933年2月27日、国会議事堂放火事件
国会議事堂が放火され、全焼したのです。
現場にいたオランダ人の共産党員が逮捕されました。
証拠がないにもかかわらず、ゲーリングは共産党の組織のテロと断定し、大統領緊急令が発令されました。
共産党員を中心に2か月で2万5000人以上が拘束、首都ベルリンは混乱に陥りました。
翌月、オペラハウスで、臨時に開かれた議会は、ナチスの突撃隊に取り囲まれます。
ヒトラーは、混乱に乗じて自らへの権力集中を国家に要求・・・
暴力と恐怖を後ろ盾として、全権委任法が成立しました。
ナチス以外の政党活動家禁止され、合法的に一党独裁が確立しました。
「祖国ドイツは、危機に瀕している
だからこそ、我々は国家社会主義を6500万の国民に広げようとしているのだ
全国民が、国家社会主義者に!!
最高だ、素晴らしい目標だ」byナチ党員
「ドイツ万歳!!」
ナチスが設立した世界国家機関・初の宣伝省・・・
ヒトラーは、国民をナチスの思想に染め上げる重要なポストにゲッベルスを指名しました。
「我々には優れた政府が必要だ
そして優れた政府には、優れたプロパガンダが必
両者は、不可分の関係にある
プロパガンダを行わない政府は非常に弱く、政府無しにプロパガンダをするのと同じくらい意味がない
両社は互いに補い合っているのだ」byゲッベルス
ゲッベルスのプロパガンダは、ドイツ社会を劇的に変えました。
新聞、出版、映画・・・すべてのメディアを管理下に置き、当時最新のラジオも活用しました。
「人々の憎悪や闘争は、ある特定の者によって育まれる
奴らは民衆を対立的に駆り立て、平和を求めない
どこでも金儲けを始めるユダヤ人どもこそ、国際的な不穏分子だ」by工場でのラジオ公開放送でのヒトラー
ゲッベルスは、決められた時間にラジオ放送を集団で聴取させる国民運動を展開しました。
国民は、ナチスの思想を否応なく刷り込まれました。
ナチスには、入党希望者が殺到・・・新規の入党が宣言されるほどでした。
哲学者・・・マルティン・ハイデガー
指揮者・・・ヘルベルト・フォン・カラヤン
ファッションデザイナー・・・ヒューゴ・ボス
も、ナチスに入党しました。
「プロパガンダには秘訣がある
何より人々にプロパガンダと気付かれてはならない
同様に、プロパガンダの意図も巧妙に隠しておく必要がある
相手の知らぬ間にたっぷりの思想をしみ込ませるのだ」byゲッベルス
「ゲッベルスが、最初におこなった大規模なプロパガンダは、ユダヤ人商店のボイコットた
ユダヤ人商店ボイコット運動は、午前10時に始まり瞬く間に街に広がった
規律ある行動のため、大きな混乱はない」
ナチス政権の誕生後、世界各国にいるユダヤ人が、反ナチス運動を展開していました。
世論をかわすために、普通ならボイコット運動を弱めるところですが、しかし、ゲッベルスはさらにユダヤ人への迫害を強化したのです。
贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争 [ 吉田 喜重 ]
ドイツからのニュースを知った各国のユダヤ人は、ナチスを刺激することを恐れ、反ナチキャンペーンは収束に向かいました。
「ボイコットの効果をはっきりと認めることができる
諸外国は、徐々に理性をとり戻しつつある
世界もユダヤ人にドイツのことを話させておくのはためにならないと悟るだろう」byゲッベルス
ヒトラーは、ゲッベルスの長年の貢献を讃え、最大の賛辞を送ります。
「10年前、貴君は私からナチスの旗を受け取った
その旗は、貴君の手によりドイツ国家の首都で掲げられ、今や国家を象徴するはたとして翻っている
ゲッベルス博士に最大の謝意を表する
我らがゲッベルス博士に!」byヒトラー
プロパガンダで拡大を続けるナチス・・・しかし、党内ではあらたな火種が生まれていました。
突撃隊の巨大化です。
党の創成期を支えた突撃隊は、政権発足後300万の隊員を抱える巨大軍事組織へと変貌していました。
ドイツ国防軍の5倍の兵力を誇り、もはや、一政党の軍事組織とはいえなくなっていました。
その頂点に君臨したのは、機関銃の王の異名を持つ突撃隊幕僚長のエルンスト・レームでした。
ミュンヘン時代からの最古参であるレームは、ヒトラーをお前と呼ぶことのできる数少ない盟友でした。
「突撃隊の諸君、ハイル!!
はっきり述べよう
突撃隊の諸君、ひとりひとりの功績があるからこそ、新生ドイツは今日、世界と対峙しうるのである!」byレーム
レームは、ドイツ国防軍を解体し、突撃隊に統合するようにヒトラーに迫りました。
しかし、ヒトラーは拒絶・・・
レームが軍部まで掌握すれば、自分の地位を脅かす恐れがある・・・
権力という魔物が、2人の長年の友情をあっけなく壊しました。
「アドルフは豚だ
やつはすべてを台無しにするだろう
古い帝国軍の二番煎じでは駄目だ
300万の男が私にいることを忘れてはならない
やつが同意しないなら、武力を行使しなければならない」byレーム
ナチスは、ヒトラー派とレーム派に分かれ、政権崩壊のうわさが広まります。
ヒトラーは、盟友の粛正を決断しました。
1945年、イギリスが制作した「アドルフ・ヒトラーの肖像」という再現映画では・・・
突撃隊幹部100人以上が、裁判もなく次々と殺害されました。
”逃亡しようとしたため射殺”・・・それが公式な声明でした。
レームは最後まで自殺を拒否し、射殺されました。
突撃隊の粛正・・・その冷酷な任務を遂行したのは、ヒトラーの護衛組織・親衛隊でした。
後に、ユダヤ人大虐殺を実行するナチスのエリート部隊です。
親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは、この事件を機にまだ小さかった親衛隊を突撃隊に変る看板部隊にすることに成功します。
「我々は何のためらいもなく、命じられた任務を遂行した
過ちを犯した同志たちを、窓際に立たせ射殺したのだ
我々はこの件について、二度と口にすることはない
しかし、命令が下されれば、再び同じ行動をとるだろう」byヒムラー
ヒムラーは、教師の家庭に育ち、虫一匹殺さない少年でした。
しかし、大学在学中に政治活動に参加し、反ユダヤ主義に傾倒・・・
親衛隊に入隊して頭角を現し、その指揮官に任命され、ヒムラーは親衛隊を、ナチスの純血主義を体現するエリート部隊へと育て上げました。
隊員の条件は、身長170センチ以上、ナチスの定義する純粋なドイツ人であること・・・
隊員には、人種調査が行われ、1800年にまで遡った家系図の提出が義務付けられました。
強靭な肉体と、高い身体能力・・・
ヒムラーが理想とする究極のドイツ人像が求められました。
さらに、優秀な子供を残すため、親衛隊員の結婚相手は、ナチス設立の花嫁学校に入れられ、専門の教育を受けました。
花嫁となる条件は、ナチスの思想を信じ、若く、健康的で、ユダヤ人でないこと。
ナチスが理想とするよき母親像を叩き込まれ、子供を4人以上生むことが奨励されました。
大学で農学を学んだヒムラーは、親衛隊の純血主義についてこう述べています。
「品種改良をやる栽培家と同じだ
かつては立派だった品種も、雑草と混じると質が落ちる
それをもとに戻して繁殖させるわけだが、我々はまず、植物選別の原則に立ち、使えないと思う者・・・つまり、雑草を除去するのだ」byヒムラー
そして、ナチスの狂気は新たな段階へと進みます。
ヒムラーが最初に作ったダッハウ強制収容所・・・親衛隊によって、ドイツ各地に収容所が立てられました。
警察権力を掌握したヒムラーは、盗聴などで不穏分子の洗い出しを行います。
政治犯、同性愛者、少数民族、異教徒など、ナチス社会に適さないと判断された人々が、強制収容所に送られました。
「初めて”強制収容所”という言葉を耳にした時、人々はこう言いました。
そんな施設に収容されるのは、政府に逆らった人や殴り合いのけんかをした人だろうと
きっとすぐに刑務所に送るわけにはいかないから、まずは収容所で強制するのだろうと
誰もそれについては深く考えませんでした」byドイツ市民
ドイツ国内を覆ったナチスの狂気は解き放たれ、国境を越えていきます。
1935年、ドイツ再軍備宣言
ナチスはベルサイユ条約で禁じられていた再軍備を宣言します。
解体されたドイツ空軍も再建され、ゲーリングは悲願の空軍総司令官に就任しました。
1935年4月・・・空軍の初仕事は戦場ではなく、ゲーリングの結婚式でした。
ベルリンの教会で、舞台女優エミー・ゾンネマンと結婚。
ヒトラーが立会人となり、祝福に市民が殺到しました。
「ベルリンを訪れた者は、王政が復古し、ついうっかり王家の結婚式の場に居合わせたのではないかと思ったに違いない
3万人に及ぶ軍人まがいの隊列が街に並び、空には200機の軍用機が旋回していた」byイギリス大使
1936年3月・・・ラインラント進駐
再軍備宣言の翌年、ヒトラーはドイツ・ラインラント地方へ軍を進駐させ、フランスとの国境にあるベルサイユ条約で定められた非武装地帯でした。
国民は、強いドイツの復活に熱狂します。
ラインラント進駐の是非を問う国民投票では、98.8%の国民が支持しました。
ドイツ国内での地位を盤石のものとしたヒトラー・・・
今度は、国外に向け、領土拡大の野望をむき出しにしていきます。
「ドイツに隣接した国々に、1千万以上のドイツ人がおり、彼等はベルサイユ条約によってドイツと統合することを阻止されてしまった
之は、実に苦痛極まりない」byヒトラー
ヒトラーは、オーストリア、チェコスロバキアのズデーテン地方と、ドイツ民族が住む場所を併合していきます。
1939年夏・・・1本のニュース映像が放映され、ドイツ国民は怒りに震えました。
ヒムラーが親衛隊を使って自作自演の被害を捏造・・・それを、ゲッペルスがニュース映像に仕立てたのです。
巧妙なプロパガンダによって、ドイツ国民の間に戦争への急務がみなぎっていました。
「本日、ポーランドが初めて我が領土に対し、正規軍による砲撃を開始した
我が国は爆弾には爆弾で報いる」by開戦を告げるヒトラーのラジオ音声
1939年、ナチスドイツはポーランドに侵攻・・・
ポーランドと同盟関係にあったイギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告!!
第2次世界大戦がはじまりました。
ゲーリング率いる1900機の空軍が、ワルシャワをはじめとする都市を無差別爆撃!!
わずか1か月でポーランドを降伏させます。
世界は、ドイツの圧倒的な軍事力を見せつけられます。
ヨーロッパのほぼ全土が、瞬く間にドイツ軍に蹂躙されていきます。
1940年7月、戦争に貢献した軍に指導者たちを叙勲する式典が厳かに行われました。
最大の貢献者と認められたゲーリングは、ドイツでただ一人の国家元帥となりました。
それは、名実ともにヒトラーの後継者となった事を意味していました。
しかし、ゲーリングの栄光は長くは続きませんでした。
「総統と共にあり
総統に従ってこそ力を持ち、国家の権力を手にしている
総統の意思に反したり、総統に必要とされないというだけで、その瞬間に権力を失う・・・
総統の言葉一つで、誰であろうと失脚する」byゲーリング
1940年夏・・・ゲーリングは、唯一抵抗を続けるイギリスの制圧にのりだしました。
しかし、最新鋭のレーダーの前に、ドイツ空軍は苦戦を強いられます。
ゲーリングは、3か月でイギリス軍の倍に当たる1700機を失いました。
ナチスドイツ・・・初めての敗北でした。
ゲーリングは、これ以降、軍事会議に姿を見せなくなります。
会議の場で、ヒトラーは部下にこう言いました。
「あの鉄人は何処にいるのか
きっとイギリスの飛行機の代わりに、可哀想な鹿でも撃っているのだろう」byヒトラー
ゲーリングの権威は失墜しました。
「長い間彼は、ドイツ空軍の失敗のすべての責任を負わされてきた
戦況会議で、ヒトラーは集まっている将校たちを前に、ゲーリングを激しい侮辱的な言葉で非難するのが常だった
控室で待っているとき、私はヒトラーが彼を怒鳴りつけているのを聞くこともしばしばだった」byナチス幹部
ヒトラーは、イギリスへ自ら講和を呼びかけました。
「私は今一度、イギリスの理性と常識に訴えるべきだと感じている
それは、私が施しを乞う敗者ではなく、勝者であるからだ
戦争を続ける理由は見当たらない」byヒトラー
しかし、その呼びかけは、イギリスに一蹴されます。
「国家報道長官がやってきて報告しました
”総統閣下、イギリスは拒絶しました”
そこで総統は、絶望的にこう言いました
”神よ、ではほかにどうすればよいのか?
自らイギリスに飛んで行って、イギリス人の前でひざまづくことなどできん!!”」by警備兵
窮地に陥ったヒトラーを支えようとしたのは、またしてもルドルフ・ヘスでした。
ランツベルク刑務所で、ヒトラーと共にわが闘争を執筆・・・
政権獲得後は、長年の忠誠が報われ総統代理という高い地位を与えられました。
「私の身にもしものことがあった場合、後継者はゲーリング、ゲーリングに何かあれば、その次の人物はヘスである」byヒトラー
ヘスは、ゲーリングに次ぐNo,3の地位にありながら、権力闘争の蚊帳の外にいました。
野心も才能も持っていなかったからです。
ヒトラーを支えることだけが、人生の目的でした。
ヒトラーの苦しむ姿を目の当たりにし、ヘスは一世一代の賭けに出ます。
1941年5月10日、行先を誰にも告げず、ひとり軍用機で飛び立ちます。
行先はイギリス・・・無謀にもひとりで和平交渉をしようとしたのです。
1年前から準備を進め、密かに飛行訓練を重ねていました。
飛び立った翌日、1通の手紙がヒトラーのもとに届きました。
”総統閣下、必死の思いで決断しました
国益のため、イギリスと和平を結ばねばならないと、難しい計画です
成功への望みはわずかですが、もし失敗しても、閣下と国には害は及びません
責任を否定なさってヘスは異常者と発表してください”
ヒトラーは激怒しました。
ヘスひとりで和平を結ぶなど到底不可能・・・最高幹部の暴走は、政権の失墜を招く・・・
「あのヘスが、どうして私にこんな仕打ちをするのだ・・・
海に墜落してくれればいいのだが」byヒトラー
宣伝大臣ゲッペルスは、ヘスがイギリス軍につかまる前に、声明を発表しなければなりませんでした。
しかし、事件の詳細を知り、どんな嘘も思いつかないと匙を投げました。
「世界に対する何たる醜態・・・!!
これは、世界一のプロパガンディストにさえ勝ち目のない状況だ」byゲッペルス
ヒトラーが、ラジオの原稿を考えました。
「5月10日土曜の18時ごろ、党員ヘスは一人で飛び立ち、本日に至るまで戻ってきていない
残された手紙の支離滅裂な内容から見て、遺憾ながら彼は精神的に錯乱をきたしている」byヒトラー
一方、ヘスは、イギリスの防空網を奇跡的にかいくぐり、パラシュートで敵地に降り立ちました。
ナチス総統代理の突然の到来に、イギリスは騒然となりました。
しかし、首相チャーチルは、ヘスに会おうとさえしませんでした。
「ヒトラーの代理人がイギリスにいるだと?
君は大まじめにそう言っているのか?
よろしい
ヘスであろうとなかろうと、私はマルクス兄弟の映画を観に行く」byチャーチル
ヘスは、イギリス軍に収監されました。
生涯刑務所で過ごし、93歳で自ら命を絶ちました。
1941年6月、イギリスとの停戦がなされないまま、ヒトラーはソビエトへの侵攻を開始します。
わが闘争に書いた東方生存圏の拡大を遂に実行に移したのです。
東方生存圏の拡大を実現するため、ヒムラーは親衛隊の中に新たな部隊を作りました。
ドイツ軍と同様重火器を装備した武装親衛隊です。
武装親衛隊は通常の軍隊ではなく、精神的、政治的な訓練を受けたエリート部隊です。
武装親衛隊は、ドイツが占領した地域から募集され、隊員は最大90万にまで膨れ上がりました。
その任務は戦闘だけでなく、ドイツ人の入植地を作るためにソビエトからユダヤ人を排除することでした。
ドイツ軍が街を占領すると、親衛隊がやってきて、ユダヤ人の追放と銃殺を担いました。
ソビエトとの開戦から数か月で、50万のユダヤ人が命を落としました。
銃殺を免れたユダヤ人も、ユダヤ人居住区ゲットーに押し込められました。
塀と鉄条網でおおわれたゲットーは、人口過密で食糧事情は逼迫・・・
不衛生な環境下で、ユダヤ人は飢えと病に苦しみ、命を落としました。
ヒムラーが、親衛隊幹部に発した肉声が残っています。
「500から1000の死体の山を多くの者が目にしてきただろう
だがそれは、愛する国民のため、任務を果たしたに過ぎない
この重大な任務を耐え抜き、やり遂げたことにより、我々は強くなった
これは史上初の類まれなる偉業である」byヒムラー
ヒムラーが作った、ゲットーのプロパガンダ映画が残されています。
”総統閣下ユダヤ人に街を贈る”
チェコスロバキアに作られたゲットー・・・テレージェンシュタットで撮影された映像です。
ヒムラーは、この町をユダヤ人の楽園と、国内外に宣伝しようとしました。
ユダヤ人迫害を危惧する国際赤十字職員も、視察に招かれました。
急ごしらえの庭園が造られ、粗末な宿舎は改装・・・ゲットーのユダヤ人たちは楽園の住人を演じさせられました。
「行儀よくすれば、見栄えのする服をやろうといわれました
決して、テレージェンシュタットの悪口は言うな
ただ楽しそうに演奏しろと・・・」byゲットー生存者
赤十字の職員は、ユダヤ人の平和な暮らしぶりを報告・・・ヒムラーは、世界を欺くことに成功しました。
悲劇はここで終わりません。
ゲットーに入りきらなくなったユダヤ人たちは、強制収容所へと送られました。
ヨーロッパ各地に、ユダヤ人殺戮を目的とした収容所が作られ、親衛隊によって計画的に実行されました。
「私を連行し、苦しめたのは、ヒトラーでもなければゲーリングでもない・・・
ゲッベルスでもヒムラーでもない・・・それは隣に住む男とか、靴屋とか、牛乳屋だった
そんな男たちが軍服に身を包むと、支配民族となったのだ」byアウシュビッツ収容者
収容所の職員の日常を記録したプライベートフィルムが残されていました。
彼等は日々の仕事が終わると、毎晩のように酒宴を繰り広げました。
ユダヤ人の荷物から金品を巻き上げ、何食わぬ顔でぜいたくな生活を続けました。
アウシュビッツ収容所の近郊には、親衛隊員をねぎらうための保養所まで建てられました。
「ほとんどがごく普通の人間だった
ナチスに入れば得をする
親衛隊の中でも、ヒムラーの言う”最も困難な任務を果たす集団”にいれば、自分はエリートだと多くの者が感じていた
”お前自身が小さな総統だ”」by親衛隊員
1943年、ソビエトに大敗を喫し、ドイツの敗戦が決定的となると、狂気は加速していきます。
ヒトラーは、国民の前に姿を現さなくなり、演説は宣伝大臣ゲッベルスに託されます。
演説は、ラジオで全国に放送され、イギリスやソビエトの戦いに全国民の参加を求めます。
国家総力戦が訴えられます。
「イギリス人は主張している我々の総力戦計画が、諸君の反感を買っていると
諸君が総力戦で泣く、降伏を望んでいると!!」
・・・
勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか?
苦難を共にし、もっとも重い負担に耐える覚悟はあるか?
これより先、我々のスローガンはこうだ!!
”人々よ立ち上がれ、そして嵐を起こせ”」
「総統よ、命令を!! 我々は従う!!」
ゲッベルスは、ヒトラーに代わり、渾身の演説で国民を奮い立たせようとしました。
演説終了後、ゲッベルスは興奮冷めやらぬ部下に向かって言い放ちました。
「私がビルの屋根の上から飛び降りろと命じていたなら、彼等はその通りにしただろう」byゲッベルス
しかし、戦局は変わりませんでした。
ドイツ軍は次々と敗退・・・日々悪化する現実を前に、国民はなすすべもありませんでした。
「ライプツィヒを陥落させ、我々は街に入った
市長はもういなかった
前の晩、市庁舎でパーティーを開いた後、市長と職員の半数が自殺したのだ」by米軍兵士
首都ベルリンにソビエト軍が迫る中、ゲッベルス最後のプロパガンダ映画が完成します。
「コルベルク」・・・19世紀、ナポレオン軍に包囲されたドイツの街が舞台です。
劇中、主人公はゲッベルスの演説スローガンを叫び、完成した映画を見たゲッベルスは、この主人公のように歴史に名を残せと部下たちを奮い立たせました。
「これから100年後に、君たち自身の功績を描いた同じような映画が作られるだろう
諸君よ、その映画に登場したくはないか
100年後に、映画の中によみがえるのだ
素晴らしい作品になるだろう
さあ、最後まで立派にやり遂げるのだ」byゲッベルス
4月20日、ヒトラー56回目の誕生日を祝うために、ナチス幹部が集まりました。
しかし、祝賀会が終わると、ゲーリングやヒムラーをはじめ幹部たちはいっせいにベルリンを離脱しました。
ヒムラーは、ユダヤ人虐殺の実態が発覚するのを恐れ、収容所を閉鎖。
親衛隊幹部を集め、混乱に乗じて逃げるように指示を出しました。
自らも身分を隠し、逃走します。
ヒムラーは、軍人を装った2人の親衛隊員と共に捕まりました。
しかし、連合軍に捕らえられて正体が明らかになると、隠し持っていた薬で服毒自殺をしました。
ヒトラーに次いで人類史上もっとも人を殺したこの男には、裁きを受ける勇気がありませんでした。
巨漢ゲーリングはナチスの指導者で、戦争犯罪人の容疑がかけられています。
投降した彼は、銃を差し出しました。
ゲーリングも捕虜となり、権力の象徴だった勲章や装飾品はすべて剥奪されました。
隠し倉庫からは、ヨーロッパ各地で収奪した大量の美術品が発見されました。
連合軍の取調べ調書は、こう報告しています。
”ずるがしこいゲーリングは、今なお、彼の個人財産の一部でも守り、自分のために有利な立場を作り出そうということしか考えていない
彼はかつてあれほど崇拝していた総統のことを、少しもためらわずに非難している”
ニュルンベルク裁判で死刑を宣告され、絞首刑の直前に服毒自殺しました。
総統官邸の地下壕で、最後までヒトラーに付き従ったのは、ゲッベルスだけでした。
ヒトラーは、ゲッベルスを次の首相に指名し、翌日命を絶ちました。
「わが生涯で、一度もなかったことだが、総統のこの命令に服することは絶対にお断りする
私は総統のために相当の側で役立てうるのでなければ、個人として何の価値もないこの命を、総統の傍らで終えることを選ぶものである
1945年4月29日ベルリンにて」byゲッベルス
ゲッベルスは、家族と共にヒトラーの後を追いました。
ナチス誕生の地・・・ミュンヘン・・・敗戦直後、かつてヒトラーがドイツの未来を訴えたその台座に、だれかがこんななぐり書きをしました。
「ドイツ人であることを恥じる」
終戦時、ナチスの党員はおよそ800万人・・・国民の10人に一人が入党していました。
占領軍は、ナチスを解体し、一切の活動を禁じました。
「これを書く手が震えています
みんなヒトラーを見捨てました
ナチスを支持したことも、他人を迫害したり、密告したことも、なかったというフリをしています
私はどうだったでしょう
あの場にいて、あの空気を吸っていました
誰もが感化されていたのです」ドイツ市民
1960年、衝撃的なニュースが世界を駆け巡ります。
戦後、15年間にわたって逃亡していた元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの逮捕です。
エルサレムで始まった裁判に、世界の目が注がれました。
ヒムラーの忠実な部下として、ユダヤ人移送を取り仕切ったアイヒマンは、人道に対する罪など15の犯罪によって起訴されました。
多くのユダヤ人生存者が証言台に立ち、アイヒマンの非道を告発!!
アイヒマンは、終始冷静でした。
自分は上司の命令に従っただけだと、最後まで無罪を主張しました。
アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男 [ ブルクハルト・クラウスナー ]
翌年・・・絞首刑を言い渡されます。
死刑制度のないイスラエルにおいて、異例の判決でした。
迫害を逃れ、アメリカに亡命していたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、この裁判を傍聴していました。
どうしてごく普通の人間が狂気にとりつかれてしまったのか・・・彼女はこう断じています。
「自分の昇進に、恐ろしく熱心だったこと以外に、彼には何の動機もなかった
この熱心さは、それ自体としては決して犯罪的なものではなかった
言い古された表現を使うなら、彼は自分が何をしているのかわかっていなかった
彼には全く思想がなかった
それゆえ、彼はあの時代の最大の犯罪者の一人になるべくしてなったのだ」
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新版 ナチズムとユダヤ人 アイヒマンの人間像【電子書籍】[ 村松 剛 ]
イスラエルの諜報機関モサドが、敗戦から15年後もなお逃走を続けるナチス幹部たちを追っていました。
大物幹部の隠れ家が見つかり、一人の男が拘束されました。
アドルフ・アイヒマン・・・リカルド・クレメントと偽名を使い、身をひそめていました。
アイヒマンは、ユダヤ人の強制収容所移送の中心人物でした。
ナチスの犠牲となったユダヤ人は、600万に及びます。
逃走中のアイヒマンが語っていた肉声が残されていました。
「ユダヤ人のその後の運命に関心はありませんでした
彼等の生死など、関係なかったのです
私たちが1030万の依田屋人をすべて殺すことができたら、満足してきっとこう言ったでしょう
”これで敵を根絶できた”」byアイヒマン
しかし、逮捕を指揮したモサドの長官は、狂気の実行者を見て驚きます。
「初めてアイヒマンと会ったとき、私は唖然とした
いったいどうしてこんなごく普通に見える人間が怪物になったのか」by長官
世界を地獄に突き落とした800万の巨大政党・・・ナチス。
狂気の帝国を作り上げたのは、独裁者に命を捧げたエリートたちでした。
稀代の扇動家・・・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス
ドイツの全メディアを支配し、プロパガンダ国家を作りあげました。
国民をナチスの思想に染め上げ、狂気へと駆り立てました。
「私の身にもしものことがあった場合、私の後継者はゲーリングである」byヒトラー
ヒトラーに次ぐナチスNo,2に上り詰めた国家元帥ヘルマン・ゲーリング
ドイツ軍を率いてヨーロッパを蹂躙し独裁者の狂気を世界へと解き放ちました。
親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラー
純血主義に基づくエリート集団・親衛隊を指揮し、冷酷無比の計画によってホロコーストの狂気を実行しました。
「500から1000の死体の山を多くの者が目にしてきただろう
だが、それは愛する国民のため、任務を果たしたに過ぎない」
ひとりひとりはごく普通の人間でした。
それがなぜ、狂気にとりつかれていったのでしょうか。
ヒトラーとナチ・ドイツ【電子書籍】[ 石田勇治 ]
ドイツに巨額の賠償を課したベルサイユ条約によって、国民は貧困と飢えに苦しんでいました。
政治は混乱し、暴動やストライキが頻発・・・各地で極右組織が乱立し、社会は騒乱状態に陥りました。
「お金だけでなく、すべての価値観が崩れ去り、意味を失いました
至る所に救世主を名乗る人が現れ、
”世を救うため神に遣わされた”と言いました」
一人の男が酒場の酔っ払いたちを相手に演説をうち、喝采を浴びました。
後のナチス総統アドルフ・ヒトラーです。
ナチス・・・国家社会主義ドイツ労働者党は、地方都市ミュンヘンを拠点とする50人ほどの弱小政党でした。
第1次大戦で、一兵卒だったヒトラーをはじめ、党員のほとんどが労働者や元軍人・・・
反ユダヤを表す鉤十字を掲げ、ナチス一党独裁によるドイツ復興を訴えました。
しかし、一般大衆の支持を得ることはありませんでした。
「初めの頃は、演説を聞きに集まる人々が時には7,8人しかいなかった
人々が当時、我々を攻撃したとしても、それどころか嘲り笑ったとしても、我々は幸福にひたったに違いない
何しろ我々が憂鬱だったのは、ただ完全に無視されることだったからだ」byヒトラー
ナチスの看板部隊・突撃隊・・・
ならず者の戦闘集団だった突撃隊・・・それをヒトラーに忠誠を尽くす軍事組織に鍛え上げたのは、ひとりの元軍人でした。
ヘルマン・ゲーリング・・・後のナチス国家元帥です。
ナチ党員には珍しい上流階級の出身でした。
ゲーリングは空軍のエースパイロットとして活躍し、敵18機を撃墜し、最高武勲章を受章・・・
戦場の英雄となりました。
しかし、敗戦ですべてが一変します。
ドイツ軍は、軍備を制限され、空軍は解体されました。
職を失ったゲーリングは、曲芸飛行士となるも長くは続きませんでした。
絶望の淵で、ゲーリングはヒトラーの演説を聞きました。
「ドイツは戦いに負けたのではない
ユダヤ人と共産主義者の陰謀によって敗戦国となったのだ」byヒトラー
その言葉に、ゲーリングは魅了されました。
「その確信を持った言葉は、一言一句まるで私の魂からほとばしり出るかのようだった
良い時も悪い時も、私はあなたに運命を委ねよう
それがたとえ、私の命を懸けることになったとしても」byゲーリング
英雄の入党に、ヒトラーは大喜びしました。
「素晴らしい!!
勲功章を授かった戦場の英雄とは!!
想像したまえ
これ以上ないほどの宣伝だ!!
その上彼は、金持ちで、私は一文の金も払う必要がないのだ」byヒトラー
入党間もないゲーリングを、ヒトラーは突撃隊の隊長に就任させます。
統率の取れなかった隊員たちに、ゲーリングは将校の経験を活かして規律と団結心を叩き込みます。
英雄の入党は話題を呼び、隊員も急増・・・突撃隊はナチスの看板部隊となっていきました。
「ハッキリ言って荒っぽい怖そうなチンピラと思っていた隊員も、今ではすっかり変わって光の戦士となりました
いつでも前身の用意のできている熱烈な十字軍戦士となっています」byナチ党員
ナチスは、ミュンヘンの強力な極右政党に成長・・・党員は5万5000人にまで成長していました。
1/16 ヘルマン・ゲーリング(WW I エースパイロット)【MA16034】 プラモデル ミニアート
1923年11月・・・ミュンヘン一揆・・・
ナチスは政権を奪おうと武装蜂起を決行しました。
政治要人がそろう集会を襲撃し、突撃隊の機関銃で会場を威嚇、ヒトラーは要人たちを人質にし、呼びかけます。
「今ミュンヘンで、国民革命が始まった
市全域は直ちに我が舞台によって占領される」
しかし、計画は素人同然でした。
人質に逃亡を許し、警察が出動・・・突撃隊は、なすすべもなくとらえられ、武装蜂起は一晩で鎮圧されました。
ヒトラーは逮捕・・・ゲーリングは国外に逃亡しました。
ナチスは活動を禁じられ、逮捕者の多くは刑務所に収監されました。
自殺まで思いつめたヒトラーを、供に収容されていた共に収容されていた一人のナチ党員が支えます。
ルドルフ・ヘス・・・後の総統代理です。
ヒトラーの秘書として常に付き従っていたヘスは、大学で地政学を学んだ秀才でした。
中等教育しか受けていないヒトラーにとって、ヘスの豊富な知識は発見に満ちていました。
ヘスは、ドイツ地政学の権威ハウスホーファー教授を獄中でヒトラーに引き合わせます。
教授は、ドイツが再び強国となるためには、東への領土拡大が不可欠だと考えていました。
新たな着想を得たヒトラーは、ヘスと二人三脚で、みずからの政治思想を書き上げます。
「わが闘争」です。
”ドイツが領土を拡張するといえば、それはロシアを犠牲とする他に道がない
ロシアを分割して、ドイツは大きくなるのだ”
これがナチスの根幹思想の一つ・・・東方生存圏の拡大となります。
ヒトラーは、その実現に向け、武装闘争をやめ、選挙活動に専念すると、ヘスに告げました。
「我々は国会に首を突っ込もう
確かに、選挙で勝つのは時間がかかる
だが、最終的には奴らの憲法が我々に勝利の道を保証するのだ」byヒトラー
再起を目指そうとするヒトラーを見て、ヘスはこう綴っています。
「私は前よりもっと総統に傾倒している
私は彼を愛している」byへス
1924年、1年足らずでヒトラーは釈放・・・
しかし、政府はナチスを危険集団と見なし、ヒトラーの演説を禁止しました。
選挙活動の道を閉ざされたヒトラーのもとに、ひとりの青年から手紙が届きました。
送り主は、ヨーゼフ・ゲッペルス・・・後の宣伝大臣です。
「あなたは奇跡をおこない、我々の心にかかる雲を取り除かれた
いつの日か全てのドイツ人があなたに感謝するでしょう」byゲッベルス
ゲッベルスは、ハイデルベルク大学哲学科で、博士号を取り、駆け出しの文筆家として活動していました。
新聞で、ミュンヘンでのクーデターを知って、ヒトラーこそがドイツの指導者だと確信したのです。
ゲッベルスは、活動を禁じられたヒトラーに変わり、最初の一年で189回もの演説をこなしました。
ゲッベルスには、聴衆を陶酔させる演説の才が備わっていました。
「我々は、国民にパンを、国家には栄誉を取り戻すことを決意している」byゲッベルス
ヒトラーは、ゲッベルスの才能に惚れ込みました。
「ゲッベルスこそ私は長い間待ち望んでいた人間だ
この難しい仕事にうってつけの男だ」byヒトラー
1926年、ゲッベルスはナチス・ベルリン地区の指導者の就任。
ミュンヘンの地方政党に過ぎないナチスにとって、首都ベルリンの攻略は最重要課題でした。
首都では無名のナチスの知名度を上げるために、ゲッベルスはあらゆる手法を繰り出しました。
敢えて対立政党の地盤で、過激な演説を打ち、反発を先導します。
会場の緊張が高まったところに突撃隊を突入させ、大乱闘を繰り広げました。
ゲッベルスの起こした乱闘騒ぎは、翌日の新聞各紙の一面を飾りました。
ナチスの事務所には、2600通の入党志願が届きました。
批判を煽ることで、注目を集める・・・炎上商法です。
1928年、ナチスは国政選挙で12議席を獲得・・・
国会進出の一歩を勝ち取りました。
ヒトラーは、オーストリア出身で、ドイツ国籍がなく、議員にはなれませんでした。
その為、国会での活動は亡命先から帰国したゲーリング、ゲッベルスに託されました。
しかし、ナチスにとって、国会進出は野望実現の通過点にすぎませんでした。
「我々は、議会の友人ではない
中立の立場でもない
我々は敵としてやってきた
狼が羊の群れに襲い掛かるようにここに来たのだ」
1929年8月ニュルンベルクで行われたナチス党大会・・・
ナチス党員は、13万・・・ミュンヘンでの武装蜂起から6年で2場以上に膨れ上がっていました。
しかし、大方の国民は、ナチスの躍進を一過性のブームとしか考えていませんでした。
当時の三大新聞の一つ、ベルリン日刊新聞は、ナチスについてこう断じました。
「行きどころのないアウトロー気分
迷える子羊たちの若気の至り
自分とは別の人種をねたむ劣等感
雲をつかむような政治主張
むき出しの暴力本能
理想主義を装う自己陶酔
そうしたものをごたまぜにして抱え込んだ団体である」
しかし、この年の10月、ナチスにとって天祐ともいえることがいきます。
1929年10月、アメリカ・ウォール街で株価が大暴落・・・世界恐慌へと広がります。
ドイツ政府は、有効な政策をうてず、失業者は300万人に上りました。
国民の間に、政府への失望が広がっていました。
「何千もの工場が閉鎖された
政府の対策は国民には冷たく、まじめな労働者は食べ物が欲しければ盗みでもするほかない
だからナチスに入党したのだ」
失業者の不満の受け皿となったのが、強いドイツの復活を国民に約束するナチスでした。
「私はドイツ国民に証明する
国が生き残るのに必要なのは”正義”でありその”正義”に必要なのは”力”でありその”力”の源は国民ひとりひとりの強さなのだと!!」byヒトラー
この時期、失業者の指示を集め、急成長を遂げる党がもう一つありました。
ドイツ共産党です。
労働者による革命を訴える共産党は、ナチスとしばしば激しい衝突をしました。
共産党の準軍事組織・赤色戦線は、街頭に繰り出し、ナチスを攻撃しました。
1930年1月、事件が起きます。
ナチス突撃隊中隊長ホルスト・ヴェッセルが、共産党員に銃撃されたのです。
政治とは無関係な女性をめぐるいざこざでしたが、ゲッベルスは事件をナチスのプロパガンダに利用しました。
ホルスト・ヴェッセルは、共産党との闘争の殉教者とされ、ナチスのキリストと祭り上げられます。
ゲッベルスは、いささかの迷いもなく、プロパガンダを実行していきます。
「”あなたはただのプロパガンディストだ”といわれれば、答えはこうだ
”キリストは他の何だというのだ 宣伝しなかったか
本を書き、説教したではないか
ムハンマドは、何か違っていたのか?
ブッダは宣伝課ではなかったか?”」
ナチスと共産党との闘争は、血で血を洗うものとなっていきます。
「突撃隊院の一人が、赤色戦線の一味に襲われた
白昼、人通りの中でカミソリで喉を切り付けられたのだ
その突撃隊院は即死した
翌日、爆弾がさく裂し、ピストルがなった
共産党の指導者2人が、路上で射殺された
これが、赤のやつらに道理を教える唯一の手段だ」byゲッベルス
共産党との抗争は、この上ない選挙戦伝となりました。
共産主義を嫌悪、恐怖する人からの支持を集めたのです。
弱小政党だったナチスは、107議席を獲得し、最大野党に躍進!!
「私たちは、粘り強い闘争の末に、労働者を赤いベルリンから奪い取ったのだ
労働者を獲得する者は、国民を獲得する
国民を獲得する者は国家を獲得する!!」byゲッベルス
新時代の政党として、ナチスは一躍メディアの注目を集めます。
ナチスの次の目標は、政権の獲得でした。
国会で政府を攻撃するゲーリングの肉声が残されています。
「戦闘にことごとく負ける司令官は、戦場を去るべきです
軍隊は、ひとりの司令官のために血を流すべきではなく、国民もまた、事態を収束させる能力のない政府のために破滅させられるべきではありません」byゲーリング
戦場の英雄・ゲーリングは、その知名度を生かし、大統領ヒンデンブルクに接近します。
しかし、陸軍元帥でもあるヒンデンブルクは、一兵卒上がりのヒトラーを軽蔑していました。
「あの男を私の下で首相にしろというのか?
やつには郵便局長あたりがうってつけだ
私の肖像が描かれた切手でもなめるがよい」byヒンデンブルク
ゲーリングは、大統領の息子を賄賂で口説き落とし、会談のチャンスを使います。
1931年、ヒトラーとヒンデンブルクの会見が実現・・・色物政治家とみられていたヒトラーに、権威が添えられました。
ナチスに対する国民の支持が高まると、財界との関係も深まっていきます。
ゲーリングは、共産主義の台頭を危惧する資本家や、銀行家の協力を取り付けます。
ナチスは、次々とパトロンを獲得し、多額の選挙資金を手に入れます。
「ナチズムより、共産主義の方がはるかに危険だ
民間企業軽視など、極左の方が人の道から外れている」by元国立銀行総裁
ナチスは、これまでの過激な主張を隠し、資本家には共産主義者からの保護を、労働者や農民には悪徳資本家からの解放を約束しました。
1932年7月・・・ナチスは230議席を獲得し、遂に議会第一党となりました。
1933年1月、ヒトラー首相就任・・・1年前にドイツに帰化したばかりでした。
「この運動を成し遂げるため、7人の党員から1200万人の支持を得る政党へ成長させたように、これからも我々は躍進するつもりだ!!」byヒトラー
「1933年1月30日は、ドイツがかつての栄光を取り戻した日として、その歴史に深く刻まれるであろう」byゲーリング
「夢か幻か、今、私はヒトラーと共に首相官邸の執務室にいる」byへス
「いったん我々が権力をとったら、決して手放しはしない
我々が死体となって官邸から運び出されない限りは・・・!!」byゲッベルス
政権を獲得すると、隠していた狂気はすぐにあらわになりました。
最初に動いたのはゲーリングでした。
ベルリンがあるプロイセン州の内務省を掌握!!
警察組織から反対勢力を一掃し、ナチ党員で固めました。
さらに、補助警察として、突撃隊を採用し、戒護権限と武器を与えます。
ゲーリングは、ナチスの意のまま動かすことのできる警察権力を作り上げました。
「内務省のTOPに立つことを引き受けた時、私はいかに困難な任務を背負ったかを自覚した
今後、権力の中に紛れ込んだ政治的異分子どもを、鉄の放棄で一掃するつもりである」byゲーリング
政権獲得の翌月、ナチスに再び天祐とも思われる事件が起こりました。
1933年2月27日、国会議事堂放火事件
国会議事堂が放火され、全焼したのです。
現場にいたオランダ人の共産党員が逮捕されました。
証拠がないにもかかわらず、ゲーリングは共産党の組織のテロと断定し、大統領緊急令が発令されました。
共産党員を中心に2か月で2万5000人以上が拘束、首都ベルリンは混乱に陥りました。
翌月、オペラハウスで、臨時に開かれた議会は、ナチスの突撃隊に取り囲まれます。
ヒトラーは、混乱に乗じて自らへの権力集中を国家に要求・・・
暴力と恐怖を後ろ盾として、全権委任法が成立しました。
ナチス以外の政党活動家禁止され、合法的に一党独裁が確立しました。
「祖国ドイツは、危機に瀕している
だからこそ、我々は国家社会主義を6500万の国民に広げようとしているのだ
全国民が、国家社会主義者に!!
最高だ、素晴らしい目標だ」byナチ党員
「ドイツ万歳!!」
ナチスが設立した世界国家機関・初の宣伝省・・・
ヒトラーは、国民をナチスの思想に染め上げる重要なポストにゲッベルスを指名しました。
「我々には優れた政府が必要だ
そして優れた政府には、優れたプロパガンダが必
両者は、不可分の関係にある
プロパガンダを行わない政府は非常に弱く、政府無しにプロパガンダをするのと同じくらい意味がない
両社は互いに補い合っているのだ」byゲッベルス
ゲッベルスのプロパガンダは、ドイツ社会を劇的に変えました。
新聞、出版、映画・・・すべてのメディアを管理下に置き、当時最新のラジオも活用しました。
「人々の憎悪や闘争は、ある特定の者によって育まれる
奴らは民衆を対立的に駆り立て、平和を求めない
どこでも金儲けを始めるユダヤ人どもこそ、国際的な不穏分子だ」by工場でのラジオ公開放送でのヒトラー
ゲッベルスは、決められた時間にラジオ放送を集団で聴取させる国民運動を展開しました。
国民は、ナチスの思想を否応なく刷り込まれました。
ナチスには、入党希望者が殺到・・・新規の入党が宣言されるほどでした。
哲学者・・・マルティン・ハイデガー
指揮者・・・ヘルベルト・フォン・カラヤン
ファッションデザイナー・・・ヒューゴ・ボス
も、ナチスに入党しました。
「プロパガンダには秘訣がある
何より人々にプロパガンダと気付かれてはならない
同様に、プロパガンダの意図も巧妙に隠しておく必要がある
相手の知らぬ間にたっぷりの思想をしみ込ませるのだ」byゲッベルス
「ゲッベルスが、最初におこなった大規模なプロパガンダは、ユダヤ人商店のボイコットた
ユダヤ人商店ボイコット運動は、午前10時に始まり瞬く間に街に広がった
規律ある行動のため、大きな混乱はない」
ナチス政権の誕生後、世界各国にいるユダヤ人が、反ナチス運動を展開していました。
世論をかわすために、普通ならボイコット運動を弱めるところですが、しかし、ゲッベルスはさらにユダヤ人への迫害を強化したのです。
贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争 [ 吉田 喜重 ]
ドイツからのニュースを知った各国のユダヤ人は、ナチスを刺激することを恐れ、反ナチキャンペーンは収束に向かいました。
「ボイコットの効果をはっきりと認めることができる
諸外国は、徐々に理性をとり戻しつつある
世界もユダヤ人にドイツのことを話させておくのはためにならないと悟るだろう」byゲッベルス
ヒトラーは、ゲッベルスの長年の貢献を讃え、最大の賛辞を送ります。
「10年前、貴君は私からナチスの旗を受け取った
その旗は、貴君の手によりドイツ国家の首都で掲げられ、今や国家を象徴するはたとして翻っている
ゲッベルス博士に最大の謝意を表する
我らがゲッベルス博士に!」byヒトラー
プロパガンダで拡大を続けるナチス・・・しかし、党内ではあらたな火種が生まれていました。
突撃隊の巨大化です。
党の創成期を支えた突撃隊は、政権発足後300万の隊員を抱える巨大軍事組織へと変貌していました。
ドイツ国防軍の5倍の兵力を誇り、もはや、一政党の軍事組織とはいえなくなっていました。
その頂点に君臨したのは、機関銃の王の異名を持つ突撃隊幕僚長のエルンスト・レームでした。
ミュンヘン時代からの最古参であるレームは、ヒトラーをお前と呼ぶことのできる数少ない盟友でした。
「突撃隊の諸君、ハイル!!
はっきり述べよう
突撃隊の諸君、ひとりひとりの功績があるからこそ、新生ドイツは今日、世界と対峙しうるのである!」byレーム
レームは、ドイツ国防軍を解体し、突撃隊に統合するようにヒトラーに迫りました。
しかし、ヒトラーは拒絶・・・
レームが軍部まで掌握すれば、自分の地位を脅かす恐れがある・・・
権力という魔物が、2人の長年の友情をあっけなく壊しました。
「アドルフは豚だ
やつはすべてを台無しにするだろう
古い帝国軍の二番煎じでは駄目だ
300万の男が私にいることを忘れてはならない
やつが同意しないなら、武力を行使しなければならない」byレーム
ナチスは、ヒトラー派とレーム派に分かれ、政権崩壊のうわさが広まります。
ヒトラーは、盟友の粛正を決断しました。
1945年、イギリスが制作した「アドルフ・ヒトラーの肖像」という再現映画では・・・
突撃隊幹部100人以上が、裁判もなく次々と殺害されました。
”逃亡しようとしたため射殺”・・・それが公式な声明でした。
レームは最後まで自殺を拒否し、射殺されました。
突撃隊の粛正・・・その冷酷な任務を遂行したのは、ヒトラーの護衛組織・親衛隊でした。
後に、ユダヤ人大虐殺を実行するナチスのエリート部隊です。
親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは、この事件を機にまだ小さかった親衛隊を突撃隊に変る看板部隊にすることに成功します。
「我々は何のためらいもなく、命じられた任務を遂行した
過ちを犯した同志たちを、窓際に立たせ射殺したのだ
我々はこの件について、二度と口にすることはない
しかし、命令が下されれば、再び同じ行動をとるだろう」byヒムラー
ヒムラーは、教師の家庭に育ち、虫一匹殺さない少年でした。
しかし、大学在学中に政治活動に参加し、反ユダヤ主義に傾倒・・・
親衛隊に入隊して頭角を現し、その指揮官に任命され、ヒムラーは親衛隊を、ナチスの純血主義を体現するエリート部隊へと育て上げました。
隊員の条件は、身長170センチ以上、ナチスの定義する純粋なドイツ人であること・・・
隊員には、人種調査が行われ、1800年にまで遡った家系図の提出が義務付けられました。
強靭な肉体と、高い身体能力・・・
ヒムラーが理想とする究極のドイツ人像が求められました。
さらに、優秀な子供を残すため、親衛隊員の結婚相手は、ナチス設立の花嫁学校に入れられ、専門の教育を受けました。
花嫁となる条件は、ナチスの思想を信じ、若く、健康的で、ユダヤ人でないこと。
ナチスが理想とするよき母親像を叩き込まれ、子供を4人以上生むことが奨励されました。
大学で農学を学んだヒムラーは、親衛隊の純血主義についてこう述べています。
「品種改良をやる栽培家と同じだ
かつては立派だった品種も、雑草と混じると質が落ちる
それをもとに戻して繁殖させるわけだが、我々はまず、植物選別の原則に立ち、使えないと思う者・・・つまり、雑草を除去するのだ」byヒムラー
そして、ナチスの狂気は新たな段階へと進みます。
ヒムラーが最初に作ったダッハウ強制収容所・・・親衛隊によって、ドイツ各地に収容所が立てられました。
警察権力を掌握したヒムラーは、盗聴などで不穏分子の洗い出しを行います。
政治犯、同性愛者、少数民族、異教徒など、ナチス社会に適さないと判断された人々が、強制収容所に送られました。
「初めて”強制収容所”という言葉を耳にした時、人々はこう言いました。
そんな施設に収容されるのは、政府に逆らった人や殴り合いのけんかをした人だろうと
きっとすぐに刑務所に送るわけにはいかないから、まずは収容所で強制するのだろうと
誰もそれについては深く考えませんでした」byドイツ市民
ドイツ国内を覆ったナチスの狂気は解き放たれ、国境を越えていきます。
1935年、ドイツ再軍備宣言
ナチスはベルサイユ条約で禁じられていた再軍備を宣言します。
解体されたドイツ空軍も再建され、ゲーリングは悲願の空軍総司令官に就任しました。
1935年4月・・・空軍の初仕事は戦場ではなく、ゲーリングの結婚式でした。
ベルリンの教会で、舞台女優エミー・ゾンネマンと結婚。
ヒトラーが立会人となり、祝福に市民が殺到しました。
「ベルリンを訪れた者は、王政が復古し、ついうっかり王家の結婚式の場に居合わせたのではないかと思ったに違いない
3万人に及ぶ軍人まがいの隊列が街に並び、空には200機の軍用機が旋回していた」byイギリス大使
1936年3月・・・ラインラント進駐
再軍備宣言の翌年、ヒトラーはドイツ・ラインラント地方へ軍を進駐させ、フランスとの国境にあるベルサイユ条約で定められた非武装地帯でした。
国民は、強いドイツの復活に熱狂します。
ラインラント進駐の是非を問う国民投票では、98.8%の国民が支持しました。
ドイツ国内での地位を盤石のものとしたヒトラー・・・
今度は、国外に向け、領土拡大の野望をむき出しにしていきます。
「ドイツに隣接した国々に、1千万以上のドイツ人がおり、彼等はベルサイユ条約によってドイツと統合することを阻止されてしまった
之は、実に苦痛極まりない」byヒトラー
ヒトラーは、オーストリア、チェコスロバキアのズデーテン地方と、ドイツ民族が住む場所を併合していきます。
1939年夏・・・1本のニュース映像が放映され、ドイツ国民は怒りに震えました。
ヒムラーが親衛隊を使って自作自演の被害を捏造・・・それを、ゲッペルスがニュース映像に仕立てたのです。
巧妙なプロパガンダによって、ドイツ国民の間に戦争への急務がみなぎっていました。
「本日、ポーランドが初めて我が領土に対し、正規軍による砲撃を開始した
我が国は爆弾には爆弾で報いる」by開戦を告げるヒトラーのラジオ音声
1939年、ナチスドイツはポーランドに侵攻・・・
ポーランドと同盟関係にあったイギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告!!
第2次世界大戦がはじまりました。
ゲーリング率いる1900機の空軍が、ワルシャワをはじめとする都市を無差別爆撃!!
わずか1か月でポーランドを降伏させます。
世界は、ドイツの圧倒的な軍事力を見せつけられます。
ヨーロッパのほぼ全土が、瞬く間にドイツ軍に蹂躙されていきます。
1940年7月、戦争に貢献した軍に指導者たちを叙勲する式典が厳かに行われました。
最大の貢献者と認められたゲーリングは、ドイツでただ一人の国家元帥となりました。
それは、名実ともにヒトラーの後継者となった事を意味していました。
しかし、ゲーリングの栄光は長くは続きませんでした。
「総統と共にあり
総統に従ってこそ力を持ち、国家の権力を手にしている
総統の意思に反したり、総統に必要とされないというだけで、その瞬間に権力を失う・・・
総統の言葉一つで、誰であろうと失脚する」byゲーリング
1940年夏・・・ゲーリングは、唯一抵抗を続けるイギリスの制圧にのりだしました。
しかし、最新鋭のレーダーの前に、ドイツ空軍は苦戦を強いられます。
ゲーリングは、3か月でイギリス軍の倍に当たる1700機を失いました。
ナチスドイツ・・・初めての敗北でした。
ゲーリングは、これ以降、軍事会議に姿を見せなくなります。
会議の場で、ヒトラーは部下にこう言いました。
「あの鉄人は何処にいるのか
きっとイギリスの飛行機の代わりに、可哀想な鹿でも撃っているのだろう」byヒトラー
ゲーリングの権威は失墜しました。
「長い間彼は、ドイツ空軍の失敗のすべての責任を負わされてきた
戦況会議で、ヒトラーは集まっている将校たちを前に、ゲーリングを激しい侮辱的な言葉で非難するのが常だった
控室で待っているとき、私はヒトラーが彼を怒鳴りつけているのを聞くこともしばしばだった」byナチス幹部
ヒトラーは、イギリスへ自ら講和を呼びかけました。
「私は今一度、イギリスの理性と常識に訴えるべきだと感じている
それは、私が施しを乞う敗者ではなく、勝者であるからだ
戦争を続ける理由は見当たらない」byヒトラー
しかし、その呼びかけは、イギリスに一蹴されます。
「国家報道長官がやってきて報告しました
”総統閣下、イギリスは拒絶しました”
そこで総統は、絶望的にこう言いました
”神よ、ではほかにどうすればよいのか?
自らイギリスに飛んで行って、イギリス人の前でひざまづくことなどできん!!”」by警備兵
窮地に陥ったヒトラーを支えようとしたのは、またしてもルドルフ・ヘスでした。
ランツベルク刑務所で、ヒトラーと共にわが闘争を執筆・・・
政権獲得後は、長年の忠誠が報われ総統代理という高い地位を与えられました。
「私の身にもしものことがあった場合、後継者はゲーリング、ゲーリングに何かあれば、その次の人物はヘスである」byヒトラー
ヘスは、ゲーリングに次ぐNo,3の地位にありながら、権力闘争の蚊帳の外にいました。
野心も才能も持っていなかったからです。
ヒトラーを支えることだけが、人生の目的でした。
ヒトラーの苦しむ姿を目の当たりにし、ヘスは一世一代の賭けに出ます。
1941年5月10日、行先を誰にも告げず、ひとり軍用機で飛び立ちます。
行先はイギリス・・・無謀にもひとりで和平交渉をしようとしたのです。
1年前から準備を進め、密かに飛行訓練を重ねていました。
飛び立った翌日、1通の手紙がヒトラーのもとに届きました。
”総統閣下、必死の思いで決断しました
国益のため、イギリスと和平を結ばねばならないと、難しい計画です
成功への望みはわずかですが、もし失敗しても、閣下と国には害は及びません
責任を否定なさってヘスは異常者と発表してください”
ヒトラーは激怒しました。
ヘスひとりで和平を結ぶなど到底不可能・・・最高幹部の暴走は、政権の失墜を招く・・・
「あのヘスが、どうして私にこんな仕打ちをするのだ・・・
海に墜落してくれればいいのだが」byヒトラー
宣伝大臣ゲッペルスは、ヘスがイギリス軍につかまる前に、声明を発表しなければなりませんでした。
しかし、事件の詳細を知り、どんな嘘も思いつかないと匙を投げました。
「世界に対する何たる醜態・・・!!
これは、世界一のプロパガンディストにさえ勝ち目のない状況だ」byゲッペルス
ヒトラーが、ラジオの原稿を考えました。
「5月10日土曜の18時ごろ、党員ヘスは一人で飛び立ち、本日に至るまで戻ってきていない
残された手紙の支離滅裂な内容から見て、遺憾ながら彼は精神的に錯乱をきたしている」byヒトラー
一方、ヘスは、イギリスの防空網を奇跡的にかいくぐり、パラシュートで敵地に降り立ちました。
ナチス総統代理の突然の到来に、イギリスは騒然となりました。
しかし、首相チャーチルは、ヘスに会おうとさえしませんでした。
「ヒトラーの代理人がイギリスにいるだと?
君は大まじめにそう言っているのか?
よろしい
ヘスであろうとなかろうと、私はマルクス兄弟の映画を観に行く」byチャーチル
ヘスは、イギリス軍に収監されました。
生涯刑務所で過ごし、93歳で自ら命を絶ちました。
1941年6月、イギリスとの停戦がなされないまま、ヒトラーはソビエトへの侵攻を開始します。
わが闘争に書いた東方生存圏の拡大を遂に実行に移したのです。
東方生存圏の拡大を実現するため、ヒムラーは親衛隊の中に新たな部隊を作りました。
ドイツ軍と同様重火器を装備した武装親衛隊です。
武装親衛隊は通常の軍隊ではなく、精神的、政治的な訓練を受けたエリート部隊です。
武装親衛隊は、ドイツが占領した地域から募集され、隊員は最大90万にまで膨れ上がりました。
その任務は戦闘だけでなく、ドイツ人の入植地を作るためにソビエトからユダヤ人を排除することでした。
ドイツ軍が街を占領すると、親衛隊がやってきて、ユダヤ人の追放と銃殺を担いました。
ソビエトとの開戦から数か月で、50万のユダヤ人が命を落としました。
銃殺を免れたユダヤ人も、ユダヤ人居住区ゲットーに押し込められました。
塀と鉄条網でおおわれたゲットーは、人口過密で食糧事情は逼迫・・・
不衛生な環境下で、ユダヤ人は飢えと病に苦しみ、命を落としました。
ヒムラーが、親衛隊幹部に発した肉声が残っています。
「500から1000の死体の山を多くの者が目にしてきただろう
だがそれは、愛する国民のため、任務を果たしたに過ぎない
この重大な任務を耐え抜き、やり遂げたことにより、我々は強くなった
これは史上初の類まれなる偉業である」byヒムラー
ヒムラーが作った、ゲットーのプロパガンダ映画が残されています。
”総統閣下ユダヤ人に街を贈る”
チェコスロバキアに作られたゲットー・・・テレージェンシュタットで撮影された映像です。
ヒムラーは、この町をユダヤ人の楽園と、国内外に宣伝しようとしました。
ユダヤ人迫害を危惧する国際赤十字職員も、視察に招かれました。
急ごしらえの庭園が造られ、粗末な宿舎は改装・・・ゲットーのユダヤ人たちは楽園の住人を演じさせられました。
「行儀よくすれば、見栄えのする服をやろうといわれました
決して、テレージェンシュタットの悪口は言うな
ただ楽しそうに演奏しろと・・・」byゲットー生存者
赤十字の職員は、ユダヤ人の平和な暮らしぶりを報告・・・ヒムラーは、世界を欺くことに成功しました。
悲劇はここで終わりません。
ゲットーに入りきらなくなったユダヤ人たちは、強制収容所へと送られました。
ヨーロッパ各地に、ユダヤ人殺戮を目的とした収容所が作られ、親衛隊によって計画的に実行されました。
「私を連行し、苦しめたのは、ヒトラーでもなければゲーリングでもない・・・
ゲッベルスでもヒムラーでもない・・・それは隣に住む男とか、靴屋とか、牛乳屋だった
そんな男たちが軍服に身を包むと、支配民族となったのだ」byアウシュビッツ収容者
収容所の職員の日常を記録したプライベートフィルムが残されていました。
彼等は日々の仕事が終わると、毎晩のように酒宴を繰り広げました。
ユダヤ人の荷物から金品を巻き上げ、何食わぬ顔でぜいたくな生活を続けました。
アウシュビッツ収容所の近郊には、親衛隊員をねぎらうための保養所まで建てられました。
「ほとんどがごく普通の人間だった
ナチスに入れば得をする
親衛隊の中でも、ヒムラーの言う”最も困難な任務を果たす集団”にいれば、自分はエリートだと多くの者が感じていた
”お前自身が小さな総統だ”」by親衛隊員
1943年、ソビエトに大敗を喫し、ドイツの敗戦が決定的となると、狂気は加速していきます。
ヒトラーは、国民の前に姿を現さなくなり、演説は宣伝大臣ゲッベルスに託されます。
演説は、ラジオで全国に放送され、イギリスやソビエトの戦いに全国民の参加を求めます。
国家総力戦が訴えられます。
「イギリス人は主張している我々の総力戦計画が、諸君の反感を買っていると
諸君が総力戦で泣く、降伏を望んでいると!!」
・・・
勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか?
苦難を共にし、もっとも重い負担に耐える覚悟はあるか?
これより先、我々のスローガンはこうだ!!
”人々よ立ち上がれ、そして嵐を起こせ”」
「総統よ、命令を!! 我々は従う!!」
ゲッベルスは、ヒトラーに代わり、渾身の演説で国民を奮い立たせようとしました。
演説終了後、ゲッベルスは興奮冷めやらぬ部下に向かって言い放ちました。
「私がビルの屋根の上から飛び降りろと命じていたなら、彼等はその通りにしただろう」byゲッベルス
しかし、戦局は変わりませんでした。
ドイツ軍は次々と敗退・・・日々悪化する現実を前に、国民はなすすべもありませんでした。
「ライプツィヒを陥落させ、我々は街に入った
市長はもういなかった
前の晩、市庁舎でパーティーを開いた後、市長と職員の半数が自殺したのだ」by米軍兵士
首都ベルリンにソビエト軍が迫る中、ゲッベルス最後のプロパガンダ映画が完成します。
「コルベルク」・・・19世紀、ナポレオン軍に包囲されたドイツの街が舞台です。
劇中、主人公はゲッベルスの演説スローガンを叫び、完成した映画を見たゲッベルスは、この主人公のように歴史に名を残せと部下たちを奮い立たせました。
「これから100年後に、君たち自身の功績を描いた同じような映画が作られるだろう
諸君よ、その映画に登場したくはないか
100年後に、映画の中によみがえるのだ
素晴らしい作品になるだろう
さあ、最後まで立派にやり遂げるのだ」byゲッベルス
4月20日、ヒトラー56回目の誕生日を祝うために、ナチス幹部が集まりました。
しかし、祝賀会が終わると、ゲーリングやヒムラーをはじめ幹部たちはいっせいにベルリンを離脱しました。
ヒムラーは、ユダヤ人虐殺の実態が発覚するのを恐れ、収容所を閉鎖。
親衛隊幹部を集め、混乱に乗じて逃げるように指示を出しました。
自らも身分を隠し、逃走します。
ヒムラーは、軍人を装った2人の親衛隊員と共に捕まりました。
しかし、連合軍に捕らえられて正体が明らかになると、隠し持っていた薬で服毒自殺をしました。
ヒトラーに次いで人類史上もっとも人を殺したこの男には、裁きを受ける勇気がありませんでした。
巨漢ゲーリングはナチスの指導者で、戦争犯罪人の容疑がかけられています。
投降した彼は、銃を差し出しました。
ゲーリングも捕虜となり、権力の象徴だった勲章や装飾品はすべて剥奪されました。
隠し倉庫からは、ヨーロッパ各地で収奪した大量の美術品が発見されました。
連合軍の取調べ調書は、こう報告しています。
”ずるがしこいゲーリングは、今なお、彼の個人財産の一部でも守り、自分のために有利な立場を作り出そうということしか考えていない
彼はかつてあれほど崇拝していた総統のことを、少しもためらわずに非難している”
ニュルンベルク裁判で死刑を宣告され、絞首刑の直前に服毒自殺しました。
総統官邸の地下壕で、最後までヒトラーに付き従ったのは、ゲッベルスだけでした。
ヒトラーは、ゲッベルスを次の首相に指名し、翌日命を絶ちました。
「わが生涯で、一度もなかったことだが、総統のこの命令に服することは絶対にお断りする
私は総統のために相当の側で役立てうるのでなければ、個人として何の価値もないこの命を、総統の傍らで終えることを選ぶものである
1945年4月29日ベルリンにて」byゲッベルス
ゲッベルスは、家族と共にヒトラーの後を追いました。
ナチス誕生の地・・・ミュンヘン・・・敗戦直後、かつてヒトラーがドイツの未来を訴えたその台座に、だれかがこんななぐり書きをしました。
「ドイツ人であることを恥じる」
終戦時、ナチスの党員はおよそ800万人・・・国民の10人に一人が入党していました。
占領軍は、ナチスを解体し、一切の活動を禁じました。
「これを書く手が震えています
みんなヒトラーを見捨てました
ナチスを支持したことも、他人を迫害したり、密告したことも、なかったというフリをしています
私はどうだったでしょう
あの場にいて、あの空気を吸っていました
誰もが感化されていたのです」ドイツ市民
1960年、衝撃的なニュースが世界を駆け巡ります。
戦後、15年間にわたって逃亡していた元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの逮捕です。
エルサレムで始まった裁判に、世界の目が注がれました。
ヒムラーの忠実な部下として、ユダヤ人移送を取り仕切ったアイヒマンは、人道に対する罪など15の犯罪によって起訴されました。
多くのユダヤ人生存者が証言台に立ち、アイヒマンの非道を告発!!
アイヒマンは、終始冷静でした。
自分は上司の命令に従っただけだと、最後まで無罪を主張しました。
アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男 [ ブルクハルト・クラウスナー ]
翌年・・・絞首刑を言い渡されます。
死刑制度のないイスラエルにおいて、異例の判決でした。
迫害を逃れ、アメリカに亡命していたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、この裁判を傍聴していました。
どうしてごく普通の人間が狂気にとりつかれてしまったのか・・・彼女はこう断じています。
「自分の昇進に、恐ろしく熱心だったこと以外に、彼には何の動機もなかった
この熱心さは、それ自体としては決して犯罪的なものではなかった
言い古された表現を使うなら、彼は自分が何をしているのかわかっていなかった
彼には全く思想がなかった
それゆえ、彼はあの時代の最大の犯罪者の一人になるべくしてなったのだ」
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