日本資本主義の父・渋沢栄一・・・生涯で、500もの会社を立ち上げ、日本経済の発展に多大な貢献をしました。
晩年は、国際交流にも尽力し、ノーベル平和賞候補者に二度までも推薦されました。
しかし、渋沢の青春時代は、平和とは程遠かったのです。
時は幕末!!外国船を打ち払えと、攘夷が叫ばれ、日本国内は騒然としました。
若き日の渋沢も、攘夷を実行しない幕府に、同志を集めて討幕のテロを計画します。
これを発端に、いくつかの出会いが渋沢を導きます。

埼玉県深谷市・・・かつて武蔵国と呼ばれたこの地に渋沢栄一は生まれました。
栄一の家は、麦の栽培や養蚕の他に、藍染めに使う藍玉の製造販売で財をなしていました。
藍の葉を発酵して固めた藍玉・・・栄一の父・市郎衛門は藍の葉の目利きとして知られていました。
栄一は、6.7歳の頃から親戚の尾高惇忠のもとで学問をはじめます。
栄一が毎日のように通った尾高家が今も保存されています。
近隣の子供たちと家に集い、惇忠の薦めで読書に熱中しました。
自伝「雨夜譚」で、東寺をこう振り返っています。

”里見八犬伝のような小説や軍記物の類が至って好きで、正月のあいさつ回りの時も、本を読みながら歩いていて、溝に落ちてしまい晴着を汚してしまいたいそう母親に叱られたことがありました”

そんな栄一に、父親は厳しく・・・

”父から、家業にも精を出すよう言われ、13の年には一人で藍の葉の買い付けに行ったもんです”

後に、大実業家になる渋沢栄一の商いは、藍の葉を買い集めることから始まりました。
藍玉の出来は、葉の出来の良し悪しに左右されました。
そこで、栄一は、農家に良質の愛を栽培してもらうために工夫します。
農家を力士に見立て、葉の質に応じて番付にします。
これを、農家を集めた宴会の余興に配ったといいます。
行司役には、栄一の名が記されています。

渋沢が考えたのは、情報共有でした。
上位の人は、何か工夫があるはずだと勉強する場となり、村全体が一致団結、もっといい藍を作って藍玉というものを製造販売すれば、村全体に利益がある・・・ひいては人々が豊かになる・・・!!
そこに、渋沢栄一の原点があります。

商売の面白さを知り、父の信頼も得た栄一は、各地の集金を任されるようになります。
はじめて栄一が愛の買い付けをしたのが・・・1853年6月、江戸は大変な騒ぎに・・・
ペリー提督率いる黒船の来航です。
栄一が暮らす武蔵国の隣国・常陸国・水戸では、外国を打ち払えと攘夷が叫ばれ、すでに軍事演習まで行われていました。
栄一の師匠・尾高惇忠も、攘夷思想に傾倒していました。

1856年・・・16歳になった栄一にも、政治に不満を抱く事件が起きます。
それは、血洗島を治める岡部藩の代官から御用金差出の命が下ったことに始まります。
御用金とは、逼迫した藩の財政では賄えない出費を、領民に供出させるというもので、返済されることはありませんでした。
裕福な栄一の家には、ことあるごとに御用金が要求されていました。
都合で行けない父に代わって他の当主たちと陣屋に出向きます。
代官は、横柄な態度で、栄一に500両差し出すように命令します。
よその主人たちは、平伏して引き受けましたが・・・
「私は代理ですから、一度帰って父の承諾を得たうえで、改めてご返事に参ります」と答えました。
代官は、こんな判断もできないのかと、栄一を子ども扱いしてバカにしました。
しかし、栄一は頑として受け付けず、陣屋を後にします。

「無性に腹が立った私は、その根本をよくよく考えました
 あんな下劣な男が代官を務めているのは、もとをただせば藩がだらしなく、藩がだらしないのは幕府がいけないのだと思い至ったのです」

結局、渋沢家は、御用金を引き受けましたが、その後も栄一の心を騒がせる事件が次々とおこります。
栄一、19歳の年に横浜が開港。
さらに、その翌年には桜田門外の変で大老・井伊直弼が水戸藩士らによって殺害されます。
天皇の許可なしにアメリカと通商条約を結んだことが原因でした。

渋沢栄一 100の訓言 「日本資本主義の父」が教える黄金の知恵 (日経ビジネス人文庫) [ 渋澤 健 ]
渋沢栄一 100の訓言 「日本資本主義の父」が教える黄金の知恵 (日経ビジネス人文庫) [ 渋澤 健 ]

21歳になった栄一は、農閑期だけという許しを得て、江戸に出ました。
栄一は、塾や千葉道場で憂国の同志たちと合流し、最新の情報に触れます。

1863年8月・・・攘夷を実行しない幕府を倒すしかないと思いつめ、尾高惇忠や従兄弟・喜作と共に討幕の策を練ります。
その策とは・・・横浜を焼き討ちして、外国人を片っ端から切り殺すという乱暴なものでした。
藍玉の売り上げから流用した金で、刀や槍・100本余りを用意しました。
決行に当たり、まず高崎城を襲撃、さらに武器を補充してから鎌倉街道を横浜へと南下する作戦でした。

「幕府に攘夷などできない・・・もはや、徳川の政府は滅亡するに違いないと一途に思い込んでいたので、自分たちが目覚ましく血祭りになって、世の中に騒動を引き起こす引き金になろうと考えたのです」

この血気盛んな決意を、尾高惇忠が信託と題した檄文に認めます。
神に託された計画の正当性と外国人の打ち払いを激烈な言葉で綴り、人々を扇動するものでした。
集まった同氏は総勢69人・・・江戸で知り合った憂国の士と惇忠や栄一に感化された農民でした。
決行は11月23日・・・冬至の日と決定しまた。

10月29日・・・決行の日も近づき、栄一らは尾高家の2階に集まります。
京都の情勢を探索してきた惇忠の弟・長七郎が帰郷したのです。
長七郎を交え、倒幕計画の詰めが行われました。
剣術化として知られた長七郎は、挙兵の参謀官でした。
しかし、長七郎は、栄一たちの計画を聞き、猛烈に反対します。
長七郎は、京都で攘夷派の反乱が力づくで押さえ込まれ、攘夷派公暁までもが朝廷から放逐される様を目の当たりにしてきました。
意見の対立で興奮した栄一と長七郎は、お互いを殺してでも計画を止める、決行すると激論し、夜を明かしました。

「ここまで長七郎さんに言われ、よくよく考えてみたところが・・・
 百姓一揆のように、みなされては後に続く志士もなく、犬死になるかもしれないと悟ったのです
 長七郎さんが、命がけで私らの命を救ってくれたのです」

倒幕計画は断念しましたが、栄一は安穏としてはいられませんでした。
計画のうわさが幕府方に漏れると捕らえられる恐れがありました。
栄一は、各地から人と情報が集まる動乱の中心地・京都に身を隠すことにして、喜作と共に故郷血洗島村を出奔します。

栄一と喜作は情報と策謀の渦巻く京都にいました。
道中の安全は、平岡円四郎という人物の助けを借りました。
平岡は、徳川家の身内・御三卿の一つ一橋家重役でした。
攘夷倒幕に逸る栄一と違い、平岡は開国派でしたが栄一を見所ある若者と評価していました。
平岡は、すでに主君・一橋慶喜に従い京都にいました。
しかし、栄一たちが江戸の留守宅に来たら、家来の身分を与えて京都に来るようにと言い残していたのです。
京都についた栄一たちは、もとより家来になる気はないため、平岡への挨拶もそこそこに諸国の志士たちとの交流や物見遊山に時を過ごしました。

1864年2月・・・栄一のもとに驚愕すべきたよりが届きました。
高崎城襲撃を命がけで止めてくれた尾高長七郎が、殺人事件を起こし捕らえられ、懐から栄一の手紙が出てきたというのです。
それは、栄一が、京都から幕政批判を書き連ね、長七郎も上洛するようにと誘った文でした。
これによって長七郎は討幕派の嫌疑をかけられているという・・・
翌朝、栄一は平岡円四郎から呼び出され、長七郎の一件で、江戸から一橋家に問い合わせが来たのです。
栄一は事の経緯を包み隠さず話しました。
聞き終えた平岡は、栄一たちに思いがけない提案をします。

考えの違いは脇において、一橋家に仕官しないかというのです。
 
予想もしなかった平岡からの誘いに栄一は戸惑います。
宿に戻って悩みます。
討幕の意志を貫くのか、あるいは幕府を支える一橋家に身を寄せるのか??

思い悩むうちに、夜は白々と明けてきました。
渋沢栄一、この時24歳!!
人生の岐路となる選択を迫られます。

議論の末、朝を迎えた栄一たちは、平岡円四郎のもとに出向きます。
そこで栄一は、平岡の申し出を受け、一橋家への仕官を願い出ます。
しかし、召し抱えられるにあたり、条件を付けます。
あろうことか、慶喜本人に直接思いのたけを伝えたいというのです。
前例がないと渋る平岡に、農民を直に召し抱えることも例がありますまいと食い下がる栄一・・・!!
数日後、平尾確信の差配によって、慶喜の宿で拝謁が実現します。

「身の程知らずにも、慶喜公に幕府の命脈もすでに滅絶したと、無遠慮に申し上げたのです
 幕府が潰れるのを、とりつくろわれるようでは、一橋の御家ももろとも潰れます
 敢えて、好むことではござりませぬが、幕府をつぶすのが徳川家を忠孝するもとであります
 と、正直に申し上げたところ、慶喜公はただふむふむと聞いておられました」

慶喜との出会いで、栄一の運命は大きく動き出します。
一橋家仕官後の栄一の活躍は目覚ましく、栄一は一橋の武力強化のため、農民からなる歩兵の編成を目指します。
西国の一橋領をめぐって勧誘し、志願者500人という成果を上げました。
続いて取り組んだのが、一橋家の財政強化でした。
勘定組頭となった栄一は、藩札を発行して、播磨の木綿を買い上げます。
これを特産品として販売し、一橋家の財政を改善していきます。

明治政府がスローガンにあげた富国強兵の一橋家版でした。
慶喜の政界での力を高める意図で、一橋家の財政改革に尽力していきます。
ところが、またしても栄一に時代の大波が押し寄せます。
14代将軍・家茂が死去し、慶喜の15代将軍就任がとりだたされる事態となったのです。
栄一は、幕府はやがて斃れる運命とみていました。

「徳川氏は、家屋に例えていうと土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた大きな家の如きもの・・・
 故に、何卒徳川家相続はおやめ願いたいと上司に進言し、直接慶喜公に申し上げる運びになったのですが」

一橋慶喜は、幕府老中からの懇請を受け入れ、徳川家を相続して徳川慶喜となりました。
栄一は、失望の極みにありました。

「この時は、また元の浪人になろうか、いや、いっそ死んでしまおうかと思い詰めた次第です」

栄一自身は、幕府は日本を背負える組織ではないと感じていました。
潰れていく幕府のTOPを継いでしまう・・・日本を変えていきたいといった思いで一橋慶喜のもとで一生懸命働いてきた栄一にとって、見通せなくなったことで落胆しました。
しかし、この後、またしても栄一に大きな転機が訪れます。

渋沢栄一検定 公式テキスト [ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 ]
渋沢栄一検定 公式テキスト [ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 ]

倒すべき敵だった幕府の家臣となってしまった栄一・・・
もう、死んでしまおうかと考えていた矢先、思いもよらない話が舞い込んできます。
フランス・パリに行かないかというのです。
1867年、パリで開催される万国博覧会に、幕府は義信の弟・昭武を将軍名代として派遣し、その後もパリで留学させることにしました。
栄一は、昭武の世話係として、庶務と会計を担うことを期待されていました。
多くの家臣の中から栄一を指名したのは慶喜でした。
これを聞き、栄一はパリ行きを即答します。

「この降ってきたような話、その時の嬉しさは実になんとも例えようもありませんでした
 速やかにお受けをいたしますから、是非お遣わしを願います、どのような甘苦も決して厭いませんとお答えしました」

1867年1月、栄一は横浜を出航!!
長旅の末に到着したパリで、栄一は昭武の世話や滞在費の管理に多忙な日々を送りながら、ヨーロッパの習慣になじんでいきました。

一方、日本ではその年の10月、徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出ました。
この報せがパリに届いたのは、翌年の1月2日。
この時、すでに大坂を出た旧幕府軍は、京都鳥羽伏見に進軍をはじめていました。
しかし、旧幕府軍は惨敗し、慶喜は謹慎しました。
戊辰戦争開戦から2か月後、栄一はパリでこの報せを受け取ります。
栄一は、水戸・徳川家に生まれた昭武を、先行きが見えない日本に帰さず、フランス留学を続けさせることを望みました。
しかし、4月に水戸藩主・徳川慶篤が死去すると、これによって昭武が水戸藩を継ぐことが決まりました。
止むなく栄一がフランスを発った4日後、日本は年号を明治と改めました。
帰国後、栄一は駿府に向かいます。
かつて行き場を失った自分を召し抱え、活躍する場所を与えてくれた慶喜がそこで謹慎していました。

「慶喜公は、貧相なお寺に蟄居していらっしゃいました。 
 畳が破れて、薄暗い行燈のともった小さな一室に、ひとりでひょろりと入って来られ、しょんぼりとお座りになりました
 余りのお変わりように、感極まって涙がこぼれました」

慶喜は、フランスでの昭武の様子を聞き、栄一の労をねぎらったといいます。

明治以降、経済界で華々しい業績を積み上げる栄一・・・
しかし、老境に至っても、倒幕に思いを寄せた血洗島村の生家に度々帰郷しました。
ふるさとの家族たちも、栄一のための座敷を作り、温かく迎えたといいます。

「私は特に人より優れた才能があったわけではありませんが、真心ひとつで万事に当たってまいりました
 まるで夢うつつのようですが、忘れがたいことばかりでありました」

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング
渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]
渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]