第4回「戦艦大和沈没から75年」(その4・最終回)誰がヤマトを作ったか | 広島から 中国総領事館 誘致に待ったをかける

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広島に県、市、県議会、市議会、経済団体を挙げ、中国総領事館を誘致する計画があります。
経済にばかり走り、国家安全保障を考えない誘致計画に警鐘を鳴らします。

今回から、YouTubeで発信したもののうち、適当と思われるものを文字起こしし、こちらにも掲載することにしました。

 

第4回「戦艦大和沈没から75年」(その4・最終回)誰がヤマトを作ったか 

 

 

 

「戦艦大和沈没から75年」と題したシリーズの最終回です。

 

 その1からその3までの3回を通して、「さらば宇宙戦艦ヤマト」が、戦艦大和の沖縄特攻をモチーフに、戦後33年目の1978年から先の大戦を振りかえった作品であるということを、ご理解いただけたと思います。 

 

その4・最終回では、この作品の制作者に光を当てていきます。 

 

宇宙戦艦ヤマトは、1974年10月のテレビシリーズの始まりから、1978年の映画「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」に至るまで、プロデューサー以下、監督、脚本家、その他非常に多くのスタッフによって制作されていますが、そのうちの誰が、さらば宇宙戦艦ヤマトを、特攻を主題とした作品へと牽引したかを探ります。 

 

作品に誰を登場させ、何を語らせるかということに影響を与え得る人は、脚本家のほか、原作者、プロデューサー、監督、といった人たちが考えられます。 

 

宇宙戦艦ヤマトという作品には、原作がありません。テレビシリーズの第一話では、「企画原案」として西崎義展、監督・松本零士、脚本・藤川桂介、演出・石黒昇、監修で山本暎一、舛田利雄、豊田有恒が、そして最後にもう一度、プロデューサーとして西崎義展、という順番でクレジットされています。 映画の「さらば宇宙戦艦ヤマト」では「企画 原案 制作 総指揮」として西崎義展、脚本、舛田利雄、藤川桂介、山本英明、そして再び監督・舛田利雄とクレジットされています。 

 

ここで、プロデューサー、監督、脚本の生まれた年を調べてみると、興味深いデータが取れます。 

 

舛田以外の7人はほぼ全てが焼け跡世代です。「さらば宇宙戦艦ヤマト」で監督・脚本を担当した舛田利雄だけがただ一人、戦中派で、他の7人は全て舛田利雄より7歳から13歳若いのです。

 

 これが何を意味しているかをご説明する前に、世代について少し説明しておきたいと思います。 焼け跡世代というのはおおよそ(昭和10年(1935年)~昭和21年(1946年)に生まれた世代で、大東亜戦争中、幼少期、少年期であった世代のことです。このすぐ前の世代が戦中派で、大東亜戦争中に青春期を過ごした世代になります。 

 

視覚的にわかりやすく説明すると、野坂昭如 原作・高畑勲 監督の「火垂るの墓」に出てくる兄と妹、清太と節子のうち、妹の節子が終戦時4歳で焼け跡世代、兄の清太が14歳でかろうじて戦中派になります。戦中派の中でも後の方、若い方になります。

 

 焼け跡世代と戦中派の大きな違いは、焼け跡世代が兵隊としては取られなかった世代であるのに対し、戦中派は兵隊として戦争に参加しています。 焼け跡世代というのは、ひもじかった、防空壕へ避難した、疎開したということは経験して覚えています。しかしまだ幼く、被災当時、なぜこの戦争が起きたのか、何が悪かったのだろうか、そういう思索には至りません。

 

 一方、その前の世代である戦中派は、兵隊を同時代人として見ています、あるいは自分自身が兵隊として戦争に参加しています。

 

 戦中派の舛田利雄は昭和20(1945)年8月には17歳で、同じ年に生まれた人たちが、特攻で亡くなっています。大和の水上特攻も義烈空挺隊の特攻も、そして敗戦も、全て彼が17歳の時の出来事でした。この時、松本零士はわずか7歳に過ぎません。 

 

事実、さらば宇宙戦艦ヤマトの中で初めて登場する斉藤始というキャラクターは、舛田利雄の創作によるものです。17歳の時に心に深く刻み込まれた義烈空挺隊の姿だったと考えることができます。 

 

さらに、舛田利雄の仕事を遡って辿っていくと、1962年監督・脚本の「零戦黒雲一家」という作品に、さらば宇宙戦艦ヤマトとのはっきりした類似が見られます。石原裕次郎主演のこの映画は、戦後の航空自衛隊の飛行訓練の場面を背景にこういうナレーションで始まります。 

 

「全く素晴らしい平和な国土、この美しさを永遠のものと守らなければならない。あの人たちのために、戦争で亡くなった数えきれない若い命のために。皆いい人だった。私は人間の生きる道を教わったのだ。さあ、始めようその話を」

 

 そして、クライマックスで、21名の部下と一人の慰安婦を撤退させるシーンでは、さらば宇宙戦艦ヤマトから17名の乗組員を退艦させる時と同じ「これから生きることは死ぬよりも難しいんだ」という古代が発したメッセージが含まれています。この言葉の後、主役と準主役のふたりが、零戦で敵機の大編隊に突っ込んでいくというシーンで終幕となります。 

 

この作品は、今、Amazonプライムで追加の料金を払わずに見ることができます。 

 

そして前回お話ししたように、ヤマトの後、彼の仕事は仲代達也主演の二百三高地へと繋がっていきます。 

 

こうしてみていくと、「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」という作品は、戦後33年経って、大東亜戦争に参加した、最も若い世代が現実に目撃し、経験したことを元に、あの戦争がどういうものであったかをアニメという手段を通して、戦後の世代に伝えたもの、と評することができます。

 

 今日、戦争を伝える多くの博物館の語り部には、戦争を直接見た戦中派はほとんどいなくなりました。戦中派は、最も若い人でも90歳に達しようとしているからです。今後はもう直接の証言を聞くことができません。

 

 しかし、舛田利雄は、脚本を通し、また監督作品という形で、後世の人たちが、時代の当事者に、いつまでも直接触れることができる生の目撃証言を残したと言えます。

 

 「さらば宇宙戦艦ヤマトー愛の戦士たち」という作品は、単なるエンタメではなく、他の作品とは一線を画し、戦争を伝える博物館でも上映されるべき、後世への特別な作品となっています。

 

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 今回の資料

 舛田利雄(1927年10月5日生)

 (参考:三島由紀夫:1925年生まれ 終戦時20歳)

 藤川桂介(1934年6月16日生)終戦時やっと11歳になったところ。火垂るの墓の清太より3歳年下 

西崎義展(1934年12月18日生) 

山本英明(1935年9月2日) 

松本零士(1938年1月25日生)終戦時7歳 

豊田有恒(1938年5月26日生) 

石黒昇(1938年8月24日生) 

山本暎一(1940年11月22日生)終戦時、節子と同じ4歳

 

 零戦黒雲一家 1962年 原作 萱沼洋 監督 舛田利雄 脚本 星川清司 舛田利雄(amazonから視聴可能) 

 

 

YouTubeで語っていない解説:ヤマトのその後(広島領事館)

 

その後ヤマトは「ヤマトは永遠に」以降、シリーズ化され、興行収入至上に走り、2匹目、3匹目のどじょうを釣りに行くことになります。最近のリメイク版に至っては、ヤマトは国連軍の船になっています。

 https://dic.pixiv.net/a/国連統合軍 

これは原作殺しともいうべき重大な改悪で、ヤマトとは何かという根本を作り手が忘れた結果です。ヤマトは地球防衛軍の船でなければなりませんでした。  

 

これに伴い、宇宙戦艦ヤマトをめぐる目を覆いたくなるような出来事も生じました。 西崎義展プロデューサーは、映画界、芸能界では評判の芳しくない人でした。 

・「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気 https://www.amazon.co.jp/「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男-西崎義展の狂気-牧村-康正/dp/4062196743 https://www.youtube.com/watch?v=O1GRqFQqHuw 

・松本零士が完全に敗訴した宇宙戦艦ヤマトの著作権裁判資料 http://www.u-pat.com/d-29.html  

 

近年のシリーズに「原作 西崎義展」と表記されているのは、松本零士の裁判の敗訴によって、それまで曖昧にされてきた原作者が西崎義展に確定したためです。対する松本零士はヤマトの新しい作品には参画できなくなり、松本零士の展示会も本人原作の銀河鉄道999などが中心で、宇宙戦艦ヤマトの展示は、かつて制作に深く関わりながら、ほぼ見かけなくなってしまいました。 

 

「宇宙戦艦ヤマト」という作品は決して綺麗事では済まされませんでした。制作の中心にいた人たちの金、利権、名誉欲にまみれ、変質し、ただの儲かるコンテンツに堕して行くことになりました。残念としか言いようがありませんが、名作ゆえのさだめなのかもしれません。