けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

超過死亡にみるコロナの正体

2021-02-28 22:52:43 | 政治
今日書くことは、8割方、辛坊治郎さんのメルマガの受け売りであることを断っておく。多分、辛坊さんの立場では言えないことが山ほどあって、でも勝手ながら、その行間があまりにも奥深く感じ、私なりにそこを補って書かせて頂いた。行間を読み間違えれば、辛坊さんの意図とは全く異なる内容かもしれないので、ここに書かれたことは辛坊さんの発言とは異なることにはご注意して頂きたい。ただ、個人的には辛坊さんにも共感を頂けるのではないかと思っている。

まず、この記事でのポイントは「超過死亡」である。最近、2020年の超過死亡が如何程であったかが、世界的にも出揃ってきていて、日本でも2/22に新聞記事になっていた。まず、「超過死亡」について説明しておく。

多分、年間の死者数というのは暖冬や寒波などの気候とかにも影響を受けて多少のブレ幅はあるのだが、長年の統計から年齢ごとの人口10万人毎の死亡者数(ないしは死亡率でも良いが)が明らかになっている。一方、年齢ごとの人口構成はいびつな形なので、それが1年ごとに高齢側にシフトしていく。なので、年齢ごとの死亡率と人口を乗算して総和を取れば、次の年に何人ぐらいの死者数が出るのかというのは統計的に十分に予測できることになる。この様にして2020年の死者数の予測値を出し、実際の2020年の死亡者数からこの予測値を差し引けば「超過死亡」が求められる。
ちなみに、総務省統計局のホームページなどを見ると、毎年の死者数のデータが閲覧できるので、それを基に平成21年から平成30年までの10年間の死者数の推移をみると、年平均で死者数が22000人づつ増加している。正確な予測は人口構成に死亡率を乗算して加算するなどの計算で求めるのだろうが、近似計算でよければ当年の死者数に22000人を加算すればそれで翌年の死亡者数の予想ができるはずである。

ここで、2020年の特異性は、コロナが猛威を振るったことであり、超過死亡は世界的にこの影響を受けている。例えばアメリカではプラス50万人、英国などでは十万人と、十万人単位で死者数が超過しているのだが、これがコロナに起因しているのは明らかである。

・・・ここまでの話であれば誰も違和感など抱かないのであるが、辛坊さんの奥深いところは、ここから2点の着目すべき視点の指摘があったことである。まずは1点目にフォーカスしてみる。それは、欧米において軒並み超過死亡が十万人単位で増加する中で、極めて特異的であった国がある。それはスウェーデンであり、スウェーデンでは超過死亡が突出して少ないと言うのだ。これは極めて興味深い結果である。スウェーデンと言えば、欧米各国がロックダウンをする中で、ロックダウンを拒否した数少ない国である。だから、常識的に考えれば、ロックダウンしてなければ膨大なコロナ死者が出てもおかしくないはずなのだが、超過死亡は極めて少ないという。ただ、ではコロナ死者がいなかったのかと言えば、そうではなくて他の欧米諸国と同様に死者は出ている。他の国と同レベルで死者が出たのだが、超過死者は殆ど出ていないというのだ。

ここまで聞くと頭を抱えてしまう人も多いと思うのだが、答えは意外なところにあった。スウェーデンは高福祉国家として有名だが、80歳を過ぎると延命治療を行わないのだという。思い出すと、私の父が肺炎になって重篤化した時、医者は延命のための措置を希望するかどうかをまず最初に私に聞いた。父は糖尿病がひどく、食事制限に苦しみ、この様な状態で生きながらえるのを望んでいなかったから、更にベットに縛り付けられるような延命治療を望むはずもなく、間髪入れずに延命治療を断った。1日もたたずに父は亡くなったのだが、これは言ってみれば「お迎えが来た」タイミングで、お迎えの使者を拒むことなく、天に召されただけの話である。コロナの場合、普通の人には鼻かぜと同レベルのリスクでしかないが、基礎疾患がある高齢者には非常に危険な病気である。スウェーデンで超過死亡がほとんど増加していないということの意味することは、「お迎えが来た」方に対しては、きっちりと「天に召される」ことになるのだが、一方で、「お迎えが来るべきでなかった」方の場合には、殆ど「天に召される」ことがなかったということである。分かり易く言えば、基礎疾患のない若者は全くと言っていいほど死ぬことがなく、一方で「天に召されるべき」方は予定通り天に召されてしまうのである。

では、何故、欧米では超過死亡が大幅にプラスになったのか?それは、欧米の(広義の)延命治療や過剰な治療においては、「天に召されるべき」方が天に召されずに生きながらえているのである。それが、コロナが天に召されるべき」方を天に召してしまっていたために、結果として多くの超過死亡のプラスにつながったのである。

ここまで書くと誤解を与えるかも知れない。今回、コロナで亡くなった方々は、「どうせ死ぬべき運命だった」と言いたいのかと責められそうだ。しかし、この部分に対する答えともいえることが、辛坊さんの二つ目のご指摘ポイントである。それは、日本の2020年の死者数が前年マイナス9000人であったという点である。先にも書いたが、日本では例年、死者数が22000人増加するのがトレンドである。なので、死者が9000人減ったということは、超過死者はトータルでマイナス31000人(概算)であることを意味する。つまり、コロナのせいで、3万人以上の方が本来死ぬべきところを死なずに済んだという話である。これが意味することは何なのか?

厳密な答えは学術的な解析によって明らかにされるべきだが、容易にその答えは類推することができるのである。まず、アジア/オセアニア地域では、所謂ファクターXによって、欧米に比べてコロナウイルスが持つリスクが極端に小さい。しかし、それだけなら超過死亡はゼロになるだけでマイナスにはならない。大きなマイナスとなるにはそれなりの理由がある。例えば、高齢者の死因の上位に位置する肺炎球菌であるが、例年、約3万人の死者を出しているという。肺炎球菌の細菌は成人では3~5%程度しか保菌者がいないが、乳幼児は非常に高い20~50%の確率で保菌していることが知られている。これの意味することは、肺炎球菌で亡くなる高齢者の方は、ある程度の確率で可愛い孫からうつされているのである。であるならば、年間3万人もの肺炎球菌の死者を画期的に減らすためには、単純に「高齢者は孫と会ってはいけない」「自分は良くても、孫にうつされた肺炎球菌を他の方に映すリスクを考えれば、『孫警察』を作って、孫と会おうとする高齢者を取り締まるべきだ!」とすべきである。今回のコロナ禍では、期せずして高齢者が孫と会う機会を社会が奪った為に、結果的に肺炎球菌で亡くなる方が減った。実際、ある記事によれば肺炎の死者は12000人、インフルエンザの死者は2000人減ったという。三万人とのギャップはまだあるので他にも色々あるのだろうが、可愛い孫と会うことを諦めたために救われた高齢者の命が万単位であることは間違いなさそうだ。

多分、高齢の方を1万人集めて「孫と会わずに我慢すれば、年間3万人程度の不運に見舞われることを避けることができますから、金輪際、孫と会うのを諦めましょう」と聞いたとき、それに賛同する方は一人としていないだろう。一方で、「孫と会ってじゃれあったために運悪く肺炎球菌をうつされて死んだとしても、そんなのはただそのタイミングで天からお迎えに来ただけで、そんなことを恨んでも仕方がないでしょう」と問えば、ほぼ全員がそれに賛同してくれるだろう。

肺炎球菌は、ワクチンもあればある程度の治療法のノウハウも蓄積され、適用可能な薬も多数あるはずなのに、にも拘らず年間3万人が死ぬ病気である。コロナの場合、ワクチンもなければ特効薬もなく、変異種も次から次へと現れる病気なのに、2020年に日本での死者は1万人にも満たない。多くのマスメディアは肺炎球菌のリスクを取り上げることを殆どせず、孫と会おうとする高齢者を非難したりすることはないが、コロナだけは別格で、些細なことも大げさに化け物の様に煽りまくる。多くの高齢者は結果的に孫と会えず、生活の質も大きく低下したはずである。

話は少しそれるが、実はコロナに関して、「重症者数」「死者数」などが毎日発表されている。ちょっと前までは、私もなくなる方のほとんどは「軽中等症」⇒「重症者」⇒「死亡」という流れで推移するものと思っていた。しかし、実際には「重症者」にカウントされることなく「軽中等症」⇒「死亡」となる患者が多いという。というのは、(これも辛坊さんがラジオで指摘していたことだが)「重症」とカウントされる方の治療内容は所謂「延命治療」に相当するもので、基礎疾患を持っていたりすれば、仮にコロナを克服しても、その後もベッドに縛り付けられた生活を余儀なくされたりするため、延命を望まない方々が「重症者」向けの治療を行うことなく亡くなっていくケースが多いという。多分、コロナの治療はかなり高度な治療を受けても国が負担してくれるのだから、「重症者」向けの治療を経済的理由で拒む必要はないのだが、それでもその道を選ぶ人は少ない。まさに、「お迎えが来たのだから、抵抗して天からの使者を追い返すことなどせず、安らかに天に召される」道を選んだことに相当する。

遅かれ早かれ、人は100%必ず死ぬ運命にある。いつかは天からお迎えが来るのである。日ごろから健康に気を付けて節制していれば、お迎えはなかなか来ないし、暴飲暴食で不摂生をしていれば、お迎えはすぐそこにいることになる。スウェーデンの例から分かるように、コロナというのは、天からのお迎えがある方には脅威だが、天からのお迎えがない方にとっては殆どリスクとも言えない病気である。基礎疾患がある、お迎えがいつ来てもおかしくない方々にとっては、その様なお迎えを無理してでも拒絶する道を求めたくなるのは分からなくもないが、その無理によって何が起きるのかはちゃんと見極めなければならない。

ここからは高齢者の方々に、冷静に考えて頂きたい話である。

様々な病気に対して、「天からのお迎えに抵抗して、天からの使者を強引に追い返す」方法にはいくつかのバリエーションがある。例えば、(それに本当の効果が伴っているかは別として)緊急事態宣言などもその一例である。人の移動をシャットアウトして、じっと家に籠っているということは、まずもって孫と会うことを諦めることを意味する。別に緊急事態宣言がなければ孫と会うことが解禁されることではないので、この状態があと何年続くかは分からない。日本医師会などの無責任な人達からすれば、数が減ったぐらいで安全などと言えるわけはなく、数年単位でこの状況は続いてもおかしくはない。しかし、孫と会うこともできなければ、旅行や外食も控えるのだから、「Quality of Life(QOL)」すなわち「生活(人生)の質」は明らかに落ちることになる。これが「天からのお迎えに抵抗して天からの使者を強引に追い返す」ための代償なのである。メディアは無責任に、「半年の我慢」「1年の我慢」などと暗黙の期待を人々に匂わせて長期にわたるQoLの低下を強いるのである。高齢の方々にとっての数年は、残りの人生の何割ものウエイトを占める。80歳の時の1年間で楽しめることと、100歳の時の1年で楽しめることには雲泥の差がある。マスメディアは、決して高齢者にとってのこれからの数年間が、その人の人生にとってどれほどの価値があるかなど考えてはいない。本来は高齢者からの不満の声が上がってもおかしくないが、マスメディアによる洗脳は計り知れない。

そして、このQoLの低下は高齢者自身だけではなく、多くの若い世代のQoLも道ずれにすることになる。自分も含めた多くの人々のQoLを落とし、経済を停め、国を崩壊させ、特に旅行業界や飲食業界の人々の人生を崩壊させる。マスコミも高齢者も、肺炎球菌の場合には「天からのお迎え」を容易に受け入れるのに、話がコロナになると「天からのお迎え」を頑ななまでに拒むのが現状である。

コロナが本当にエボラ出血熱やペストの様に、触れた人は老いも若きも片っ端から地獄に導く病気ならいざ知らず、肺炎球菌などと対比すれば(少なくとも日本やアジア・オセアニアでは)「天からのお迎え」に毛の生えたようなものであることは分かってきた。であれば、特に高齢者が率先して怒りだせば、マスコミも野党も考え方を変えるのだろうが・・・。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

「神様」ジーコが黙るとき

2020-12-07 22:23:26 | 政治
変なタイトルをつけてしまったが、その理由は最後に書きたい。

ここ2週間ほど、何処で書くべきかと悩んでいたが、いよいよ決定的になってきたので書いておこうと思う。アメリカ大統領選についての話である。ただ、誰が次期大統領になるべきかという話ではない。大統領選にまつわる、メディアの動きについてである。

まず、言うまでもなく、今回の大統領選にはありとあらゆる選挙不正が行われていたようである。もちろん、選挙翌日辺りからの大統領選に関するトランプ支持派のネットでの指摘などは、かなりの部分がフェイクニュースだったりして、ことの真偽を判断するには注意が必要であった。しかし、3週間ほど前から状況は変わってきた。それは、シドニーパウエル弁護士の参戦である。もちろんご存知の通り、彼女はトランプ弁護団の一因ではなく、この弁護団に所属したこともない。あくまで、アメリカ国民「WeThePeople」の名のもとに、巨悪に敢然と立ち向かうイチ弁護士というところ。しかし、その所属がどうであるかという話は横において、所謂、トランプ再選支持派の中では、その言動、発言内容に信ぴょう性を感じさせる弁護士だった。彼女の経歴を見ても、到底、根拠のない絵に描いたような「陰謀論」をでっちあげて喜ぶような人ではない。逆に、その「陰謀論」の登場人物からの名誉棄損の訴えを受けることを考えれば、(仮に全部が本当でも)やっていることは非常にリスキーだから、弁護士人生を全てかけての一世一代の大博打を打ったとしか見えない。なのに、勝算のない「陰謀論」に突き動かされたなど、到底、ありえなる話ではない。

この様に考えると、シドニーパウエル弁護士の主張する「疑惑」は、少なくともジャーナリズムを自称する大手メディアならば、ことの真偽を調査する義務を負っていると言って良いだろう。さらにこの数日の間に、半沢直樹バリの決定的ともいえる不正の証拠も表に出てきた。もう逃げようがない。

しかし、多分、FoxNewsを除けば、アメリカのほぼ全ての大手メディアはこの疑惑を黙殺し、さらに言えばそれだけではなく、その様な「疑惑」を完全無視するよう、視聴者(読者)に「同調圧力」をかけ続けたのである。そして、選挙に関わる疑惑に、簡単に尻尾を掴まれてしまうあからさまなフェイクニュースまで使って、「トランプ派の言うことに耳を傾けてはいけない。何か言われたら、すぐに耳をふさぎなさい。」という教えを徹底し続けていた。

シドニーパウエル弁護士の主張は、聞けば聞くほど信じがたいもので、3流の小説家の書いたような荒唐無稽なお話のようで、多分、何処かの映画プロデューサにその話が持ち込まれても、とても相手にしてもらえないようなお粗末な話である。しかし、その何分の一かが真実であるならば、(共和党も含むが)民主党の多くの議員がお縄になり、その何人かは反逆罪などの(死刑まではいかなくても)終身刑ぐらいにはなりそうな犯罪を行っている。それに対して、今のメディアが行っていることは、それらの人の罪を暴こうとする行動を妨害し、犯罪行為を隠ぺいするための行動である。反逆罪の共謀が認定されても不思議ではない。

そこまで明らかな、Clear and Present Danger状態の中で無邪気に振舞うメディアを見ていると、その不正が暴かれて、今回トランプが再選しても、ないしは4年後の再チャレンジで返り咲いたとしても、その時に何が起きるかは目に見えている。

そんな中、私は1994年の出来事を思い出した。その年にアメリカで開かれたサッカー・ワールドカップで、ロマーリオの大活躍でブラジルが優勝した。やんちゃなロマーリオは行く先々で顰蹙を買い、サッカーの「神様」の異名を持つジーコがロマーリオのやんちゃさをたしなめた。しかし、それを受けてロマーリオは言い放った。「(ワールドカップで)負けた奴は黙ってろ!」この一言で、ジーコは何も言えなくなってしまった。

今後、遅かれ早かれ、不正は明らかになるだろう。不正が明らかになった後、時の大統領がトランプであるならば、いかなるメディアもトランプに何も言えなくなる。何か言えば、「反逆罪の共犯者は黙ってろ!」、「フェイクニュースで世論を誘導するんじゃない!」、「真実はそこにはない!」と、ありとあらゆる言葉で罵倒され、沈黙せざるを得ないメディアをアメリカ国民は失笑するだろう。

ジーコは別に悪くはない。しかし、それでもジーコは黙らざるを得なかった。アメリカ・メディアはこの後、何も言えずに黙らざるを得ないのだろうか?

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

肉を切らして骨を断つ(安倍総理の辞任のその後)

2020-09-09 23:23:30 | 政治
安倍総理が辞任表明し、菅官房長官らによる総裁選がスタートした。安倍総理の辞任会見を聞き、その無念さを想像する一方で、それなりに晴れやかな印象も受けた。よくよく考えてみると、「肉を切らして骨を断つ」ために、自らの身を犠牲にした感もある。その「肉を切らして骨を断つ」の意図することを、少しばかり想像してみた。

まず、安倍総理がどうしてもやりたかったことは数えきれないほどあり、拉致被害者の奪還、憲法改正、日米同盟の強化、経済の完全再生、北方領土返還、世界を俯瞰した外交(日本のプレゼンスの向上)、中国の抑制、戦後自虐史観からの脱却、等限りないが、当然ながらこれら全てを安倍政権1代で解決する問題ではない。特に、安倍総理に右翼のレッテルを張り、ネガティブキャンペーンをしまくっていた大手マスメディアが立ちはだかることで、多くのことは挫折することになった。偏ったマスメディアに牛耳られた国民の目を覚まし、本当に必要なことが何かを知らしめ、国益を第1に前に進めて行くためには、寧ろ、自ら身を引いた方が結果的にはプラスになることはある。今回は限りなくその状況に近かったはずだ。そして、あくまでも結果論ではあるが、極めて絶妙のタイミングでの辞任表明になったと思う。

いくつか挙げてみよう。

(1)立憲民主党と国民民主党のドロドロとした主導権争いの真っただ中で、立憲民主党の代表選はテレビ的には影もなく、自民党総裁選の圧倒的な露出度で視聴者に如何に自民党の存在が大きいかを痛感させた。
(2)蓮舫氏が「ペット以下の存在」という夫と離婚したタイミングで、視聴率抜群の半沢直樹の中の女性大臣、白井国交相のセリフ「債権放棄じゃダメなんですか?」が何とも「2番じゃダメですか」の発言に重なり、民主党政権時代の悪夢を呼び戻させた
(3)菅直人政権時代の中国漁船船長の釈放事件で、検察庁が勝手にやったことと罪を擦り付けていたのに、産経新聞がそれが菅直人総理の指示であることを前原元国交相から発言を引き出しスクープし、さらに民主党時代の悪夢を呼び覚ました
(4)テレビを始めとするマスメディアが新型コロナの恐怖を煽りまくっていたのに、GoToトラベル開始とともに実際には下火になり、実は高齢者を除けば大したことではないウイルスであることが明確になり、マスメディアに騙されていた国民の目が次第に正気を取り戻しつつある
(5)結果的に菅官房長官が陣頭指揮をした新型コロナの采配が正しいことが明らかになった

とまあ、色々あるのだが、その結果が何とも私の予想外の結果を生んだ。

朝日新聞の世論調査で、3氏の中で次の総理にふさわしいのは誰かという問いに対し、25%の支持を集めた石破氏を抜いて、38%の大差で菅官房長官がトップに立った。朝日新聞が地団駄踏んで悔しがっている姿が目に見える。辛坊治郎氏の指摘によれば、朝日新聞は政権最後の支持率が高支持率となるのが嫌で、政権支持率を調査項目から外したというから笑える。この世論調査の結果に対しては、石破氏もマスコミも、「皆が勝ち馬に乗ろうという表れだろう」と意味不明な解説をしていたが、何とも的外れである。マスコミの間では、今回議員の間でともかく、国民からの支持率で見れば石破氏が一番と一大キャンペーンを張っていたのだから、「支持率では勝ち馬の石破さんに乗っかろう」という人が圧倒的でなければ筋が通らない。世論調査に、自民党の国会議員の力関係が反映されるという説は正気の沙汰じゃない。自民党国会議員ないしは自民党員の中で世論調査をやったのならその説明も分からないでもないが、一般国民に聞いた世論調査で「勝ち馬」を意識する人などいるはずもない。この説明が説得力があると言うなら、これまで自民党の中では明らかに負け組の石破氏に乗っかって支持していた人たちは、いったいどういう人たちだと言うのだろうか?勝ち負け関係なしに、支持、不支持は決まるはずである。全く意味不明である。

因みにこの原因を誰も解説しないから少し解説すると、多分こういうことだろう。全体の中で、朝日新聞などの左翼系メディアにすり寄る石破氏を支持する層は、野党支持者を中心に一定数はいるはずである。自民党員の中でも、それなりの数がいてもおかしくない。石破氏の存在は、次のリーダー候補と呼ばれる人たちの中では特異で、石破支持の人と他の人を支持する人とはバッティングしない。つまり、その様な左寄りの反主流派の中では手堅い票を確保できるのである。しかし、それ以外の候補は多かれ少なかれ保守本流を目指し、それぞれの支持者はオーバーラップする。なので、保守本流の次期リーダーの候補者中で票を分け合いながら、個々の支持率は低い値を取るのである。この結果、自民党員の中であっても支持率は1番で、国民全体の支持率でも左翼票を一身に集めるのでダントツになる。しかし、これが今回は候補者が3人に絞られ、例えば明確に左翼系メディアにすり寄る石破氏を良しとする人が25%、それ以外が75%となり、その75%の多くを菅官房長官が獲得するに至ったのである。自民党の総裁選などでも、過半数を1回で取れなければ上位2名で決選投票をするが、これは同じ方向を指向する候補たちが票を食い合った結果共倒れするのを回避するのに役立つ。結局、最後には同じ政治的指向性でひとつにまとまれる候補者を選ぶシステムである。なので、朝日新聞と言えども世論調査で菅官房長官が1位になるのは、後になってみればそれほど不思議ではない。ただ、ある程度の国民の(メディアの洗脳からの)覚醒がなければここまでの差にはならなかったのだろう。多分、コロナが一旦は終息傾向に向かっているのはその覚醒に一役買っているのは間違いないだろう。

と、色々書いてきたが、この流れから次の流れを読んでみたい。

(1)メディアがフルスペックの総裁選でないことを理由に菅義偉総理の正当性を疑問視しているので、首相首班指名後の早期の解散総選挙に大義名分が立つ
(2)インタビューの中で、菅官房長官は消費税に後ろ向きの発言をしたように取られているが、実際には長谷川幸弘氏も指摘している通り、消費税の重要性を説いているだけで「期間限定で5%への減税」という選択肢を明確に否定はしておらず、解散総選挙の大義として消費税減税を前面に打ち出すカードは残されている
(3)解散総選挙を11月1日にすれば、大阪都構想の住民投票と重なり、日本維新の会のアシストにもなり、選挙では日本維新の会が大躍進し、保守的野党の一大勢力を確保することになる(国民民主党の残党(ある意味、政治的には比較的リアリストの人達)と合わせて、国会での建設的な議論が進む)
(4)安倍総理のもとでの改憲は絶対許さないと議論にも乗らなかった野党の大義名分が安倍総理の退陣でなくなり、改憲の議論が一気に進むことになる(自民、公明に加え、第2、第3の野党の維新、国民が加われば、立民/共産と言えど無下に憲法審査会を拒否できない)
(5)目玉として橋下徹氏を総務大臣に据えれば、改革のスピードが一気に増して、様々な規制撤廃でアベノミクスの3本目の矢が飛び始め、経済再生につながる可能性がある
(6)少し先の話になるが、新型コロナのワクチン接種により東京オリンピックに漕ぎ着け、聖火点灯を白血病から復活した池江里佳子さんが努め、世界に対して(白血病の克服に重ね合わせて)新型コロナ克服を宣言し、東京オリンピックが大成功に終わる
(7)その後の総裁選でも菅義偉総理が圧倒的に勝利し、合計4年の任期を全うする(その中で、内政中心の菅義偉総理に対し、1年を経て病気から快復した安倍前総理が外交をサポートし、日本のプレゼンスを維持する)

まあ、何処までが実現するかは分からないが、(6)の池江里佳子さんの聖火点灯だけは間違いないと確信している。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

映画/コンサート/スポーツ観戦にポビドンヨードうがい薬の活用

2020-08-25 23:39:53 | 政治
今日は手短にコメントを。先日、菅官房長官がGoToトラベル利用者が200万人を超え、一方でキャンペーンの割引対象になっている宿泊施設のなかで判明した感染数は10人で、そのうち「Go Toトラベル」利用者は1人だったと報告した。純粋な清い心で見れば、GoToトラベルを延期しなかったことは大正解で、一方で延期や取りやめを主張していたメディアや野党は大外れであったことが明らかになった。何処のメディアも認めてはいないのだが・・・。

この様に、明らかに経済の再始動を始めるときが訪れたと言えるが、それでも常識的には感染リスクの高い映画/コンサート/スポーツ観戦に関しては、人数制限や自粛のハードルが高い。しかし、これらの問題を大きく解決する方法が一つある。大阪の吉村知事が発表したポビドンヨードうがい薬の活用である。あの発表は私はその意義を認めるのだが、多くの識者は「ポビドンヨードうがい薬を使えば、一時的に口内のコロナウイルスが死滅し、検査に引っかからなくなるのは当たり前だ!」と言っていた。しかし、辛坊治郎氏などは吉村知事の勇み足としてその様な側面がある一方、例えば帰省の際に、高齢の爺婆との接触の時だけ一時的にポビドンヨードうがい薬を利用すれば、口からの飛沫内にコロナウイルスが含まれる可能性は大きく低減出来て、高齢の爺婆に罹患させるリスクを減らせるのではないかと、その別の活用法を指摘していた。

であるならば、映画/コンサート/スポーツ観戦の入り口で、入場する全員に対してポビドンヨードうがい薬でのうがいを強制したらどうだろうか?またお芝居の演者やスポーツ選手も、試合や舞台の直前にポビドンヨードうがい薬でのうがいをルール化するのも良いだろう。求められるのは1日に1回(しかも、お客の場合はその時だけ)なので、ポビドンヨードうがい薬の乱用の危険性も皆無である。うがい薬入りの紙コップと、うがいしたものを吐き出すための紙コップを入り口で渡し、うがい用の密閉された小さなブースを作り、その中でうがいをして出口には紙コップの回収箱と自動噴霧のアルコールスプレーを用意して、うがいの終わった人は手指をアルコール消毒して入場するのである。これでマスクを併用すれば、多分、映画館やコンサート会場、野球やサッカーの競技場など、3~4時間程度のイベントなら人数制限しなくても感染のリスクは十分抑えられる。多分、うがい薬を利用しないで入場制限するのと同程度、ないしはそれ以上の安全性が確保できるだろう。
同様の考え方は他にも活用できる。私が最も危惧しているのは真冬の受験シーズンである。受験会場では、朝の入場時と午後イチ辺りで合計2回、ポビドンヨードうがい薬でのうがいを受験生に求めるのである。仮に1回のうがいで4時間程度の効果が期待できるなら、1日で2回うがいすれば、受験会場がクラスター化するリスクは大幅に低減できる。一方でそれにかけるコストは滅茶滅茶安く、どこかの利権まみれのPCR検査教の人達の主張に比べ、多分、コストパフォーマンスは1万倍以上であろう。

これは、うがい薬と紙コップの確保、うがい用ブースの作成をすれば、明日からでも活用できるはずだ。チケット販売時には、うがいの承諾を条件として求めれば、多分、混乱が起きることもないだろう。外食産業の場合には、食べ物の味が変わってしまうので活用は難しいと思うが、活用できる職種、イベントは他にも多いと思う。是非、これを活用して欲しいと思う。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

新型コロナのワクチン及び政策とその副反応/副作用について

2020-08-22 23:09:20 | 政治
21日行われた新型コロナウイルス対策の政府の分科会で、新たなワクチンが開発された後に、誰に優先的にワクチンを接種するかが議論されたという。西村経済再生担当大臣は、感染リスクの高い医療従事者や、重症化するリスクの高い高齢者などを優先する旨を発言し、これからこの手の議論が白熱化することが予想される。

もうすでに一部のワイドショーでは、この様なワクチンの危険性を声高に叫ぶ者もいるようで、安全性が完全に確認できていない段階でのワクチン投入に批判的な声も気行かれる。現時点ではその動向はそれほど目に見えたものではないが、今後展開されるであろう状況を予測しながら、本当の論点が何処にあるのかを考えてみたい。

話が長くなるので最初に結論じみたことを書けば、ワクチンや特効薬の議論をするのであれば、俯瞰的にメリット(効能)やデメリット(副反応/副作用等のリスク)を評価し、利益の期待値の最大化の観点で議論をすべきだと私は考えている。これは、実は新型コロナ対策の政策という薬に対する議論も全く同様である。ひとつの政策にはメリット(効能)とデメリット(副反応/副作用等のリスク)の両方があり、その両方を見比べて総合的に判断しないのであれば、致命的なミスリードにつながる可能性がある。

例えば、ある薬やワクチンを使用したことで、年間、1万人もの人の命を救うことができたとする。一方で、年間、10人程度の人が何らかの副反応を示し、死に至らないまでも数人が重篤化したとする。これは、犠牲者を1千~1万分の一にする効果を意味するが、日本では1万倍の人が死んでも副反応での被害者をゼロにすることを求める傾向がある。薬やワクチンの場合には、それを接種しなくても死なずに済む確率はある程度高いから、年間1万人の中の一人になる確率を許容して、年間わずか10人の中の一人になることを回避したくなる気持ちは分からなくもない。しかし、今回の新型コロナでは多かれ少なかれ全国民が何らかの影響を受けていて、意外に身近に多大な被害を被っている知人がいたりする。ここまで被害が身近になるのであれば、リスクとしての副反応/副作用と、メリットとしての効能を冷静に比較し、「リスクの程度×そのリスクの発生確率+メリットの程度×そのメリットの実現確率」としての期待値を最良にする政策(薬/ワクチンの活用も同様)を選択しなければならない時が来ている。

既にお気づきの方も多いと思うが、その典型的な例が子宮頸がんワクチンである。若年層の女性に行う子宮頸がんワクチンは、現在は殆ど実施されていない現状である。一時期、子宮頸がんワクチンの副反応によるものと思われる様々な障害を負うことになった女性達が話題となり、子宮頸がんワクチン撲滅キャンペーンの様なものがテレビで繰り広げられた。厚生労働省はワクチン接種を推奨するのを取りやめ、現在もその状況は変わっていない。しかし、世界的に見ればこれは日本に特異な状況で、この状況を打開すべく子宮頸がんワクチンの必要性の啓蒙活動を繰り広げていた村中璃子医師には、英科学誌ネイチャーなどが「困難や敵意にぶつかりながら、妥当な科学や公益に関する事柄の根拠を世界に広める人」を表彰するために創設したジョン・マドックス賞が贈られている。このことからも分かるように、極めて非科学的で非合理的な日本社会の動向は世界的にも違和感を持って受け止められているのである。

この子宮頸がんについて調べてみれば、平成26年度のデータではあったが、当時の年間の子宮頸がんの罹患者数は年間で1万人以上で、このうちの3000人弱が死に至っている。一方で、累積で340万人程度に子宮頸がんワクチンを摂取した中で副反応が表れたのは累積で1739人(0.08%)で、その後に回復が出来ずに後遺症を患っているのはその中の186人(副反応が表れた人の10.7%、全体の0.005%)である。未確認であるが、死亡した人がいるとの記載はなかった。子宮頸がんワクチンの安全性は徹底的に調べられ、実は子宮頸がんワクチン接種者の中で副反応を示す人の割合と、一方で子宮頸がんワクチンを接種していない者のグループの中で同様の症状を患うものの割合を評価した結果、そこに統計的な差を見出すことが出来ないという結論を下している。この統計評価から単純に結論付けることは出来ないが、ひとつの仮説としては「副反応と同等の症状を発生する時限爆弾を抱えた人がワクチンを接種すると、その時限爆弾が残り時間に関係なく爆発(つまり発症)する」とか、「ワクチン接種で副反応を発症するする人がいる一方、ワクチン接種で本来は時限爆弾を抱えていたのに、その時計が止まって発症せずに済んだ人がいる」というシナリオが予想される。副反応により運命の歯車を狂わされるのは心地よいものではないが、その気持ち悪さを嫌って、年間3000人の命を無駄に奪う(これらの人々や、その周りの人の運命の歯車を致命的に狂わす)ことを許容すべきという世間の空気をメスメディアが作り出しているという状況は到底受け入れられない。マスメディアは状況を人々に正確に周知し、そのうえで一人一人が判断すべき話なのである。誤った情報の洪水を垂れ流す現状は今すぐに変えていかなければならない。

今回の新型コロナウイルスのワクチンは、単に新型コロナウイルスにかからないためのワクチンとは意味が違ってきている。それは、単に一人が新型コロナにかかるかかからないかの議論ではなく、経済活動を再開させることができる状況を生み出すか、生み出さないかにもかかってくる。つまり、欧米諸国では多くの人がワクチン接種を行い、経済活動を再開させて景気が回復する状況に至ったとしても、日本国内では悪意を持ったマスメディアが子宮頸がんワクチンの時と同様に反ワクチンキャンペーンを張って、結果的にワクチン接種が普及せず、これが基で経済再開が遅れて世界中で一人負けの国となることを恐れている。

この辺の議論をもう少し丁寧に見ていこう。

物事には表と裏があり、表だけを見ていても、逆に裏だけを見ていても、全体を見通すことは出来ない。だから、薬やワクチンに関しては、表側の効能と同様に、裏側の副反応、副作用も合わせて議論の遡上に上げなければ意味がない。総合的に見た時の利益の期待値の最大化というものが何であるかを冷静に見極める必要がある。これは新型コロナ対策に関しても同様である。例えば、「ロックダウン」や「緊急事態宣言」、「過度の自粛」などは新型コロナ対策の処方薬であるが、これは人と人との接触を遮断することによる新型コロナウイルスの封じ込めという表側の「効能」が期待できる一方で、これには当然ながら裏側の「副反応/副作用」もある。テレビのワイドショーではこの表側の「効能」を科学的エビデンスに目を瞑って過大評価していたが、一方で、その裏側の副反応/副作用に関しては全くもって報道していない。

まず、この効能は本当なのであろうか?下記の記事の中の「活動制限と人口比の死者数の関係」のグラフが興味深い。

東洋経済ONLINE「日本ではコロナよりも恐慌を招くほうが怖い」

これはその他の記事でも良く取り上げれれているグラフで、横軸は各国の活動制限の強制力の強さで、縦軸が人口百万人当たりの死者数である。ぱっと見では右肩上がりのグラフかと思ってしまうが、よく見ると横軸と縦軸には相関がないグラフデアあることが分かる。つまり、人の移動を強制的に制限しても、あまり死者数に対して大きな影響は与えないということになる。つまり、ロックダウンには効果がなかったということ。本来は右肩下がりを期待してしまうが、実際には全くその気配は見受けられない。この様に「効能」のエビデンスはないと言っても良い状況である。

他方で、人の行動・経済活動を制限することに対する副反応/副作用については下記に良くまとめられている。

東洋経済ONLINE「コロナ恐れすぎの活動抑制は人口減を加速する」
枩村 秀樹 : 日本総合研究所 調査部長・チーフエコノミスト


まず、多くの方からもご指摘されている通り、景気の悪化は倒産数と失業率を高め、多数の自殺者を誘発することになる。失業率と自殺者の推移の相関は非常に強く、比較的好景気の昨年レベルで見れば自殺者は2万人を割り込んでいるが、リーマンショック後の不景気な時には3万5千人に迫る勢いだった。新型コロナによる景気の悪化は当初のうちはある程度は避けれないものであったが、一旦新型コロナが落ち着きを見せ、様々な対応のノウハウが蓄積された6月以降に関しては、この景気の下支えに対して選択肢が幾つかあったはずである。例えば、GoToキャンペーンの実施などは、極端に新型コロナの影響を受けた観光産業に、微力ながらのカンフル剤となり得る効能が期待できた。しかし、過度の自粛の強制をテレビのワイドショーと野党や一部の都道府県知事が求め、GoToキャンペーンは尻すぼみになった。しかし、新型コロナウイルス対策分科会の尾身会長が日本感染症学会で語ったように、GoToキャンペーンが本格化した8月上旬の時点で、既に新型コロナはピークアウトしているようである。7月の4連休でNY化するはずが、その様な気配は皆無なのである。実際、実効再生産者数も8月に入り、東京、大阪など主要な都市で1.0を下回っているし、その下落傾向は大分前から顕著であった。最近は情報が開示されるまでのタイムラグが短く、どうも3月の時点の第1波と最近の第2波の間には、傾向として大きな乖離があり、対応の仕方も大きく変えなければならないということは7月下旬の段階で明らかであった。にも拘らず、テレビのワイドショーでは連日、「てえへんだ、てぇへんだ!」を繰り返し、日本がこれから地獄の底に落ちると恐怖を煽りまくっていた。しかし、本当の恐怖は新型コロナによるものではなく、新型コロナによる過剰自粛が及ぼす経済の停滞やそれに付随する副作用なのである。

例えば、1000人程度の所謂新型コロナによる死者というのは、3/4以上が70歳以上の高齢者である。この中には基礎疾患を持つ者も多く、元々、ちょっとした風邪でも危険な人々も多く、通常であれば「天寿を全うした」とみられてもおかしくない人々である。しかし、先ほどの東洋経済ONLINEでの新型コロナによる経済停滞に起因した自殺者の予測では、20代から60代の自殺者が多く、当然かも知れないが80代以上の自殺者は殆ど見られない。これらの働き盛りの人々の死は決して「天寿を全うした」ものではなく、高齢者の僅かな新型コロナ死を救うために過剰な自粛を強いて、結果的にその何倍、場合によっては10倍以上の若者を死に導くというのは本末転倒である。薬の処方の効能だけに着目して、その何十倍も大きい副作用に目を瞑るという、信じがたい行動である。さらに言えば、新型コロナに注意が集中しすぎて、例えば癌などによる死者が増大する傾向も容易に予測できる。医療資源が枯渇して手術が先送りされる話はよく聞くが、新型コロナ自粛で人間ドックなどの検診を控える人が増え、これが癌の早期発見を阻むことになるのかも知れない。さらに恐ろしいのは、景気の停滞で結婚者数が減り、出生率も大幅に下がることで少子高齢化が大きく加速するという点である。これは国家の滅亡にも直結する。

この様に、本来は新型コロナ対策は俯瞰的に全体を眺め、総合的な視点で対策を講じるべきであるが、テレビのワイドショーが誘導する方向はこの真逆である。前出の村中璃子医師は、今回の新型コロナ騒動でも冷静なコメントをしている。

デイリー新潮「コロナ禍で「日本はニューヨーク化する」とは何だったのか」
BLOGOS「【新型コロナウイルス】村中璃子氏が明かす「誰でもPCR検査」の弊害」

つまり、物事を俯瞰的に見て総合的な視点で議論できる人は、どの様な問題でも適切に判断することができるが、短絡的で近視眼的な人は、目に飛び込んできたものだけに注意が集中して、誤った判断を下すだけではなく、多くの人をミスリードすることにつながる。

これは肝に銘じて注意しなければならない。

今回の新型コロナのワクチンに関しては、その緊急性に鑑み、所謂120%の安全性確認は求められることなく、世界的にこのワクチンを見切り発車的に使うことになる。製薬会社も、その様な見切り発車による副作用の訴訟を回避するため、ワクチンの提供を各国政府にする代わりに、副作用の問題が起きた場合の補償を政府が肩代わりすることを求めていたりする。このワクチンは世界中で開発されているから、それらは玉石混交状態で、筋の良いものも悪いものも混在している。比較的日本や欧米型のものは素性が良いと期待されるが、実際のところは相当数の接種後でないと分からない。実際、世界一番乗りと言われるロシアのワクチンは、ワクチン接種後に38度程度の高熱を出す者もいるようである。インフルエンザワクチンでは聞かない話である。この様な状態だから、日本国内でのワクチン接種が始まったら、「接種後、1か月以内に(直接新型コロナとは関係ない)何らかの理由で死亡し、後で新型コロナ感染が確認された」などという事例が散見されることは想像に難くない。そのような時に、「やはりワクチンなんて時期尚早だったんだ!」と言い出す者が多数出てくるのは容易に想像できる。

しかし、その様なメディアに流されることなく、毅然として「違うだろ!」と言い返せる理解力が多くの人に必要である。そのためにも、物事の表の部分と裏の部分を俯瞰的に見る習慣を身に着ける必要がある。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

新型インフルエンザ特措法の改正に思う

2020-08-10 00:55:34 | 政治
現在、巷では新型インフルエンザ等対策特別措置法(以降、「新型コロナ特措法」と表記する)の改正のために国会を開けという空気が野党とマスメディアの中に蔓延している。今日はこのことにコメントしてみたい。

まず大前提として、新型コロナ特措法に欠陥が多いというのは周知の事実で、安倍総理を含め多くの方々の異論のないところだと思う。例えば、新型コロナ特措法の第45条により休業要請に法的根拠を与えながらも、一方で補償に関する法的根拠がない。休業補償をするなら補償もセットでなければ意味がないので、この部分が問題であるのは自明である。しかし、ではここに補償に関する法的根拠を加えればそれでよいかと言えば、そう簡単ではない。

多分、私が気にしている点はあまり議論になっていないと思うのだが、私の考えは、この新型コロナ特措法は「性善説を前提とするか、性悪説を前提とするか」という点で、その向かうべき方向が大きく異なるのだと思う。多分、性悪説と言ってもピンとこないだろうから、以下に順番に説明をしようと思う。

まず、新型コロナ特措法の第45条の書き出しは「特定都道府県知事は・・・」とあり、全国の都道府県知事などの首長が自粛要請を行うことになっている。これは大雑把に言えば、感染症の深刻度は地域により大きな偏りがあるので、その現場での判断が重要であり、地方分権の名のもとに、内閣総理大臣ではなく首長が主体的に自粛要請を依頼することとなっている。性善説に立てば、良心的な首長は、地域住民のことを第1に総合的な観点から最善の方策を打つことが予想される。しかし、仮に首長がとり得る選択肢が二つあったとして、片方は住民に最大の利益をもたらす一方で次の選挙での再選率を下げるものであり、残りのもう一方は住民を不幸にはするのだが次の選挙で当選する確率が倍増するというものであったとする。これは議論をシンプルにするための仮定だが、この様な状況で迷わず前者を選べる首長はよっぽど選挙に強い方なのだと思う。

ここで、この二つの選択肢はかなり過激な表現を使ったが、分かり易く言えば、「新型コロナによる死者は最小化しなければいけないが、自粛圧力で経済が窒息し、コロナ死者の何倍もの不景気による自殺者を出すことは許されない。両者のバランスを取りながら、少なくともコロナの毒性が目に見えて弱まっている夏の今、このタイミングでは、コロナの感染防止を最大限に注意しながら経済を回すことにも注力したい」という首長と、「(経済が崩壊してもきっと何とかなるだろうから)今は目を瞑って、ひたすら自粛に専念してください。あなたとあなたの大切な人の命を守るためです!」という首長がいたら、マスメディアは後者を絶賛し、全社の首長については「高齢者の命を屁とも思わない、自己中心的な首長」とレッテルを張りこき下ろすことだろう。という以前の問題として、後者の側のスタンスは今のマスコミの主流だから、この様な首長はテレビでひたすら報道されまくる。小池都知事がその最たるものだが、「悪名は無名に勝る」ので、とにかくテレビの出演頻度が高いということは次の選挙での大きなアドバンテージになる。中々、全社の様な発言をしてもテレビに呼ばれることは稀だから、小池都知事や大村愛知県知事の様な輩が次から次へと顔を出す。この様な立場は現在の政府の立場と異なるから、ついでに政府批判をすると、マスメディアは喜んでヨイショをするのである。

さて話を戻すと、この様に全国の都道府県の首長が性悪説の立場に基づいた行動を取ると何が起きるか?もう少し正確に言えば、新型コロナ特措法が改正され休業要請に休業補償がセットされたとすると何が起きるか?答えは簡単である。自粛要請が不要な地域の首長も、片っ端から自粛要請を行い、それに伴う休業補償を大盤振る舞いするのである。

現在、余り声は大きくないが、新型コロナの自粛に伴う給付金受給者の中には不正を働く者もいて、汗水たらして働くより給付金をもらっていた方が楽という方がいるという。ただ、現在はかなり特異な状況なので、本当に必要な人にお金を回すために、多少の不正受給者は目を瞑るというスタンスは悪くない。しかし、自粛要請の権限が都道府県の首長にあり、盲目的に自粛要請をしまくれば、大盤振る舞いで無条件で国からの休業補償がなされるとなれば、自粛の必要などなくても大騒ぎをして無理やり休業要請に繋げようという悪意を持った首長が表れるのは目に見える。しかもその様な人は、次の選挙でも勝ち残る可能性が高くなる。全国、そんな首長だらけになったら・・・と思うとゾッとする。

その様に考えると、新型コロナ特措法の改正をどの様に行うべきかというのは、中々、一筋縄ではいかない。というのも、「性悪説」を唱えようものならマスコミは袋叩きにするだろうから、そもそもの問題点を議論するのがタブー視されている。こんな状況でまともな議論がなされるとは思えない。

繰り返しになるが、新型コロナ特措法には欠陥が多い。しかし、今、その欠陥を是正できる環境ではなく、しかもその様な困った環境を作っているのはスタンドプレーが大好きな全国の首長、野党やマスコミの皆さんなのだ。様々な問題を是々非々で捉えるのではなく、政府を批判できれば何でもアリという色眼鏡が、こんな形で弊害になるとは思ってもみなかった。

世も末である。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

吉村知事のポビドンヨードうがい薬発言について

2020-08-07 00:26:47 | 政治
大阪の吉村知事が、ポビドンヨードうがい薬がコロナ対策に有効な可能性があるという発言をして、色々な立場の人々が様々なポジショントークを繰り返している。吉村知事は繰り返し注意を促しているが、ポビドンヨードうがい薬に新型コロナの予防効果があるとは言っていないし、特効薬になるなどの薬の効能を主張しているわけではない。薬事法とかの制限があり、非常に微妙な言い回しをしていて歯切れが悪い。

私が初めてこのニュースを聞いたとき、当然のことながら「吉村さん、やっちまったなぁー」と思った。しかし、昨日のひるおびに出演していた、大阪はびきの医療センターの松山晃文次世代創薬創生センター長の解説を聞いて、吉村さんの判断を評価したいと感じるようになった。今日はこの点についてコメントしたい。

まず前提として、私はバリバリの理系だが、医学や感染症関係の知識はゼロなので、感染症の専門的な話をするつもりはない。さらに言えば、昨日のひるおびでの松山センター長の説明は、全く、学術的な感染症の議論に耐え得るものではないということは確信を持って言える。つまり、彼が今回の研究結果を論文にまとめたとして、その論文が査読者によって採録される可能性はゼロだと言い切っても良いと思う。学術的には全く無意味な内容を発言したという点で、多くの医学系の専門家が拒否反応を示すのは妥当な行動だと思う。必然的に、厚生労働省が後ろ向きな反応を示すのも妥当だろう。もう少し具体的に言えば、学術的な効果を認めるにはあまりにもサンプル数が少ないし、ポビドンヨードうがい薬以外のその他の評価条件がどの様に均一化されていたかも不明である。分類分けも、ポビドンヨードうがい薬の使用/不使用以外にも、真水でのうがいの励行なども比較対象にしなかったのは、学術的な議論のレベルを確保するのに余りに無頓着で、行き当たりばったり感は相当高い。

しかし、それでも私は吉村知事の判断を評価したいと思っている。多くの人が勘違いしていると思うが、私も当初は吉村知事の発表を、ポビドンヨードうがい薬により一時的に口内のウイルスの量が減り、それを単にPCR検査で検証しただけではないかと思っていた。しかし、ひるおびでの松山センター長の説明から、学術的な裏付けはないものの、何を狙ったものであるのかを知って、それなりに納得するに至った。そのポイントは、現時点ではまだ仮説の域を出ないが、多分こういうことだろう。

曰く、通常、ウイルスの増殖というのは体の奥の細胞レベルで行われるもので、口内のウイルスを多少殺したところで、体全体のウイルス量に対しては焼け石に水レベルと考えられる。しかし、新型コロナのウイルスの増殖のメカニズムは少し違っていて、そのウイルスの増殖が最も効果的に行われるのが口内であり、故に口内のウイルス量をポビドンヨードうがい薬で低減させると、一旦、ウイルスの増殖工場を破壊する為、次にまたウイルス量が増大するまでの時間を稼げるということのようだ。もちろん、ウイルスは口内だけではなく咽頭や他の場所にもいるので、一度殲滅された口内のウイルスも、別の場所から流れ着いたウイルスにより、再度、増殖することになる。しかし、指数関数的に増殖するシステムでは、ある程度増えたところからは爆発的に短時間で激増するが、一旦少量に戻してしまうと、一定量に増加するまでには多少の時間がかかる。元々、人間には免疫力があり、且つアジア系の人の免疫メカニズムはコロナに強いと言われているぐらいだから、この一時的なウイルス量の低減は勝機をもたらすチャンスにつながる。あくまでも、口内がウイルス増殖の主要な生産工場であるという仮説が成り立つ場合であるが、僅か41人のデータが指示した傾向は、詳細に解析してみる価値がありそうだと感じさせた。

そこで、ではまだまだ学術的には無意味なデータであるのに、何故、それに意味があるのか?

それは、自宅やホテルでただただ待機するだけの人に対し、現状では何も薬が処方されることもなく放置されるのに、(臨床試験も何も求められない)極めて簡易で低コストの対処法を提供できるからである。薬の服用も何もしないのだから、どうせやることがないなら試してみる価値はある。PCR検査や特効薬、更には開発されつつあるワクチンの場合には、そのコストは目が飛び出るほど高いので、むやみやたらとやるのは無害でも推奨できない。PCR検査もウン万円単位だし、新型コロナがPCR検査の医療リソースを独占することで、他の病気の患者の検査スケジュールを遅らせるなどのデメリットも無視してはならない。しかし、単なるうがいなのだから、全くと言って良いほどデメリットがないのだ。

吉村知事が繰り返し、「ポビドンヨードうがい薬には、新型コロナの予防効果はない」と言っているが、これはコロナ陰性者が定常的にポビドンヨードうがい薬を常用する場合の副作用を意識してのことだろう。あくまでも、コロナ陽性者の自宅ないしはホテルでの療養中の患者に限定すれば、期間が短いので副作用は無視して良いだろう。さらには、病院に入院中の患者の場合でも、ポビドンヨードうがい薬によるうがいができる程度の患者さんにうがいを実施させれば、医療関係者への感染のリスクも低減可能である。ついでに言えば、帰省やGoToトラベル期間に限定して一般の人が利用すれば、スポット的に旅行中の感染拡大の抑止(誰かにうつすことを予防する)にも使えるかも知れない。活用の仕方は様々考えられ得る。

なので、変な言い方をすれば、今回のケースは「ZOZO前社長の前澤氏が、街中で(個人情報の登録もなしに)当たると100万円の宝くじを無料で配っていたら、あなたはその宝くじを受け取りますか?」と聞くようなものだと思っている。多分、本当に当たれば実際にお金を受け取れる可能性は高い。一方で、外れても何も失うものはない。個人情報も洩れない。「あんな宝くじ配るなんて、ばっかじゃねーの!」と言って通り過ぎるのは勝手だが、宝くじを受け取った人や、友達に宝くじを配っていることを知らせている人を馬鹿にするような話でもない。外れたら、「やっぱねー。上手い話なんてそうそうないよね!」とぼやけば良いだけの話である。吉村知事は、国民に「ここで前澤さんが、無料の宝くじを配っているよ!」と声高に叫んだに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。

以上が私の感想である。ただ、せっかくだから、おまけの話も書いてみたい。前澤さんほどの説得力がないので、ここで配る宝くじは紙くずの可能性が高いのだが・・・。

以前、インフルエンザの予防に緑茶でのうがいが良いという記事を読んだことがある。カテキンの殺菌作用が良いのだという。であるならば、新型コロナ陽性でない人は、ポビドンヨードうがい薬ではなく緑茶でうがいを1日4回してみてはどうだろうか?緑茶など普通に飲用するものだから、ポビドンヨードうがい薬の常用の様な副作用の可能性はゼロである。一方で、薬局で品薄で使いたくても使えないという制約もない。真水でのうがいよりは効果はありそうだ。少なくとも、うがいを小まめにするだけでも価値はありそうだ。

試しに明日からやってみようか・・・。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

湾岸戦争とGo Toトラベルキャンペーン

2020-07-20 22:15:55 | 政治
なんとも意味不明なタイトルであるが、非常に重要な点で類似しているので、このタイトルでコメントしてみたい。少しタイミングを逸してしまったが、Go Toトラベルキャンペーンのことである。世間一般では、Go Toトラベルキャンペーンの強硬が日本を地獄に導くと、悪の権化の様な論評で、だから安部総理は駄目だとアベノセイダーズの人々は大喜びである。しかし、本当にそうだろうか?この議論を見ていて、私は湾岸戦争を思い出した。以下に順番に説明する。

1990年代の初頭、イラクが突然クエートに進行した。いわゆる湾岸戦争である。アメリカを筆頭とする多国籍軍がイラクを叩き、しばらくして戦争は終結した。この時米軍は、いわゆるハイテク兵器を導入した。ターゲットを正確に定め、そこにミサイルを正確に誘導する。そしてその映像はテレビで繰り返し流された。私を含め多くの人は、「戦争は悪だが、先に手を出したイラクを叩くために、敵の軍隊を正確に選択的に攻撃するこの戦争は、絶対的に正義である」と感じたはずだ。

しかし、その戦争が続く間、意味不明なニュースに直面することになる。それは、米軍の攻撃が多くの民間施設を破壊したというニュースである。私には意味が分からず、多分、イラク側からのプロパガンダニュースかと思った。しかしよくよく考えると、イラク側は戦争が始まっても米国のジャーナリストを排除することなく、CNNなどのニュースで普通に戦場の映像が生中継されていたので、その場に行けば誤爆か誤爆でないかは容易に分かるはずだった。なので、米軍が派手に民間施設を誤爆しているのは間違いなかった。それでも「たまにはヒューマンエラーで誤爆もあるだろう」と何となく納得し、そんなもんだよと納得しかかっていた。しかし、あまりに頻繁に流れる誤爆のニュースから、どうもなにかおかしいと感じ始めた頃、その謎解きのようなニュースが流れた。曰く、「米軍のハイテク兵器の割合は、ほんの数%である」ということである。米軍は意図して自分の都合のよい情報を流すのだが、それにつられてその情報を真に受けると、実は本質を見失うということの象徴的出来事であった。確かに、米軍は嘘をついた訳ではない。しかし、真実を理解するのに適した情報を流している訳でもない。ジャーナリズムを自称するなら、深い洞察により真実を見抜き、視聴者をミスリードする情報を報道しないように心掛けなければならない。一見、視聴率が取れそうなコンテンツがそこにあっても、それに流されるようではジャーナリスト失格である。湾岸戦争に限らず、その様な事態を我々は何度も経験しているのである。

このように書いていると、現在のコロナの状況に酷似していないか?と感じる。具体的には、感染者数を毎日のようにショッキングに報道しまくるが、この感染者数の報道というのは、言わば湾岸戦争におけるハイテク兵器報道に似ている。例えば、湾岸戦争に関して言えば、米軍の作戦行動の妥当性評価の指標は、「どれだけ高性能な兵器を所有しているか」ではなく、「誤爆により、どれだけの民間人に犠牲者が出ているか」なはずである。であればコロナの場合はどうなのか?ワイドショーのキャスターが「何を基準にどう判断すれば良いのか?」とコメンテータに問うているが、その基準とは少なくとも感染者数でないことは明らかだ。検査数を変えれば、現状は全く変わらなくても、幾らでも異なる数字を導くことはできるのだから。分かり易い記事はこの記事だろう。

【話題】『これこれ。これが知りたかったんですよ』

見るからに、現状をミスリードしている証拠がここにある。にもかかわらず、その他の指標を無視して、一転突破で「感染者数」にこだわるのは、僅か数%のハイテク兵器に踊らされる状況に酷似している。

とすれば、感染者数に代わる適切な指標、評価関数は何であろうか?この適切な指標を誤ると、間違った結論に容易に誘導されることになるので注意が必要だ。私も当初、重要なのは「コロナによる死者を最小化すること」かと思ったが、実はそれも正解ではない。多分、「コロナによる超過死亡数を最小化する」が正しい指標である。不況になると、目に見えて自殺者数が増大する。経済を止めて、究極の不況を導くと、それによる自殺者数が増大するのは目に見えている。それを無視して、「自殺者が増えてもいいから、コロナ死者だけを最小化する」というのは、政策的には最悪である。一方で、自殺者が減ってもコロナでの死亡者が激増しては意味がない。死亡者の数はその原因に関係なく尊い命の損失なわけで、コロナも自殺も区別がない。なので、感染者数増大の報道に騙されず、冷静に超過死亡者数の最小化を図るかが鍵なのである。しかし、この様な視点での議論はマスコミのなかでは殆ど聞くことがない。

ここで問題なのは、一見、「てーへんだ、てーへんだ!!」と大声を上げることは、必ずしも悪意があってやっている訳でもなく、多くの場合は善意でやっていることが多いのかもしれない。マスク警察や自粛警察なども、本人に言わせれば善意から来る行動であろう。しかし、それらは決して許されるものではない。であれば、経済を強制的に止め、自殺者数を増大させる方向に誘導する議論も、言わばマスク警察、自粛警察と似たようなものである。ましてや、反政府的なプロパガンダにこれを利用するという悪意のある、マスコミ主導の逆プロパガンダ等は絶対に許されるべきではない。言論の自由という隠れ蓑で国民の命を貶める行為は、いつの日か検証されてしかるべきであろう。

なお、このコロナ問題というのは世界中で正解がいまだに見つかっていない問題である。なので、政府が正解を示さないことを責めるのは筋違いである。多分、政府側は今回の本質に気がついているのだと思う。以下に、私が良く参考にしている永江一石さんの記事に詳しく書かれているが、現在のコロナウイルスは武漢型、イタリア/スペイン型に比べて感染力が増大しているようだが、一般に感染力とウイルスの毒性は反比例していて、現在のウイルスは当初のような危険性を伴っていないようである。さらに言えば、PCR検査では献体から5個のウイルスを検出すると陽性と判定するが、実際には100位の数にならないと発症しないとのこと。ある程度のウイルスの数までは自分の免疫力で退治できるので、陽性の閾値5個という検査はかなりバランスの崩れた検査になっているようだ。例えて言うなら、漁業で鰹や鯵を捕まえるのに1mm以下の網目の網を使うようなもので、プランクトンから漂うゴミ、海草まで全部ごっちゃで捕らえてしまうオーバースペックの網を使うといったところか。肝心の大型の魚は水揚げする前に逃げてしまい、漁業というビジネスのために役に立っていない網と言っても良いだろう。現在のPCR検査もこんなところだろうか?膨大な死者を出すインフルエンザも、発熱しない人まで含めて厳密な検査をすると、無症状の陽性者がかなりの数出るそうだが、その様な人を見つけてインフルエンザで大騒ぎなどしたりはしない。コロナだけが特別の扱いなのである。

また、辛坊治郎氏(ニッポン放送の「ズームそこまで言うか」など)も指摘しているが、現在はワクチンや特効薬がない一方で、対処療法的な治療法は確立されているようだ。なので、早期の適切な対処で重篤化を回避でき、致死率はぐんぐん下がっている。冷静に見て、特効薬のある普通のインフルエンザと比較して、とても特別扱いすべき病気のようには見えない。

これらの要因が相まって、世界的に重症者数は目に見えて減少しているというのが現実で、だからこそ諸外国は、日本の何十倍もの死者を出しながらも、経済の再起動に舵を切っているのである。死者数がけた違いに少ない日本だけが、感染者数だけで大騒ぎしているのは明らかに世の中の動向を無視したお祭り騒ぎである。

なお、Go Toトラベルキャンペーンの開始タイミングは、丁度、梅雨明けのタイミングに重なり、紫外線が三々と降りしきる状況に重なる。秋になるとまた感染者数が増大する局面に入るかも知れないが、このタイミングは相対的にコロナのリスクが最小化されるタイミングである。なので、「やるなら今しかない!」というのが本音であろう。

この様に書くと、「ならば政府は堂々とそれを説明すればよいだろ!」と思う人がいるかも知れない。しかし、国民全員が一斉に気を抜くのは良くない。マスクもしなければ、想定以上の感染に拡大するリスクもある。ある程度は国民を脅しながら、細心の注意をしながらのGo Toキャンペーンというのが、如何にも日本的なバランスの取れたwithコロナの生き方なのだと思う。

この様に、現在のGo Toトラベルの議論は、国民をミスリードする情報に溢れている。湾岸戦争の後では、ミスリードを試みた米軍を批難する者も多くいたが、今回、ミスリードを煽ったマスコミの中に謙虚に自分の行動を省みるメディアがいったいどれだけいるかと考えると、マスメディアというものは、なんと罪深いものかと思わざるを得ない。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

新型コロナに関する中間総括

2020-06-18 23:01:29 | 政治
新型コロナ、すなわち武漢肺炎に関する中間総括をしてみたい。某米国のメディアは、日本政府のやることは一見すべて悪手のように見えるが、何故か上手くいって不思議だと報じている。国外だと(国内でも?)その理由が解らないのだろうから、簡単に解説してみたい。

まず、大前提治して、東アジアエリアにおける武漢肺炎に対する免疫力が、何故か欧米よりも高い効果を発揮しているという背景は、誰にも否定しようがない。だから、現在の優等生的な結果の原因の全てが日本政府の成果であるという訳ではないのは明らか。私の理解では、非常に多くの点で、日本政府の狙いとは違った点で功を奏したことが多くあったからだと考えている。そして、狙いとは違う部分も多かったが、それなりに良い筋を突いていたのも確かだと考えている。順番に見ていこう。

まず、もっとも重要な点は何かと言えば、武漢肺炎にあたり、何を政策の最優先とすべきかという点で、日本政府は適切な判断をしたのだと思う。それは、最重要課題は「武漢肺炎による死者を最小化する」という、明確なポリシーである。このポリシーの下、その目的を達成するための手段として「医療崩壊を何がなんでも回避する」という方針が立てられた。そして医療崩壊の定義を、重篤患者に対して適切な医療リソースを提供できる状態を維持できないことと定め、それを防ぐための政策を徹底した。「適切な医療リソースを提供できる状態を維持する最善の方法」を見つけることは難しいが、逆の「適切な医療リソースを提供できない状態」を作る方法は簡単である。それは、「重篤者向けの医療リソースを、軽微な患者に回してしまうこと」なので、この真逆のアプローチをとれば良いのである。残念ながら、初期段階で武漢肺炎を指定感染症に認定してしまったがために、軽微な患者による医療リソースの食い潰しを回避するには、無用な罹患者判定を極力回避することが必要となった。そのために、入院できずに命を落とす少数の被害者を許容して、軽微と思しき感染者予備軍を敢えて病院から排除する必要があった。心を鬼にしてPCR検査を回避し、際大多数の最大幸福を優先したのである。この様に、PCR検査数を必要最小限にするのは、(日本政府は声を大にして言うことはできないが)日本政府が定めた明確な方針なのである。これが功を奏したと言える。

因みに、イタリア、スペインではPCR検査を多数行い、結果的に医療崩壊を招いた。武漢肺炎に罹患している可能性の高い人々を、免疫力が落ちた人が待ち受ける病院の待合室へ送り込めば何が起きるかは容易に予想できる。折しも、日本ではPCR検査を行わないことで日本のマスコミが日本政府を叩きまくる一大キャンペーンを張っていたので、他国の政府はこれを他山の石と勘違いし、PCR検査を積極的に行おうとした。PCR検査が出きると知れば、病院に行きたくなるのは人の性というもので、どんどん病院に患者が殺到し、彼らが医療崩壊をもたらした。はっきり言って、日本のマスメディアが世界中に誤った認識を与え、その結果として多くの市民を無用に死に追いやったというのが私の感想だ。一方で日本はといえば、どんなに医者に圧力をかけてもPCR検査を受けられないので、多くの人が病院に行くことを諦めるに至った。一方で、保健所経由で本当にヤバイ人を病院に収容することは行っていたので、完璧とは言えないまでも、バランスのよい対応を行えたのではないかと思う。

次に、このような医療崩壊を回避するためにPCR検査を最小にしながらも、それでいてパンデミックを避けるためには、効率的に罹患者を探し出す必要があった。このための手法が、クラスター対策である。日本政府の第2の方針は、このクラスター対策でパンデミックのタイミングを極力遅らせて、医療体制の再構築のための時間稼ぎを図ったのである。感染ルートを早期に探しだし、2次3次感染を潰すのである。これは、感染者数が増大した後では無意味だが、感染数が少ないときには有効であることが分かっている。実効再生産者数を抑えるためには、ツリー状に拡散して行く枝を早い段階で摘み取ることで、指数関数的に増加する状況を線形の増加に抑えることが可能になる。どちらにしろイタチごっこで徐々に数は増えていくのだが、医療体制を整えるための時間は稼ぐことができた。統計データがそれを物語っている。そうこうしているうちに、罹患者をホテルや自宅に待機させる制度が構築され、指定感染症にしてしまったポカがリセットされた。

以上のことから、日本政府が最優先と位置付けた「武漢肺炎による死者を最小化する」こと、及びそのための手段としての「医療崩壊を何がなんでも回避する」という方針は、PCR検査の最小化というアプローチで実現することができた。医療体制の再構築の時間稼ぎもできたので、これらの意味では日本政府の通信簿は少なくとも及第点であるのは間違いない。

では、日本政府のその他の判断や方針は適切であったのかという点を見てみたい。

まず一つ目が、緊急事態宣言の発出時期について。まず、既に明らかになっていることだが、実効再生産者数でみれば4月上旬には1を切り、終息方向に向かいつつあったことが知られている。海外でもロックアウトがなされた国となされていない国との比較から、ロックアウトが感染抑圧の視点からはあまり効果がなかたことが確認されている。だとすると、緊急事態宣言の発出の有無に関わらず、遅かれ早かれ、武漢肺炎の日本国内でのパンデミックは治まっていたことになる。とすれば、緊急事態宣言による経済への悪影響だけがマイナスであったとみることもできる。しかし、話はそう単純ではない。日本では、緊急事態宣言と言えど何も強制力などないのだから、云わば「伝家の宝刀」と見せかけた竹光なのである。しかし、にも拘らずこれだけ短時間に効果が表れたのは、国民が自粛という一つの方向に力を合わせて臨んだからである。この一つの方向に向かわせるにはある種のショック療法が必要で、小池東京都知事が東京をロックダウンすると発言したこともひとつの処方箋であった。私は、東京をロックダウンしたら、東京の患者が各地に散らばってしまいマイナスになるのは間違いないので良い判断だとは思わないが、結果論で見れば多くの国民を脅すにはそれなりの効果があった。その次に来たのが志村けん氏の訃報であり、これは相当な効果があったのだと思う。最後の仕上げが政府の緊急事態宣言で、「ついにこの時が来たのか・・・」という感想を多くの国民に持たせたのだと思う。

ここで注意しておきたいのは、政府の緊急事態宣言には実効的な意味はなく、単なる要請でしかないので、緊急事態宣言が直接的に何らかの効果をもたらしたのではないということは明らかである。つまり、日本政府が想定していたかどうかは別として、国民の「自粛しなきゃ!」という気持ちに火をつけた要因の一つに緊急事態宣言があるのは間違いない。世界的に見れば、この程度のことで気持ちを一つに難局に立ち向かえる国などそうないのだろう。だから、頓珍漢なことをやっているように見えるし、直接的に政府が何かをした訳でもない。あくまでも、間接的な効果として、国民の自粛を促したのである。そして驚くことに、緊急事態宣言が解除された現在においても、この自粛ムードはいまだに残っており、ロックダウン解除後の他国のより戻しの傾向と比較しても、日本の健闘は非常に目覚ましいものがあるということである。

この様に考えた時に、ではタイミング的には非常事態宣言の発出は遅すぎたのではないかという主張もある。確かに、もっと早く非常事態宣言を出していたら、武漢肺炎に感染して死なずに済んだ人も多かっただろう。しかし、あまりにも早期にだされていたら人々の緊迫度は違ったものになっていただろう。つまり、志村けん氏も全快して元気にテレビに顔を出していたら、自粛の本気度は全く別物になる。つまり、期待通りの自粛がなされずに、欧米諸国から「ほら見たことか!」と揶揄される事態になり、かなり長く尾を引くことになったであろうことが予想される。あくまでも結果論だが、全体的には丁度良いタイミングであったのではないかというのが私の感想である。

同様に、小中高校の封鎖の是非についても考えてみたい。結果論からすると、低年齢層は重篤化率も非常に低く、且つ、感染してもウイルスを体外に排出する量が相対的に非常に少なく、結果的に流行に対する影響は非常に小さいことが分かっている。この意味では、小中高校の封鎖は全く無意味であったと言える。しかし、段階的に緊張感を増していくのは意外に妥当なアプローチと言える。例えば、小池東京都知事がロックダウンという言葉を発したタイミングで、トイレットペーパやティッシュペーパの買い占めが起きた。食料品の多くも買い占めがなされ、半ばパニック状態になりかけていた。急激に舵を切るというのはそういうことである。その意味で、小池東京都知事の行動パターンは、かなり浅はかと言わざるを得ない。しかし、日本経済にとっては影響がほとんどない小中高校の封鎖という段階を踏んでいたので、余り極端なパニックが起こることなく、スムーズに緊急事態宣言が実施できたのであると感じている。この辺も、日本政府の意図からはかなり外れたものであるが、結果は大きくプラスに働いたと言える。

実は、この想定外の副次的、間接的な効果というのはそれ以外にもある。所謂、アベノマスク効果である。政府が、各家庭にマスク2枚ずつを決めた時、マスコミも野党もボロクソだった。日本の国会では、あろうことか世界的に向けて「布マスクの無意味さ」を声高に叫び、日本の官僚の国会答弁で自虐的に「世界的に効果が認められているとは言っていない」とまで言わしめた。実際の配付も意外に時間がかかり、一部には不良品もあるなどしてけちょんけちょんに叩かれた。しかし、冷静に考えてみると、あのアベノマスクの配付提案が日本のコロナ問題の全体の流れを結果的には大きく変えたのだと私は感じている。

まず、あの政策の狙いは非常にシンプルで、非常に筋が良いものであった。すなわち、不織布による高性能マスクを医療従事者に集約し、一般国民は布マスクで我慢しようというものであった。布マスクを国家が配付するから、不織布のマスクの争奪戦はもうやめようと首相自ら国民に呼びかけたのである。しかし、これが思わぬ効果をもたらすことになる。当初は世界中の笑いのタネであった「武漢肺炎対策に竹槍(布マスク)かよ!」的な嘲笑が、気が付くと世界の潮流にまで昇華していくことになる。つまり、布マスクは人からの感染を防ぐには無意味かもしれないが、人への感染を防止するには絶大な効果があるという流れである。これは、日本政府も単なる苦し紛れで「ないよりはましだろう!」的な発想だったのが、気が付くと「正解」として認知されることになった。ではそれだけかと問われれば、実はアベノマスクの配付にはそれ以上の効果があったのだ。すなわち、「アベノマスクが出てきたら、不織布マスクの高値転売は無理!」という空気を強く打ち出すという効果である。これは完全に副次的な効果であって、狙ってできたものではない。しかし、意図しないものではあったにせよ、結果的には全体の流れを大きく変えることになった。不織布マスクの市場価格は一時期、1枚100円に迫っていたが、今では1枚40円出せば比較的簡易に変えるようになった。巷では、自家製マスクのお洒落度の競い合いなども見られ、withコロナの中での密かな楽しみ的な部分でもある。結果、医療従事者がマスクで右往左往することはなくなり、医療従事者の罹患を抑制する効果につながった。同様に、高齢者施設内でのマスク着用により、高齢者の集団感染も予防でき、医療崩壊を防ぐ上でも効果が大きい。目に見えないリスクが単に顕在化しなかっただけという結果を目に見える効果として評価するのは難しいが、実際は紙一重のギリギリのところであった可能性も否定できない。とすれば、これは大いに評価されてより部分であろう。しかし、誰も評価などしてくれないのだろうが・・・。

この様に、アベノマスクもマスク配付の直接的な効果としては殆ど価値を見出すことは出来ないのだけれども、その配付行為により副次的に得られた効果は、マスク配付の約460億円よりも遥かに大きな効果となって表れている。これは、左巻きの人々からすれば、直接的な効果ではないから安倍政権の成果とは言えないと言いたいところかもしれないが、走りながら考えるしかない現状において、走りながら結果的にゴールにどんどん近づいたのだから、結果責任が問われる以上、その結果は素直に政府の「得点」として認められるべきであろう。

この様に解説されれば、多分、納得できる部分は多くあると思うのだが、でもそれを敢えて「落第点だ!」と声高に叫びたいのが今のマスメディアである。その声を意図的に海外で宣伝し、更にはそれを逆輸入してマッチポンプ化する大手新聞社も存在する。結果的に日本政府の評判は良くないのだが、それでも日本政府は一喜一憂することなく、道を模索しながら一歩一歩前に進んでいる。その姿勢を私は評価したい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

渡部建の不倫報道について思うこと

2020-06-13 00:21:31 | 日記
アンジャッシュ渡部建の不倫報道が芸能ニュースで大盛り上がりである。まことにどうでもよい話で、単に「良い子はまねをしないように!」という話なのだが、良い例だから一つコメントしておきたい。

先日の検察庁法改正法案の話もそうであるが、私が何よりも嫌いなのは「恣意的なダブルスタンダード」である。主義主張が一貫しているのではなく、その時々で自分に都合の良いように話をすり替えるのはどうしても耐えられない。マスコミは、誰にでも平等な物差しで、平等な価値観で個々の事案を是々非々で判断し、その結果を自信と責任をもって発信すべきである。しかし、最近のマスコミは極度に劣化が進み、結論を先に決めたら途中の議論を捻じ曲げても構わないと確信を持っているようだ。

不倫報道というのはいつ聞いても不快なもので、しかし、ずっと昔からそこら中であった話である。ビートたけしなどは自ら自虐的な浮気ネタを平気で話をしていたし、実際にそのことを裏付ける報道も数多くあった。奥さんのもとには帰らず好き放題やっていた。結果、つい最近になって数年前から不倫していた相手と再婚することになるが、それを咎めるような論調は何処にもない。「芸の為なら女房も泣かす」というのが芸人という見方もあるが、それを言ったら渡部も同じ単なる芸人。東出の不倫は芸人じゃなくて俳優だから違うという人もいるかも知れないが、それを言うなら、たけしは世界的映画監督、云わば芸術家とも言えるわけで、たけしが責められない理由が分からない。今回の渡部は、相手女性が文春に駆け込んで訴えられるほど、粗雑な扱いをしていたことがいけない…という人がいるかもしれないが、それなら東出は相手に訴えられているわけでもないのに叩かれている。

結局は、叩きやすい相手か、叩いたときに返り血を浴びないか、叩くと新聞/雑誌が売れるか、視聴率が取れるか、が判断基準でしかない。でもそれは、判断基準を恣意的に捻じ曲げているという話である。一瞬だけ報じて、「後は夫婦と関係者で話し合ってください」というなら分かるが、当然、おいしい話を自ら棒に振るマスメディアはいない。ネットで炎上し、そちらでガソリンが投下されて更に炎上すれば、それはマスメディアの思うつぼ。

ついでに言えば、ちょっと前の某政党のマドンナ的な女性国会議員がダブル不倫して離婚したという話があった。これが自民党の女性議員だったら大騒ぎになっただろうが、野党となるとだんまりを決め込む。ちょっとした有名人だったから、マスメディアもニュースバリューは十分にあったはずだが、何故か話題にもならない。

都合の良いときは正義を振りかざすが、別に正義感に駆られて何かをしている訳ではない。単に儲かるからしているだけのこと。戦前の朝日新聞や毎日新聞が、軍国主義を増長していたのと同じ。立派な基本原則などなく、恣意的な判断のみがそこにある。しかし、それは自殺行為だと分からないのだろうか?とても、そんな人の言うことなど、私は信用できないのだが・・・。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

「検察庁法改正案に抗議します」の意味すること

2020-05-13 23:45:57 | 政治
最近、検察庁法改正法案に反対する芸能人が尋常でない数に増えている。これって何なんだろう・・・と思い、自分なりに要点を整理してみた。すると見えてきたことがある。断言しても良い。この法案に反対している芸能人は、この法案自体に問題があると思い反対しているのだろうが、何故この法案に問題があるのかを一人として理解していないことが分かった。以下、私なりの理解を整理してみたい。説明は、全体を5つのパートに分けて説明したい。いろいろ間違っている部分もあると思うが、細かい点はご容赦願いたい。

(1)検察庁法改正法案、国家公務員法等の一部改正に関する政府の言い分
まず、法案を提出する政府の言い分を代弁してみたい。要点はこうだろう。

近年、年金の財源がひっ迫する中、年金の受給開始年齢を引き上げている。民間企業であれば、これに合わせて定年の年齢の見直しがなされるが、国家公務員や地方公務員の場合には法律を改正してこれに対応する。検察官は国家公務員であるから普通は国家公務員法等の一部改正でカバーできそうであるが、何故か検察官の定年は検察庁法で規定されているので、同じ国家公務員である検察官の定年を延長するためには検察庁法も合わせて改正する必要がある。

以上の説明について、ニュートラルな立場で読めば、この立法行為に何ら問題がないのは明らかだろう。

(2)検察官と三権分立について
テレビを見ていると、三権分立を揺るがす由々しき問題であると指摘する人が多い。そこで、これまた政府の言い分を代弁してみたい。まず、司法、立法、行政を分離し、それぞれが相互に独立して振舞うことが民主主義の原則であろう。ここで、本来であれば検察は「行政」側の機関であるので「司法」というのは不適切かも知れないが、敢えて野党やマスコミの論調に従って「司法」を守る機関のひとつとみなして説明する。要点はこうだろう。

検察の検事総長、検事長などの幹部の任命権は法務大臣にあり、法務大臣が恣意的に自分の息のかかった者をトップに据えれば、政権与党内部の犯罪者を逮捕せずに済ませることが可能になってしまう。なので、法務大臣が恣意的に検察人事を好き放題決めるのはまずいだろう。しかし、では検察の人事権を誰に持たせるかと言えば、法務大臣(内閣サイド)以外に選択肢になり得るのは検察内で自分たちの人事を決めることである。実際、この2者択一となるのであるが、この後者には大きな問題が付きまとう。それは検察の暴走である。実際、検察が常に中立な立場で法の番人を振舞っていたかと言えばそうではなく、膨大な権力を不当に振るわないようにさせるためには、何らかの管理下に置かなければならない。したがって、法務大臣が勝手に決めるのもダメ、検察内部で勝手に決めるのもダメ、ということで八方ふさがりに陥りそうなのだが、実際には上手い運用上の落としどころを歴代政府は採用している。それは、検察側に人事案を提案させ、内閣がそれを承認するという方式である。これならば、検察が「流石にやりすぎだろう!」ということをしたら、法務大臣がストップさせることもできるし、法務大臣が検察側の提案を理由もなしに拒否したら、それは法務大臣の暴走と一般の人にも可視化できるので、双方が微妙に綱引きをしてバランスを保つことができる。

以上の説明についても、ニュートラルな立場で読めば、それほど違和感はないであろう。

(3)今回の問題の出発点
ここから先は私の思い込みで説明する部分も多くなるので間違いがあるかも知れない。この辺はご容赦願いたい。

まず、上記(2)における人事においては、検察庁法内で検察官の定年が定められている。多分、誕生日がくると定年で肩を叩かれるのであるが、一般の民間企業では「誕生日=肩たたき」とはならず、年度末に退職となるケースが多い。察するに、民間と同様に検察でも(定年を迎える年度の前の)年度末などキリの良いタイミングで定期的に人事異動をするのが基本ではないかと思うのだが、法律で誕生日となっているので、場合によっては誕生日まで粘ることは可能であろう。

現在の検事総長は稲田氏で、その後任の筆頭は東京高検の黒川氏である。話によれば、稲田氏(ないしはその取り巻き)は夏に行われる国際会議に検事総長の肩書で出席して花道を飾ろうと思ったようで、検察サイドから総務大臣には、年度末ではなく国際会議終了後まで稲田氏を続投させ、そのあとのタイミングで黒川氏にバトンタッチをする提案をしたようだ。ところが、黒川氏はそのタイミングでは定年の誕生日を迎えてしまい、そのままでは引き継げない。そこで、黒川氏の定年延長を特例に従い閣議決定し、当初の予定通りに稲田氏⇒黒川氏のバトンタッチを検察サイドから総務大臣に提案した。この提案を受けて、内閣サイドには二つの選択肢があった。最もシンプルで「そもそもこうあるべき論」に従えば、稲田氏の4月以降の続投を拒否し、年度末で稲田氏から黒川氏にバトンタッチすることが最も自然であったろう。しかし、検察サイドの人事案を拒否するというのは慣例的にはあまり好まれないので、そこまで拒否する強烈な理由も見つからないということで、ふたつ目の検察サイドの提案を飲むことになったのだと思う。

この様な流れであったなら、特に恣意的な判断をそこに挟まなければ、上記の2者択一になるのは極めて自然であろう。私なら前者の年度末交代を好むが、それはその人の好き好きで、後者を選んでもそれほど責められる話ではない。

(4)この問題における第3の選択肢
以上の(3)の説明は、なるべく恣意的な操作を排除して議論した場合のお話。しかし、ここで野党やマスコミの黒川氏への評価が加わると話が急にややこしくなる。

ここ数年の安倍内閣では、閣僚の中に公職選挙法をはじめとする脱法行為を行いながら、逮捕されずに済んでしまった人が何人かいる。素人の私にも、「なぜ逮捕されないの?」と疑問に感じることは多い。しかし、私も専門家ではないので例えば誤りに気が付いて訂正申告や、脱法行為の是正のための行動などがあった時に、逮捕するのかしないのか、これまでの慣例でその線引きがどの様になっていたのかは知らない。なので、それが妥当なのか不当なのかは判断できない。しかし、野党やマスコミは、その渦中の東京高検のトップの黒川氏が、「安倍総理の犬」となり下がって恣意的に逮捕せずにここまで来たと思っているようである。その様に思うことは悪いことではない。主義主張でしかないので。

しかし、この黒川氏が検察のトップ、検事総長になりそうだと知った途端、彼らはなりふり構わぬ行動を取る。つまり、上記(3)での第3の選択肢、すなわち、稲田氏の続投は認めるが黒川氏の定年延長は認めない、というものである。これはかなり恣意的なもので、稲田氏の続投を「自分勝手なことをするな」と責めるなら分かるが、自分たちが嫌いな黒川氏を検事総長にさせないためなら、稲田氏の続投には目をつむり、黒川氏の方だけ定年延長をストップするという、如何にも恣意的な判断を強要することになる。しかし、世の中はそこまでこの問題に熱心ではないので、あっさりと閣議決定されて話が進んでしまった。

私は民主主義を守るためには、可能な限り、法律や慣例の恣意的な運用は避けるべきだと思うので、この野党やマスコミの行動には賛成できない。仮に黒川氏の検事総長就任を阻止したいなら、ストレートに黒川氏が如何に不適任者であるかを主張し、内閣が黒川氏を検事総長に任命出来ないように追い込むのが筋だと考えている。

(5)「検察庁法改正案に抗議します」の意味すること
少し話がそれるが、物事を誤ることなく正しく状況判断するためには、「目的」と「手段」を明確に区別することが定石である。目的は最終的に何を実現したいかということであり、そこにたどり着くことを最優先とするならば、それを実現するための手段はどれでも良い。あくまでも、目的を達成するために、最も可能性が高い筋の良い手段を選べば良いだけである。ところが、多くの場合に「手段」が「目的化」してしまい、何をやっているのか訳が分からなくなっている人が多い。

分かり易い例では、野党の目的は、本来は「日本国民を幸福にすること」「そのために有効な政策を実現すること」であるはずである。そんな彼らがその目的を達成するための手段として選ぶのは「安倍総理を引きずり下ろすこと」である。しかし、安倍総理を引きずり降ろしても、自分たちが国民に支持されなければ、自分たちの政策を実現することは出来ない。単に、政権与党の中で頭を挿げ替えて終わりである。しかし、その単なる手段が、現在では彼らの「目的」になっている。極めて不可思議な行動である。

この様に整理して、多くの著名人が「検察庁法改正案に抗議します」と言っている理由を考えてみる。常識的に考えれば、この法律が「悪法」だから、その「悪法」を現実のものとしないことを「目的」として、「検察庁法改正案に抗議します」と言っていることになる。しかし、前後の流れを読み解けば、彼らの目的は「黒川氏の検事総長就任を阻止する」ことの様に見える。テレビのワイドショーを見ても、「黒川氏の検事総長就任を阻止する」話で埋め尽くされているからだ。しかし、不思議なことに、この法案が通っても通らなくても、黒川氏はこの法案の恩恵を受けることもなければ、不利益を被ることもない。黒川氏の去就を左右する要素は、この法案の中には何も書かれていない。既に黒川氏の定年延長は閣議決定で確定しているし、法案の施行が法案成立よりもずっと遅れてなされることのため、この法案が成立しても黒川氏は適用外になることがすでに確定している。なので、黒川氏の検事総長就任問題と、この法案が悪法か否かの問題は、まったく関係のない別問題である。だから、著名人が「検察庁法改正案に抗議します」と言っていることの意味を理解しているならば、この法案そのものが「悪法」であると認識していないと辻褄が合わない。

では抗議する著名人は、この法案が本気で悪法だと信じているのだろうか?もしこれが本当に悪法なら、仮に政府が「この法案は、今通常国会ではコロナ問題を優先するために取り下げます。コロナ問題が一息ついた秋の臨時国会で、再度、提出します。」と言ったとする。だとすると、彼らは秋の臨時国会でも「検察庁法改正案に抗議します」と言い続けなければならない。しかし、秋には順当にいけば既に黒川検事総長が誕生していることになり、その時にも反対し続けるのかは見ものである。

これらの法律は、国家公務員の約5倍の人数の地方公務員の定年延長にも直結する。国家公務員の延長が決まらないと地方公務員の延長も遅れる。これらの公務員の生活を人質にとる法案への反対には、それに見合う錦の御旗が必要だが、秋にこの騒動が延期された時に、これらの著名人が本当に反対するのだろうか?もし反対しなければ、悪法でもない法律に反対していたことになるし、引き続き反対すれば地方公務員からの怒りの声が聞こえてくるだろう。

その様なことを考えて反対している著名人はひとりもいないだろうと私は確信している。論理的に破綻している「この法案に反対しないと三権分立が危うくなる」という主張を盲目的に信じて、「抗議した方がかっこいい」と勘違いしている人が100%なのだと思う。

政府は、堂々とこの法案を撤回すれば良いと思う。「コロナ対策優先!」と言えば、誰一人責めたりはしないだろう。政府が法案を引っ込めるリスクは小さいが、引っ込められた際の著名人のリスクは非常に大きい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

出口戦略Part II

2020-05-11 23:41:05 | 政治
大阪府が「大阪モデル」と称して出口戦略のための3つの条件を示したのでコメントしておきたい。

まず大局的な話として、この様な議論を積極的に行う姿勢は大いに賛同できる。なので、その結果が方向性として正しいか否かは別として、議論を喚起している点で十分に称賛して良いと思う。ただ、その方向性として好ましい条件は何なのかというのは議論の余地があるので、その部分に対する言及である。

さて、大阪モデルの3つの条件は「感染経路不明者が10人未満」「検査陽性率が7%未満」「重症患者用の病床使用率60%未満」とのこと。このうちの最後の「重症患者用の病床使用率60%未満」というのは大いに賛同できる点である。ただ、もう少しかみ砕けば、ECMO装置や人工呼吸器の使用率の方が良いかも知れない。このECMO装置や人工呼吸器は患者治療の最後の砦なのだから、重症患者用の病床使用率が低くても、それらの重症患者が片っ端からECMO装置や人工呼吸器を使いまくっていたら、イザというときに最後の砦が残っておらず、助かる命も助からないかも知れない。なので、意図することは同じでも、この様な翻訳のし直しは必要ではなかろうか。

次に、「検査陽性率が7%未満」については、これは明らかに方向性として間違っている。なぜなら、PCR検査数を増やせば増やすほど、陽性率は簡単に下げることができるからだ。なので、早く自粛解除をしたければ、検査数を増やせばよいことになる。逆に、PCR検査数を減らすと陽性率は高くなる傾向があり、自粛解除が遠のく傾向がある。

最後に、「感染経路不明者が10人未満」の方はどうかと言えば、これも同様な理由で方向性として間違っている。というのも、単純に検査数を減らせば、自動的にこの人数は減らすことができ、検査数を増やすと自動的にこの人数は高くなる傾向があるからだ。

この様にみると、PCR検査数を思いっきり増やせば「感染経路不明者が10人未満」の方でアウトになり、PCR検査数を思いっきり減らせば「検査陽性率が7%未満」の方でアウトになる。そんなモチベーションは大阪にはないと思うが、敢えて自粛解除をしたくないと思えば、PCR検査数を恣意的に増やしたり減らしたりすることで、自粛解除できない状況を作り出すことができるのである。

これは逆に言えば、「感染経路不明者が10人未満」の方でアウトで「検査陽性率が7%未満」であればば検査数を減らし、「検査陽性率が7%未満」の方でアウトで「感染経路不明者が10人未満」であればば検査数を増やせば、恣意的に両方の条件を満たす可能性の高い最適点に導くことが可能になる。少なくとも吉村知事にその様な意図がないのは明らかだが、実務を取りまとめる人たちが、府民からのプレッシャーを受けてその様な行動(PCR検査数の調整)に出ないとは限らない。なので、その様な恣意的な運用が可能な数値目標というのは好ましくないのである。

また、ダメ出しをした後で言うのもなんだが、「感染経路不明者が10人未満」については、比率ではなくピンポイントの人数を採用しているのであるが、大阪モデルを他の都道府県モデルに焼き直すには、ダイレクトな数字よりも比率で表される基準の方が好ましい。そして、恣意的な調整がやり難くて妥当性のある評価基準は何かということになる。

私の提案は(ECMO装置や人工呼吸器の使用率に加えて)、PCR検査を行った総数から、「重篤化して明らかに陽性と思われるサンプル」、「味覚障害などの自覚症状のあるサンプル」、「クラスター追跡の濃厚感染者に該当するサンプル」などを除外したサンプルを分母とした場合の陽性率を評価基準に用いるべきだと考えている。除外すべきサンプルの選び方で恣意的な運用がなされる可能性はない訳ではないが、これは医療関係者や帰国者接触者相談センターなどに判断して頂けば、恣意的な作為をある程度は排除できると思う。なお、当初は上記の条件に該当する人しかPCR検査を受けさせなかったのでその様な評価を行っても意味はなかったが、最近になってPCR検査対象を拡張している傾向があるので、現時点ではこの指標は評価可能な指標であると考えている。

では、この様にして評価した陽性率は何を意味するのか?それは、武漢肺炎ともそうでないともどちらとも言えなさそうなニュートラルな人の中の陽性率に相当する。なので、この陽性率が高くなるということは、無症状の人を含めて市中の感染が拡大していることを意味し、陽性率が下がると感染は終息していることを示しているのだと思う。ここ最近のこの陽性率の推移を調べれば、終息傾向の目安になる陽性率をはじき出すことは可能であろうから、その基準値を目安に(ECMO装置や人工呼吸器の使用率と合わせて)自粛解除か否かを判断すればよい。この指標であれば、軽症者をホテルなどに隔離できる現状では、無理のない範囲でPCR検査数を拡大しても自粛解除を妨げたりはしない。

以上は個人的な提案であるが、この様な指標を専門家がブレーンストーミング的に提案し、それらを吟味すればもう少し筋の良い指標が絞り込めるのではないかと思う。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

大学の9月入学制について

2020-05-07 23:04:34 | 政治
最近、大学の9月入学制に関する議論が注目を浴びている。メリット/デメリット、実現のためのハードルなどを色々議論しているようだが、私はこれらの議論とは別の理由で、9月入学制への移行は必須だと確信している。

多くの議論では、今回のコロナでの学習の遅れをキャンセルするためであったり、グローバル化へのメリットが大きいなどの利点と、高校・大学に混乱をもたらしたり、会計年度とのズレで決算上の問題があるとか、就職活動も混乱するなどの欠点が指摘されているが、この程度の問題であるなら私はどちらでも構わないと思う。というのも、この程度のことで決定的な差があるなら既に決着が付いているはずだし、今回の学習の遅れが問題というのであれば、一旦、9月入学制にしたとしても、その後に同様のパンデミックが起きたら再度、入学時期をずらさなければならないからだ。だから、この辺の議論が本丸ならば、私はどうでも良い話だと思っている。

しかし、決定的な話がここでは議論されていない。それは、新型インフルエンザの脅威は今後もいつ現れてもおかしくないのだが、その脅威は冬の間程高く、高温多湿の時期は(相対的ではあるが)圧倒的な差で脅威が小さいという点である。

例えば、通常、ウイルスが活動しやすい真冬に受験シーズンは訪れるのだが、その受験シーズンの真っ最中に新型インフルエンザの脅威に直面し、その時に緊急事態宣言が発出されたらどうなるのだろうか?

今年の入試は殆ど問題なく終わったが、仮にもう少し武漢肺炎の脅威が前倒しされていたら、今回も「罹患した者は入試を受けさせない」などの判断が下っていたかも知れない。しかし、自分の人生がかかった受験生がそんなのを素直に受け入れられるはずもなく、厳しくすれば厳しくするほど、受験生は罹患の確定につながる医療機関の受診を避けるようになるだろう。それは、単にタミフルを飲めば直る季節性のインフルエンザだったとしても、「新型」と言われるのが怖いから病院になど行けない。結果、インフルエンザで重篤化してしまったり、免疫が弱ったところで新型に罹患したりと、命に係わる事態が続発し、それは受験生だけではなくその家族や、家族の周りの人々にまで伝搬する。

この様に考えれば、罹患者を排除して受験を強行するのではなく、長時間にわたる三密を回避困難な入試は全て中止ないしは延期となるだろう。学生紛争で東大の入試が中止になった時、それはそれで大きなインパクトであったとは思うが、別の大学は普通に入試をやっていた訳だから何とかなった。しかし、全て(ないし大半)の大学が入試を中止または延期していたら、それは暴動が起きてもおかしくはない。仮に延期となったとすれば、今回の例を見るならば、通常2~3月の入試は6月以降に延期されることになる。現役生は半分、浪人気分で延期のタイミングを待つこともできるかも知れないが、浪人生は進学を諦めて働きださざるを得ない者まで現れる。つまり、受験生にとって致命的な事態となる。

そしてこの脅威とは、今後、ずっとずっと付き合っていかなければならないのである。

しかしながら、これが9月入学制となると話は異なる。今回の武漢肺炎もそうだが、ウイルスは一般的には高温多湿と紫外線を嫌う。夏になればウイルスが簡単に死滅するわけではないが、感染力を半減させる効果は容易に期待できる。なので、受験シーズンが定常的に6~8月に行われるのであれば、仮に真冬に新型インフルエンザの脅威に見舞われても、受験シーズンまでの間には時間があるので対策を打つことも可能だし、そのころには受験を強行するリスクはかなり小さくなっているはずだ。

以上の様な問題を回避するには、現在のところ、少なくとも受験が伴う高校と大学は9月入学制に移行せざるを得ない。小中学校も全てそれに合わせるべきかは議論が分かれるが、その辺はおまけの議論なので有識者に任せたい。個人的には全てを9月入学制にして、現在の春休みを廃止し、一方で5/1をメーデーかなんかで祝日に設定し、オセロルールで4/29から5/6までを全て休日にしてしまえば良いと思う。こうなると子供も大人も共通の8~10連休ができるので、年度末で会社を休み難い時期にある学校の春休みより、家族旅行という視点では使い易いかも知れない。

最後はどうでも良い話ではあったが、SARS、MERS、武漢肺炎が比較的短周期で現れる現状を考えると、転ばぬ先の杖と言える話ではないかと思う。少なくとも、来年の受験には間に合わせてほしい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

武漢肺炎の出口戦略について

2020-05-05 00:04:07 | 政治
緊急事態宣言が延長された。ある程度安全側の行動という意味では致し方ないが、現在、季節がすっかり春から初夏を感じさせるものになり、(北海道はともかく)東京、大阪などの大都市部は、この気候の変化に合わせて、放っておいても武漢肺炎は下火になり、5月末を待たずに終息となる可能性が高いと予想する。ただ、それで解決かと言えばそうではない。多分、1年後(もう少し先か?)にはワクチンも普及してくるだろうが、経済的損失を考えればそれまで待てない。秋以降には第2波(第3波?)が来るのが目に見えている。なので、その今後の出口戦略を考える必要がある。

そこで私なりに考えてみた。

まず前提として、厚労省クラスター対策班の押谷教授は、「喉から排出されるウイルスの量は、重症度ではなく年齢に関係する傾向がある」と発言しているので、以降の議論はこれを前提とすることにする。つまり、無自覚の感染者がいたとして、その人が人にうつすリスクは、高齢者ほど高く、子供や若い人ほど低い。これはあくまでも統計的な傾向であって、必ずしも全てがそうだとは言えないし、これが世界共通の認識となり得るかという点でも少しハードルは高いかも知れないが、今回のブログではこの統計的傾向を前提として議論をする。

まず、基本的な考え方を整理する。

提案の基本的な考え方は、「人から罹患させられる」「人に罹患させる」、それぞれのリスクの小さな若い人には自由に活動させ、一方で双方のリスクの大きな高齢者にはそれなりの自粛を求めるということである。この意味で、小・中・高・大学(保育園、幼稚園も同様)までの学生は6月上旬(地域によては5月中旬)から学校を再開してもリスクは十分小さい。一方で65歳以上の高齢者には、3密を避ける努力を継続的に強いる必要がある。

次に提案の詳細であるが、経済活動においても、年齢に応じて自粛の程度を設定するのである。例えば、ある程度の規模の企業のオフィスワーカーに関しては、年齢別にグループ化し、そのグループ毎の活動・自粛の指針を示すのである。具体例としては、社員を年齢別にグループ化し、そのグループごとに出社の頻度を変えればリスクの平滑化と全体リスクの低減が可能である。一例として、30歳までの社員はフルタイムで勤務し、30代は10時から4時半までの5時間半の短縮勤務、40代はこれに加えて月水金の週3日の勤務で火木は在宅勤務、50代以上は水曜日のみ出社し、残りは在宅勤務、という形態である。デスクワークを基本とする企業の多くであればこの様な対応は可能であろう。営業職など、直接、お客様との接触が必要な場合でも、実際にお客様先に出向くのは若い人に任せ、高齢の責任者は打ち合わせの場に(若い人が手持ちした)ノートPCやタブレットでテレビ会議形式で参加すればそれなりに目的は達成できる。上記の時間短縮となった社員は、短縮された分は在宅勤務で時間を調整する。結果的に分散通勤となり、リスクの高い人々は通勤する際も満員電車を避けて通勤ができるようになる。若者も満員電車の混雑具合が緩和されるので、「密」の度合いが低減可能である。それなりの工夫やチューニングは必要だが、方向性としてはご理解いただけるだろう。

ただし、これでは規模の小さな中規模企業や製造業には対応できない。上記と同様の対応を行うにしても、これらの人々は在宅勤務という選択肢はないから、例えば40代まではフルタイム勤務で、50歳以上は10時から4時半までの5時間半の短縮勤務(月~金)という形が精一杯だろう。オフィスワーカーと異なり、これらの方々の時間短縮は単純に勤務時間の短縮となる。企業はその分の給料を払えないだろうが、そこには雇用調整助成金をつぎ込んで、時間短縮となる労働者の収入を国が補償すれば良い。もちろん、各企業がその短縮となった部分の労働力を補填する必要があれば追加の雇用が求められるが、その部分は個別のケースで努力・工夫をして頂かねばならない。多分、若年層のアルバイトでこの部分を調整することになるのだろう。必要なら、労働基準法の緩和もあるかもしれない。

なお、更に規模が小さな10名程度の小規模企業や飲食店・小売店などは、この様な年齢別の時間短縮など取りようがないかも知れない。それらの企業は仕方がないから、基本の勤務は従来通りで、その代わりにマスクや消毒、非接触の検温器などのツールを優先的に供給するなどして感染のリスクを低減するしかない。ただ、その他の人々の感染が十分にコントロールできれば、それらの人からうつされるリスクは小さくなり、誰かが罹患しても感染経路が特定しやすいクラスターで収まる可能性が高い。

以上が大きな方向性である。

なお話は変わるが、日本政府も「感染拡大防止スマホアプリ」なるものを開発中のようである。韓国や中国の様に私権を大幅に制限するタイプではなく、匿名性を維持しながら罹患者との濃厚接触の有無のみを通知するタイプのアプリのようである。理想的にはこの様なツールでピックアップされた方々は、会社にその状況を報告すれば一定期間の有給休暇が無条件で与えられ、所定のタイミングで日本製の高精度のPCR検査を受けるのである。話によれば、ウイルスは当初は鼻咽頭の粘液を採取しなければならないとのことだったが、唾液にも鼻咽頭以上にウイルスが含まれることが分かってきたようなので、PCR検査キットを自宅まで郵送し、唾液をもとに検査を行えば、検体採取時の罹患のリスクもなければスキルを持った医療従事者もいらないので、簡単かつ早期に感染者を見つけ出すことができる。発症の前後が特にウイルスの排出量が多いということなので、このタイミングに自宅待機をさせることができれば、感染者の抑制には効果的だろう。なので、これらの合わせ技で実効再生産数をコントロールすると共に、感染者に関しては発症前に炙り出し、早期からアビガン等による治療を行い重篤者を最小化する。この様にして爆発的な感染者の増大を避け、医療機関の負担も減らしながら、ワクチンが開発されるまでの時間を稼ぐのである。

以上が私の考えたところであるが、若干、落とし穴として気になるところがある。それは、風俗やキャバクラなどの水商売関係者達を介した感染爆発である。上記のスマホアプリは匿名性を担保しているので有効である可能性はあるが、サービス提供側は感染していると分かったら商売は続けられないので、敢えてこのツールをOFFにして接客することが考えられる。そうなると、そこを起点とした感染爆発は防げなくなる。通常の感染が下火になり、風俗関係者のみが感染者となるような事態になれば、多くの人が感染をひた隠すようになるかも知れない(感染者は全員、風俗に行った奴だろうと疑われるので)。そうなれば元の木阿弥である。

このため、風俗業界には何らかの個人特定が可能なツール(例えば煙草購入のための「taspo」カードの様な、風俗サービスの為の「omizu」カードのようなもの)の導入を強制(運用してなければ摘発する)し、感染者が出たときの感染経路の見える化を図る必要がある。これが出来ないなら、(キャバクラレベルを含めるか否かの線引きの議論はあるが)風俗産業のロックダウンも止む無しかも知れない。ただ、こうなると風俗がアングラ化し、統制が全く取れない状況になったり、性犯罪が増加したりする可能性も否定できないので、その一歩手前でとどまれるのが好ましいと思うのだが・・・。

以上が最近考えたことである。ただ、この様な形での実効再生産数のコントロールは、ある程度、武漢肺炎のリスクを抑えたいという共通認識が前提となる。この意味では、うワクチンができるまではインバウンドなど期待せず、外国との自由な往来は制限する必要があるのではないかと思う。悲しいことではあるが。。。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

日本政府の武漢肺炎に関する不可解な行動について

2020-05-03 11:01:44 | 政治
出歩くこともままならないGWなので、久しぶりにぐログでも書いてみようと思う。まったくもって今更という感じの周回遅れの話なのだが、中々、誰も言わないのでここに記録しておこうと思う。

今日のテーマは、武漢肺炎の発生から今までの間、日本政府があまりにも不可解な行動をとってきたことに関しての考察である。取り敢えず、不可解な行動を列挙してみよう。

(1) 武漢で未知のウイルスが流行しても中国からの入国者をストップしなかった
(2) ダイヤモンドプリンセス号の乗員乗客に対し直ちにPCR検査をしなかった
(3) 厚生労働省の職員がダイヤモンドプリンセス号の乗員乗客の検疫をする際に、いとも簡単に職員が罹患した
(4) マスクの増産の要望に対し安倍総理が手は打ってあると国会答弁をしたが実現しなかった
(5) 多くのマスメディアがPCR検査をしろと囃し立てても検査数を増やさなかった
(6) 専門家会議の提言や科学的裏付けがない中で唐突に学校への登校停止を指示した
(7) 海外では罹患者数が指数関数的に増加する中、日本でも同様のことが起きるのは目に見えており、どうせいつかは緊急事態宣言を出さなければならないと分かっている中で、敢えて専門家からの指摘に遅れて緊急事態宣言を出した
(8) 緊急事態宣言を出した後でも、当初からフルアクセルで国民の行動を規制するのではなく、小池東京都知事などからすれば、まどろっこしく感じるようなゆっくりとした歩みで規制をかけていて、緊急事態なのに緊急性が感じられない対応に終始した
(9) いきなり布ガーゼのマスクを1世帯2枚配りだしたが、本当に欲しい不織布製ではなく且つ2枚こっきりで、アベノマスクと揶揄された
(10) 1週間遅れで緊急事態宣言を全国に拡大したが、未だに罹患者がいない地域も含めて全国一括に範囲を拡大したのはそれまでの説明とずれている
(11) この期に及んで、未だにPCR検査数が世界と比べて少ない(罹患者の家族ですら受けれないケースがある)
(12) 一度閣議決定した所得制限付きの30万円給付から一転して一律10万円の給付に切り替えたが、何故、最初から一律10万円としないのか
差し当たってはこんなところか・・・。

以上について振り返ってみたいのだが、結論から先に言えば、安倍内閣(安倍総理と閣僚)が何処まで意図しているかは良く分からないが、少なくとも安倍内閣を支えるブレーンたちは、意図して日本政府が不甲斐なく見えるように振舞っているのではないかと感じている。正確には、積極的に不甲斐なく見せるのではなく、不甲斐なく見えるのを敢えて止めようとしないと言うべきか。

以下、少し順番に見ていこう。例えば(1)から(4)などは、当初は日本政府が後手に回っていたのは確かだろう。特に(3)は、厚生労働省に入ってきていた情報から、(ワクチンがないのはリスクではあるが)その危険性という意味ではインフルエンザと同じか、寧ろリスクが小さいと日本政府は確信していたはずである。そう確信していなければ、幾ら事務的な作業といえど、ダイヤモンドプリンセス号に丸腰の無防備な状態で役人を送り込んだりはしない。プロとしての自負があるからこそ、「怖い怖い詐欺」が横行するマスコミとは異なる感覚でいたのだろう。結果はともかくとして。

また(2)に関しては、PCR検査と一口に言っても、高度な機械を用いて手間暇かけて行う検査と、それを簡易化した簡易版PCR検査の二つが存在していて、(少なくとも当初は)杓子定規の日本の中では前者の「手間暇かけて行う高精度のPCR検査」しか眼中になかったのだろう。マスコミは日本政府を叩きまくるが、一方で、その様な精度でも良いから検査をすべきなのか、それともその精度なら検査としての意味がないのか、その辺の議論を丁寧に行っているマスコミは一つ足りとしてない。

仮に、「友人の中で、あなたの敵か味方かを調べる方法がある。評価の精度は、敵/味方に対して30%以上は間違った結果であるが、概ね7割弱は当たる。だから、試しに調べてみませんか?」という話が舞い込んできたとき、その様な話に飛びつく人はどれだけいるだろうか?敵と味方を知りたいという人がいても、多分、その様な精度で調査して欲しいと思う人は誰もいないのだと思う。

(1)も、習近平の来日を睨んでのことであるのは間違いないが、(3)と同様に武漢肺炎のリスクをその程度と見込んでいればこその話。(4)は、例えば、中国はフランスに対して「マスクを提供する代わりに、5GにHUAWEIを組み入れろ」と恫喝までしたのに、そのマスクをアメリカがかっさらっていくような事態もあったわけで、殆ど自分さえよければ周りの者のことなど知らないと割り切らないと、計画通りには動かないという状況なのだろう。

さて、この辺から私が最初に指摘していた、日本政府は戦略的に日本政府が不甲斐なく見えるように振舞ってきたことについて書いてみたい。そもそも、この手の話には100点満点は存在しない。例えば、左巻き連中が囃し立てる韓国での武漢肺炎対応は、日本では人権侵害の極みとも言うべき究極のプライバシー丸裸作戦である。この様な対策は、冗談でも政府が口にしただけで政権が余裕で吹っ飛ぶ話だろう。その様な話を左巻きの人達が絶賛するというのはブラックジョーク以外の何物でもないのだが…。

この様な中で、ポイントを整理すると要点はふたつある。ひとつは如何にして最大の目的を達成するかという点、もうひとつは政治的な話で、政治的決断を如何にスムーズに展開していくかという点である。そして、それらを上手く進めるためには、性悪説に立って日本政府の足を引っ張ることしか頭にないマスコミや野党を、如何に上手くいなして物事を先に進めるかという点が腕の見せ所である。

まずひとつ目。日本政府の最大の目的はと言えば、云わずと知れて、「武漢肺炎による死者(ないしは重篤者と言っても良い)を最小化すること」である。このための最大のポイントは、医療崩壊を防ぐことである。つまり、重篤な患者に対して、必要な医療リソース(医者や看護師、人工呼吸器などの資源とその操作員)を枯渇させないことが最重要であった。この意味では、そもそも武漢肺炎を指定感染病に認定してしまったのがボタンの掛け違いの始まりであった。しかし、それに早くに気が付いたが故に、厚生労働省は早い段階から、軽微な罹患者を病院に収容せず、肝心な重篤患者を収容するための方法として、無用なPCR検査を極力排除してきた。この点はマスコミもすでに指摘しているところである。(5)のPCR検査であるが、これは目的達成のための手段の一つにしかすぎず、手段はたった一つとは限らない。手段と目的の区別がつかないのは、マスコミや野党のお家芸である。だから、PCR検査の話など、日本政府が丁寧に説明することも選択肢にないとは言わないが、それは性善説に立たないと意味はない。相手がこちらを貶める目的で叩きに来ているなら、下手な丁寧な弁解は火に油を注ぐことになる。だから、黙って聞き流すことが最善な方法となるわけである。つまり、日本政府が不甲斐なく見えるのを敢えて止めようとしない戦略に出たのである。

次にふたつ目。政治的決断を如何にスムーズに展開していくかという話。多くのマスコミも指摘している通り、日本を除く諸外国では、私権の制限を平気で行っている。これは、その国の憲法でその様なことが許されているだけの話である。つまり、日本だけが特殊な国であるのだが、日本のマスコミはそんなことを解説したりはしない。なので、現行憲法下では日本政府が取れる対策の得点は、最大でも50点が良いところだろう。しかも、現行憲法を少々骨抜きにするような隙間を突くことでその50点を取りに行こうとすると、必ず「権力の横暴だ!」とマスコミや野党は袋叩きに来るのである。なので、彼らにその様に言わせないためには、彼らに先に「あれをやれ、これをやれ!」と先に言わせ、あたかもそれに乗っかった形で行うのがひとつの手である。(6)などはその典型だろう。某報道番組では、学校封鎖的なことをキャスターが主張していて、いざ安倍総理が休校指示をしたら「横暴だ!」と言い始めた。しかし、視聴者はそれを覚えているから、「何言ってんの?このキャスター。」という話になる。(7)(8)についても、4月1日には緊急事態宣言が出るなどという噂が流れてもフェイクニュースと一蹴し、専門家会議のメンバーからも「手遅れになる」と訴えられて、マスメディアがそれに飛びついた。実際に緊急事態宣言を出すと、それはそれで「遅すぎる」と全てのメディアが叩いた。世論調査でも多くの国民から「遅すぎる」と評判が悪いと指摘している。しかし、これはまさに安倍政権の狙い通りだったのではないか。

本当は、「Bestなタイミング」が好ましと誰もが思う。しかし、「Bestなタイミング」とは後になって考えれば確かにそのタイミングが良かったというタイミングなのだが、その瞬間で見れば、良くて賛成が50%、反対が50%である。しかし、多くのマスメディアや野党からすれば、賛成反対が拮抗していれば「安倍瀬政権の独裁、ここにあり」とボロクソに叩けると考えるはずである。そこで一大キャンペーンを張られると、次の政治判断が鈍らざるを得ない。なので、次から次へと、「ちょっと、日本政府の対応、遅すぎるんじゃない!」というタイミングがSecond Bestなのである。政治的にはこれが正しいのである。(12)などはその最たるもので、国民の血税を使うに当たっては、必要なところにだけ限定的で行うのが筋であり、所得が減った困窮している人にだけ限定で給付を行うのが筋である。平時であれば、これが正しいのである。しかし、それでは全く間に合わない。だから、スピード重視でやるなら全員一律でやるしか手はない。なので岸田さんを咬ませ犬の様にして、10万円一律給付に舵を切った。閣議決定を覆した手続き的な部分に異を唱える人はいても、10万円一律給付に直接噛みつく大手マスコミ、野党はいない。この意味で、安倍政権の戦略は大成功とも言える。マスコミは大失敗というのであるが。(9)(10)にしても、一部で安倍政権を叩く輩はいるが、でも世論がそれに追従しているかと言えばそうでもない。この点の異論は左巻き集団に局在している感じで、現時点では取るに足らない。

多分、PCR検査に関して言えば、日本製の精度の高いPCR検査キットが間もなく普及し始めるのだと思う。そうなればPCR検査の有効性は高まり、自然と検査数が増えるのだと思う。(11)はそのための時間稼ぎをしているのだろう。

多分、気温が上昇し湿度が高まってくれば、放っておいても武漢肺炎はいったん終息する。なので、現時点では本丸は、秋以降の第2波への対策である。ここでPCR検査の精度の低さでダメ出ししては、次の第2波の時に有効な対策が取れなくなる。そのための温存と言ったところだろうか。

・・・と色々書いてきたが、この様に無駄なことにエネルギーを割かなければならない日本の政治状況は不毛である。不毛の根源はマスコミと一部を除く野党である。これを正すことは出来ないが、何が起きているかを理解する努力は大切なのだと思う。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます