感情とか怒りとか | すべてはうまくいっている! 光と心の調和

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横浜の臨床心理カウンセラー ロキのつぶやきブログ。
その人がその人らしく
『生まれてきてよかった!」
と思える人生のために。

「うつ病」と遅刻の記事で、頭「理性の新皮質」「感情の大脳辺縁系」の関係に少し触れた。頭「主に理性を司る新皮質」は、大脳では進化的に新しい脳の部分である。しかし新参者ゆえか、どうも協調性に欠けるようで、古い脳である「主に情動を司る大脳辺縁系」を必要以上に支配しようとする。

現代社会の複雑な環境によって、「頭(理性)」に強固な信念や思い込みが生じる。すると、本来の自然な「心(感情)」「頭(理性)」で押さえ込もうとする働き起きるのだ。

例えていうなら、本来なら開いているはずの、感情の発生装置のある「感情の壷」の出口が、理性によって蓋をされた状態

社会生活をおくる現在人は、どうしても感情を抑えることが優先される。したがって慢性的に「感情の壷」の蓋を閉じていること多い。特に学校や職場など集団行動の場ではその傾向が強く、素直に感情を出せなことがストレスの原因になったりする。

基本的情動についてはこちらを参照。



抑圧された怒り


なかでも「感情の壷」に閉塞される感情のダントツは「怒り」である。

本来なら、怒りの感情は天敵から身を守り、生命の危険を回避するための重要な「基本的情動」である。その、生きていくための適応的反応を、現代人の「頭(理性)」は一律に「良くないこと」として、強引に支配し抑圧する傾向にある。

例えば「怒り」や「悲しみ」をネガティブな感情と捉え、ストレートに表現するのは 恥ずべきことであるとか気まずいことといった、倫理観や人間関係への配慮。あるいは、感情表現を抑圧しなればならない生育環境で身につけた習慣であったりする。その結果、理性の独裁によって感情が支配されることになる。

そういった「頭(理性)」の支配に心が反発し、健全な心を取り戻そうと「感情の壷」の蓋が開いたとき、真っ先に出てくるのが「怒り」の感情である。


なぜか常にイライラしてしまうことがある
もともとはピュアな情動のまま発散されるべきものであった怒りが、それを認めていない「頭(理性)」によって「感情の壷」に閉じ込められ、行き場を失って沸々と煮えたぎる。イライラはその煮えたぎる怒りの圧力によって生じる振動といえる。

したがって、イライラの最中に嬉しいとか楽しいといった出来事に遭遇しても、「感情の壷」の出口付近を怒りの感情が占拠しているので、喜びの感情として外に出すことはなかなか難しい。たとえ、つかの間表出したとしても、すぐにイライラ状態に戻ってしまう。

やがて何らかのきっかけよって(酒や近親者への甘え等)で理性の支配が中断すると、蓋がゆるみ、溜まって凝縮された怒りが(しばしば不適切な場面で)爆発する。元の怒りの何倍にもなっている場合もある。

その後本人はひじょうに落ち込んで後悔し、理性はさらに蓋をきつく閉める。そして、ふたたび壷の中は行き所のない感情で充満する。これの繰り返しによる悪循環に陥っているケースも多い。


また、古い過去から徐々に積もった怒りは、長年にわたり蓋を閉じられた壷の奥で熟成発酵し、質の悪い怒りに変質している。もはや基本的情動としてのピュアな怒りとは異質のものだ。それが強烈な刺激臭とともに噴出するときには、関係のない周囲の人たちへ多大な迷惑をかけることになったりする。

こうしたケースでは、怒りの根底にある問題を解決しない限り怒 りを一掃することはできず、何度でも爆発を繰り返すこととなる。


「日常で起きる怒り」の対処方法


感情をコントロールするということは、怒りの感情に蓋をしてごまかすのでなく、自分で「怒り」をどう受容しどう処理するのか、その術を身につけること。

 また、「怒り」を自分で受容することと、いたずらに外部にまき散らすことは違う。「怒り」の受容とは、「心(感情)」から出てくる「怒り」を「頭(理性)」が共感し承認すること。言動として外に表すかどうかは、まったく別の次元「社会性」の問題となる。

そうは言っても、溜め込まれ圧力によって限界にきている「怒り」を扱うときには、「怒り」が「社会性」もろとも吹っ飛ばして暴発する恐れもある。そうした場合には、専門家のサポートも必要になってくるのだけれど。。

普段の生活で沸き起こる怒りを上手にコントロールする方法は、心理療法によっていろいろと提示されている。そのなかで、自分でできる「怒り」のコントロール方法として『吐き出しノート』をご紹介する。


『吐き出しノート』

このノートは、決して人に見せてはいけない秘密のノートである。
このノートには、どのような罵詈雑言や悪口を書いてもいい。
書きたい時には、感情のおもくくままに何ページでも書いてよい。
できる限り、心がスッキリするまで書くようにする。
日記ではないので、書きたくないときには無理して書く必要はない。
心がムシャクシャ、イライラ、モヤモヤ、ザワザワしたとき、誰にも邪魔されない環境で書き込む習慣をつける。


文章を書くという行為は、必ず「頭(理性)」の協力を必要とする。実際に自分の感情を文字にして吐き出すのは、かなり難しいかもしれない。最初は「頭に来た」「悔しい」「仕返しがしたい」等、短文の羅列でもいい。しかし、徐々に慣れてくると、どのようなときにどのような感情が起きたかが認識できるようになり、また、そのときの自分の情動を適切な言葉で表現できるようになってくる

そうして、バラバラであった「頭(理性)」と「心(感情)」の関係が協動的になってくる。つまり、頭が心の動きに気づき、感情を理性が客観視することができるようになる。それによって頭と心が一致し、一体感を得ることができると同時に、感情から上手に距離をとることが可能になる

 以上のように「怒り」を力ずくで制御するのではなく、『吐き出しノート』などを使って自分で受容する方法で解決すると、「頭(理性)」と「心(感情)」の関係に本質的な変化が生じる。つまり、「頭(理性)」が一方的に「心=身体」を支配抑圧するという病的な構造が解消されていくのだ。結果、「怒り」は怒りとして受容したうえで、怒りの対象にそのつど冷静な態度で対応もできるようになる。

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今日も豊かな一日でありますように!


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