てぃーだブログ › 苦しみよ、永遠にさようなら

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Posted by TI-DA at
どーも、しょうちくです。


書きたいことは次々に出てくるのですが、それらをどう表現していったらいいのかで苦戦しています。

だから、ブログを更新するのに飽きたというわけではなく、うまくまとまらないだけなんです(言葉ってもどかしいなー)。


そして今回は、個人的にはいちおう一区切りついた「自分とは何者なのかシリーズ」なのですが、その番外編。

「その声は一体誰の声なのか?」を書いてみたいと思います。


どうぞ、お付きあいください。




◆認識できるものは自分自身ではない

まず最初に、とても重要だと思うことを書いておきます。


それは、「認識できるものは自分自身ではない」ということです。


それを認識できているということは、それと自分との間には「距離がある」という、なによりの証拠です。


認識できる者(自分)がいてはじめて、他のもの(自分以外)を認識することができるからです。



あなたはいま、目の前のパソコンやスマホを認識することができていますよね?

ということは、それを認識している者(自分)がそこにいますよね?

そして、パソコンと自分との間には距離がありますよね?

パソコンは自分自身じゃありませんよね?


自分の周りを見渡すと、たくさんの物があると思いますが、それらはすべて自分自身じゃないですよね?



それは、あらゆる「声」についても言えることです。


例えば、何か疑問が湧いてきたとき、それを実際に言う言わないに関わらず、その声を自分は認識できているのではないでしょうか?


「私は~」と湧いてくる声を、あなたは認識することができているのではないですか?

「でも」とか「それなら」とか言っている声を、あなたは認識することができているのではないですか?


もしそれらを認識できているすれば、それらのすべての「声」とあなたの間には、確実に距離があります。

そして、距離があるということは、それは自分とは別のものなのです。


つまり、どんな声であろうと、それらを認識できているということは、それらはあなたとは別のものということです。


その声を無意識に使っているときにだけ、僕らはその声が自分自身であると錯覚してしまうのです。




◆疑問に思うのはいつも「私」という「声」

声というのは言葉のことです。

では、言葉とは一体なんなのでしょうか?


それはただのラベル、名前です。


言語でコミュニケーションをとる必要のある、人間同士にだけ通じる「約束事」みたいなもんでしょうか。


目の前のパソコンから、パソコンという名前を取ったとしても、それがそこに存在していることには変わりないでしょ?

自分が名前を失って、ななしのごんべいになったところで、自分がここに存在しているのには変わりないでしょ?


つまり、存在がまず先にあって、言葉は後から付けられたものということです。


言葉というものはすべて、概念です。

実際にある何かではありません。


そして、「私」というのも言葉です。

それはただの概念なのです。



だから、その「私」という概念から生まれたものは、それが何であれ、想像上のものなのです。

「私」自体が概念なのですから、そこから生まれるあらゆる問いは、すべて概念にしか過ぎないのです。

それらは、「生の存在」そのものを正確に表現できることは決してありません。



僕がこうしてブログを書いているように、それは他者に何か説明をするときにはとても役に立ちます。

でも、自分自身を知るとか、本質的な部分を探るというとき、言葉は、はっきりいって必要ありません。

というか、言葉に拘りすぎているから見つけられない部分が大きいと思います。



「なぜ?」という「声」によって探求は始まるのですが、その声を握りしめ続けている限り、それは声が自分自身だと錯覚し続けたままです。


あらゆる声を認識している者こそが、自分自身です。

だから、考えて自分を分かろうとしても、それは無理なのです。


それは、あらゆる考えが手離れた時に、「感覚として知る」ものだからです。



考えて自分を知ろうという行為は、大空を発見するのが目的なのに、いつまでも雲ばかりを追い続けているようなものです。

大空を見るためには、むしろ雲が邪魔なんです。


雲の形や大きさにばかりとらわれていては、大空は発見できません。

入道雲も飛行機雲も、形や大きさが違うだけで、雲は雲です。


大空を発見するためには、雲にとらわれずに、直接大空を見ればいいのです。


ですから、本当に自分自身を見つけたいのなら、湧いてくる声と同一化するのではなく、それらがある時もない時も、ただここに存在しているものを見つけることです。

つまり、自分自身について知りたいなら、最終的にはあらゆる「声」を放棄しなければいけないのです。


自分はここに存在しているという感覚は、「私」という「声」とは一切関係がないからです。




◆原因不明で存在する自分という感覚

このブログで、僕が自分のことを僕といっているのも、ただ便宜上のことだけです。

実際にこの存在は、「僕」と呼べるなにかではありません。

それは性別がないばかりか、もはや生物とは呼べない何かです。


それこそが自分なのですが、それを明確に自分として認識することもできません。

なぜなら、それを認識できるということは、それは自分ではないからです。

自分とは、自分では認識することができないものなのです。


そして、僕が「自分」といっているこれは、正確に認識しているわけではなく、「感覚として感じているもの」なんです。

それは、すべての行動を止めたとしても、すべての思考が止んでいるとしても、それでもなお存在し続けている「感覚」のことを指しています。



刻々と変化し続ける世界に、全く影響を受けることなくただ存在しているのが、自分という感覚です。

この体が成長し、老化していっても、それに全く影響を受けることなくただ存在しているのが、自分という感覚です。

感情がやってきた時も、それが去っていったときも、全く影響をうけることなくただ存在しているのが、自分という感覚です。

「私は」という声や「なぜ」という声がやってきた時も、それらが去っていった時も、全く影響を受けずにただ存在しているのが、自分という感覚です。


あらゆる状況や感情や思考に、全く影響を受けることがないのが、この自分という感覚なのです。


それが存在するために、何一つ原因を必要としていない感覚のことです。



何をしていても、何もしないでも、「ただ在る存在」こそが、自分なのです。


それは、何か原因があるから在るのではなく、「在るから在る」のです。

「在る」という言葉も長すぎます。

「在る」という言葉も必要なく、それは「・・・」です。


それは原因不明のまま、ずーーーーっとここで、ただじっと存在し続けています。




【今日のまとめ】

・それを認識できるということは、その対象と自分との間には距離があるということ。

・つまりそれこそが、それは自分ではないという何よりの証拠。

・あらゆる声は、自分自身ではない。

・だから自分を知りたいなら、最終的にはあらゆる声を放棄し、「ただ在る」べし。

・自分とは原因不明で存在する、「・・・」という感覚である。





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Posted by しょうちく at 11:01Comments(5)自分は何者なのか

どーも、しょうちくです。

今日は「自分は何者なのかシリーズ」のとりあえずのラスト記事。

日常を使って「空っぽの自分」を定着させるための練習を書いていきたいと思います。


それでは、さっそくどうぞ↓


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◆自分自身になじんでいこう

練習といってもその方法はとっても簡単。

単に、自分自身を「見る」というだけです。


今まで外側にしか向けていなかった注意を、180度反転させて、自分自身に向けるというだけのことです


「ここに空っぽの自分がいる」ということを、日々自覚していくのです。


今まで、鏡の中の彼(彼女)と同一化し続けていた人にとって、自分が空っぽであるということは、ちょっと変な感じがするかもしれません。

そして、気が付くとすぐに鏡の中の彼(彼女)との同一化が起こっていることに気が付くでしょう。


だから、新たな(というか本来の)自分になじむためには、少しだけ練習が必要なんです。


そして僕の経験上、きっとその練習は楽しいものになると思います。


なぜならこの練習は、開放感や不思議さを実感しながらやることができるからです。

それは苦痛でないばかりか、とても楽しいものなのです。


実は、僕はこの記事を書いている間、今まさに練習してます(笑)

色んな状況下で自分自身を「見る」ということが、僕の密かなマイブームなので。


それでは、その練習方法をご紹介します。




◆鏡の中の彼(彼女)との違いを「見る」

これが多分、一番重要な練習だと僕は感じます。

なぜなら、鏡の中の彼(彼女)とべったり一つになってしまっていることが、多くの勘違いを生んでいるからです。


どういうマジックを使ったのかは知りませんが、自分は、鏡の中の小さな彼(彼女)の中に、自らを閉じ込めることに成功しました。

そしてそのことが、人生に多くの問題を創りだしています。


彼(彼女)との同一化を止めるためには、彼(彼女)と自分の違いを「見る」ことです。


彼(彼女)と自分との間には距離があることを「見て」ください。

そして、彼(彼女)には顔があるが、自分には顔がないという事実をただ「見る」のです。


顔があるかどうかというのは、決してささいな違いなどではなく、それはとてつもなく大きな違いを生みます。


ここに顔を持っていると勘違いしている時、突然世界と自分との間に境界線ができてしまいます。

そのとき僕たちは、世界と自分とが分離しているという錯覚に陥ってしまうのです。

これこそが、「分離意識」なのです。


ですから、自分に顔などないと「見る」ということは、自分と世界との間に境界線など存在しないということを「見る」ということなのです。

自分と世界は対立しているわけではなく、すべては繋がっているということを「見る」ということなのです。



そのために、鏡の中の彼(彼女)と自分とを徐々に切り離していく練習をするのです。


彼が苦しんでいる時はいつも、彼をこの場所に連れてきている(という錯覚をしてしまっている)時だということに気が付いてください。


本来この場所にいるべきではない彼(彼女)を、この場所へと連れてきてきてしまう時、何かが狂い始めます。

「自分は何か大きなことを見逃しているのではないか?」という、混乱が生まれます。


彼(彼女)のあれこれを変えるためにあらゆる努力をしようとも、その混乱は根本的には解決されません。

彼(彼女)の置かれている状況をコントロールしようとしても無駄なのです。


その混乱は、自分自身の勘違いから起こったものだからです。

その混乱は、自分があの小さな人間の中に閉じ込められているという勘違いから生まれたからです。


だから、混乱の大元である鏡の中の彼(彼女)との同一化を止めることが重要なのです。

「自分は初めから解放されていた」と知ることが、混乱を鎮めるための方法なのです。


彼(彼女)を元の彼(彼女)の場所に、自分を「この場所」に戻してやると、自分自身も、そして彼も、リラックスすることに気が付くと思います。

自分が解放されているとき、同時に彼も解放されているからです。


「彼(彼女)と自分が離れていて、自分は顔をもっていない」という事実を「見る」ということは、自分自身のためになるばかりか、彼のためでもあるのです。


ですから、これから鏡を見る機会があるときは、彼(彼女)と自分の違いを認識してみましょう。

彼(彼女)には顔があるが、自分には顔などないことを確認していきましょう。


彼(彼女)を鏡の中に帰してあげ、自分もこの場所へと還りましょう。


お互いが本来の位置に戻ることで、彼(彼女)との対立も終わります。

すると、彼(彼女)の存在すべてを愛おしく感じ始めるでしょう。


彼(彼女)は、この人間ゲームを行う上で、最も大切なパートナーなのですから。


彼(彼女)と仲直りし、一緒にこのゲームを楽しみましょう。




◆顔対顔がないものであることを「見る」

同じように、今度他の人と顔を合わせる機会に巡り合ったなら、その人と「顔対顔」になっていないことを確認してみてください。


「顔対顔がないもの」である事実をただ「見る」のです。


すると、彼(彼女)と自分の間には、何の境界線も存在せず、彼(彼女)のすべてをありのまま受け入れてしまっている自分に気が付くはずです。

自分が彼(彼女)を拒絶することなどできない性質であることを確認してください。


そのことに気が付くだけでも、他者とのコミュニケーションが劇的に変わってしまうかもしれません。


おそらくあなたは、より自分らしく振舞うことができるようになるでしょう。

そして他者にも、自然と優しく接してあげられるようになるでしょう。


ここに、彼(彼女)らから守らなくてはならない「何か」などないのですから。




◆世界を所有していることを「見る」

そして世界を見るときは、同時に、空っぽの自分自身についても見てみてください。


注意を180度反転させ、自分自身が空っぽであることを確認し、目の前のすべてを自分の中に所有していることを確認してください。


この場所にいる空っぽの自分は、自ら何一つ持っていないがゆえに、世界のすべてを所有していることを確認してください。


自分が海を見ればその広大な海を、空を見れば果てしなく広がる空を、自らの中に所有していることを確認してください。



他の者たちの所有という幻想と、自分自身の真の意味での所有について比べてみてください。


あなたほど、その対象とひとつになれるものなどいません。

あなたほど、真の所有を経験することのできる存在などいません。




◆不動の自分を「見る」

どこかへ移動する時には、自分ではなくいつも世界の方が移動しているということを確認していてください。


自分の部屋でくつろいでいる時も、どこかへ移動している最中も、目的地に着いた時も、いずれの時も、自分はこの場所から決して移動していないということを確認してください。


自分はこの場所に固定されたまま、世界の方が次々と変化しているという事実を確認していてください。


どこかへ移動する時には、目的地を「いまこの場所」にするのです。

あらゆる物事は、あなたのいる「いまこの場所」で、いつも展開されているという事実を確認してください。




◆空間としての自分を「見る」

突然湧いてくる感情や思考に翻弄されてしまった時は、目を閉じて、自分が何も無い空間であるということを確認してください。

そして、その空間の中で、感情や思考が現れては消えゆくことを確認してください。


そのどれもが、自分という存在に傷一つ与えることなどできないこを実感してください。

現われては消えゆくものは、どれも自分自身ではないということを実感してください。



あなたは、突然それがやってきた時も、それが暴れまわっている時も、それがやがて去っていった時も、いずれの時も、ただ凛としたまま、だまって存在し続けているということを確認するのです。



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これらが、僕が気が向いた時にやっている練習です。

あなたも、もし何か惹かれるものがあるならやってみてください。


僕はこの練習がとても気に入っており、楽しいからただやっています。

それを別にあなたにも強制するつもりはないので、やりたくないならやらなくても構いません。

「しなければならないこと」でもありませんしね。


あなたが気に入れば、それを「やれ!」と言われなくたってやってしまうだろうし、やりたくないなら、それを「やれ!」と言われたってどうせやらないのですから。

そして、それでいいのです。


でも、もし気に入ってもらえるなら、「顔がない」ということがどれほど解放的なことなのかを、あなたも体験し、それになじんでいってみてください。

それは本当に楽しい体験ですので!


それでは、今日のまとめです↓


【今日のまとめ】

・鏡の中の彼(彼女)を彼(彼女)が本来いるべき場所に帰してあげよう。

・そして自分自身は、本来の場所に還ろう。

・元の場所に戻れば、お互いリラックスすることができる。

・他人と接する時は、「顔」対「顔のない自分」であることを確認しよう。

・顔があるかないかということは、些細な違いなどではない。

・ここに顔を持つとき、他者との間に分離が生まれる。

・そして、顔を持たないとき、他者と自分の間の境界線など消え、彼(彼女)のあるがままを受け容れられている。

・顔を持たないとき、あなたはよりあなたらしくなり、他者にも優しく接することができるでしょう。

・あなたは、世界を所有しています。

・あなたは、いまここから決して離れられません。

・あなたを中心に世界が展開しているのです。

・あなたは思考にも感情にも影響を受けることのない存在です。

・それらが起こるための空間(スペース)です。

・以上のようなことを、日常を使って気が向いた時に確認してみよう。きっと楽しいから!

・その練習方法はとっても簡単、ただ自分自身を「見る」というだけ。




空っぽの自分を「見る」ことと、ブログランキングが上がこるとが、いまの僕の密かな楽しみです。いつか飽きるかもしれないので、いまのうちにクリックをお願いします!いつも押してくれてありがとう↓
  


Posted by しょうちく at 12:12Comments(4)自分は何者なのか

どーも、しょうちくです。

本当は今日は、「空っぽの自分を日常で定着させていく練習」について書く予定でしたが、大事なことを書き忘れていたので、それについて書くことにします。


それは、「思考」と「感情」の正体についてです。


これらは、人間ゲームをしていく上で、最も影響を受けてしまう重要なものです。


なので、今日はこれらの正体を見極めてみることにしましょう。

それを見極めるためには、自分のより内側を見ることとなります。




◆自分の内部空間を「見る」

内側や外側なんていう境界など本当は存在しないのですが、今回は説明のために、あえて内外と分けて観察してみます。

そして、目を閉じ、色や形の消え去った状態のことを「内部空間」と呼ぶことにします。



さて、それではまず、その「内部空間」を実際に確認してみましょう。

それには、静かに独りになれる環境で、できるだけ部屋を暗くした方がより確認しやすいでしょう。


暗い部屋の中で目を閉じてみます。

目を閉じた瞬間、自分の巨大な単一の目が消え去り、それと同時に、世界の色や形が消え去りました。

その瞬間、自分は何もない真っ暗な空間となりました。


それは、どこが始まりでどこが終わりかもわからないぐらい、巨大な空間です。

どこにも境界線など見当たらないので、それはまるで果てしなくどこまでも続いているかのようです。


「巨大な単一の目」であった自分は、目を閉じた瞬間、今度は「巨大な空っぽの空間」となりました。

この、巨大な空っぽの空間が、僕のいう「内部空間」です。




◆音や体感覚は、どこで起こっている?

ではもう一度、目を閉じてみます。


その状態で静かに耳をすますと、何か音が聞こえてきます。

それはパソコン内部のファンが回る音であったり、時計の針の音であったり、車のエンジン音や排気音であったりと、様々な音です。


さて、ここで確認していほしいのは、それらの音が「一体どこで起こっているのか?」ということです。


それは外でしょうか?

それとも、何もないこの自分の中ででしょうか?

いままで学んできた考えは一旦脇へおいておいて、いまこの瞬間に示されている実際の証拠だけを頼りに検証してみましょう。



それについて、僕の経験ではこうです。

それらの音はすべて、空っぽの空間である自分の「中」で起こっています。

近くの音も遠くの音も、全部この空っぽの「中」で起こっています。


それは自分から離れた場所ではなく、まさに「いまここ」の内部空間で起こっています。



あなたの場合はどうですか?

それらは全部、「いまここ」で、空っぽな自分の「中」で、起こっているのではないでしょうか?



同じように、「体の感覚」についても見てみましょう。


お尻が椅子や床に触れている感覚は、一体どこで起こっているのでしょうか?

身体が大気と触れ合っている感覚は、一体どこで起こっているのでしょうか?


それらはすべて、自分の外でではなく、自分の「中」で起こっているのではないですか?

自分という「空っぽの器」の中で起こっているのではないでしょうか?



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◆思考や感情はどこで起こっている?

同じように、今度は思考について見てみましょう。

(思考を観察する時は、視覚や聴覚をできるだけ遮断すると、より観察しやすくなります。例えば僕の場合だと、100均で売っている耳栓で耳を塞いだ方がやりやすいです。)



それでは、自分が「考えている」というとき、何が起こっているのかを実際に「見て」みましょう。


目を閉じると、自分は空っぽの空間です。

それは境界線のない巨大で真っ暗な空間です。


その中にどこからともなく突然「言葉」がやってきます。

そして、その言葉と自分とを同一化している状態のとき、僕らは「考えている」といっているのです。


でも、僕の経験では、その言葉たちは、自分が「考えている」というより、何も無いこの空間に突然「やってくる」ように見えます。

その考えは、考えようと思ったから浮かんできたのではありません。


それは突然「起こってくる」のです。


それは何かのきっかけで(あるいは何のきっかけもなく)、何も無いこの内部空間に突然「パッと」現われます。

そして、その動きをよくよく観察してみると、一つの言葉が、まるで連想ゲームをするかのように、どんどんと変化していくのが分かります。

さらに、それらをしばらくだま~って見守っていると、それらの言葉はある時「フッと」消え去っていきます。


それは、自分というこの空っぽの巨大な空間の「中」に、どこからともなく突然現れ、勝手にどんどんと変化し続け、そして、だんだんと消えていったのです。

その間中、自分という「空っぽ器」には、何の変化も見られません。


突然浮かんでくる考えも、それについて賛成する考えも、反論する考えも、それらを「黙れ!」といって制止しようとする考えも、全部ぜ~んぶ自分が考えているわけではないのです。

それらはすべて、この内部空間で、勝手に起こって勝手に消えていってしまう類のものだったのです。


それがやってきた時も、自動的に増殖してシャカシャカと動き回っている時も、それらが去っていった時も、自分自身は何一つ変わっていないことを確認してみてください。

例え何が起こったとしても、一切微動だにせず、何一つとして変化していない自分自身を確認してみてください。


起こる考えはすべて、自分自身ではないのです。

それらの存在を、ただだま~って見守っているのが自分自身なのです。


それらに賛成も反論も拒絶もせず、それらが自由に現われるのを、ただ黙って見守っているのが自分自身なのです。


「何も無い」ものこそが自分自身です。

「何も無い」からこそ、他のすべてを内包できているのです。


それは最初っから、これ以上ないぐらいに消え去っています。

だから僕には、これがもっと消えるということが想像ができません。


それは、何の原因も必要とせず、ただここに「在る」からです。


「何も無いもの」がただここに「在る」のです。


僕には、この「何も無いもの」がこれ以上無くなるということが想像できません。


「何も無い」ということは、あらゆるものからの自由です。

それは解放です。


ですから、もしあなたが「消えてなくなってしまう」ということを恐れているとすれば、それは、あなたではなくマインドが恐れているのです。

空っぽであることの偉大さを、マインドには理解できないのです。


マインドは自分が何者であるかがとても大事だからです。

自分が何者かでないと、自分の存在意義を見出せないからです。


「何者でもない」ということは、マインドにとってはまさに「死」を意味するのです。


そして、マインドの死を恐れなくなった瞬間、本当のあなたとして復活するのです。


ですから、あらゆるマインドの声を、自分自身だと勘違いするのはもう止めませんか?

使って楽しいものだけを採用し、特に楽しくないような内容のものは、それを捕まえずに放っておくことにしませんか?

それが、人間ゲームを楽しく過ごすためのコツです。



でも、僕の経験上、それに気づいたとしても、その声(ストーリー)に巻き込まれてしまい、それらをどうしても手放せない時というのがあります。


それは、それに不快な感情が伴っている時です。

不快な感情と一緒になって、声が暴れまわっている時です。


感情も、この「内部空間」の中に、ある時突然やってきます。

感情もこの中で起こっているのです。


そして、マインド単体であれば、それを手放すことは比較的容易にできるのですが、そこに不快な感情が伴っているとき、僕らはその考えに巻き込まれてしまうのです。

自分がネガティブな感情を拒絶してしまっている時、それら感情や思考と同じレベルに陥ってしまうのです。


ですから僕は、感情問題の解決をとても重要なものとして最初に扱ったのです。

(それについては、苦しみの原因シリーズをごらんください。)



ここで言いたいことは、あなたは「何も無いものである」ということです。

いえ、「何も無いもの」という言葉すらも、あなたの名前としては長すぎます。


それは「何も無いもの」という定義すらも持たぬものです。


この「何も無いもの」の中ですべてが起こっています。


この「何も無いもの」の中で、あらゆる現象が起こっています。

この「何も無いもの」の中で、色や形、音、味、匂い、触感や痛みが起こっています。

この「何も無いもの」の中で、感情や思考(ストーリー)が起こっています。



そして、色や形も、音も、体の感覚も、感情も、思考も、すべては変化していきます。

でも、このすべてを入れるための「空っぽの容器」である自分は何も変化しません。


あなたは、変化するあらゆるものを超越している存在なのです!



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どうでしたか?

自分は、すべてが起こるための「空っぽの容器」であることが実感できたでしょうか?


あなたは「何も無いもの」なんじゃないですか?

言葉で言うとなんだかヘンテコな表現になってしまいますが、「何も無いもの」として「ここに在る」のではないですか?


そして、この「空っぽである」という事実は、あなたをあらゆる出来事から解放してくれるのではないですか?



次回は空っぽの自分を、日常で定着させているための練習について書きたいと思います。

それでは、今日のまとめです↓



【今日のまとめ】

・自分は空っぽの巨大な容器である。

・その中ですべての出来事が起こっている。

・変化するあらゆるものはただ「起こっている」

・自分はそれらすべてを超越している存在である。

・起こってくるものをそのまま存在させてあげよう。

・そしてその中から、自分が構いたいもの(好きなもの)だけをチョイスして、それで遊ぼう。

・それこそが、人間ゲームを楽しむコツである。



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Posted by しょうちく at 20:20Comments(1)自分は何者なのか

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