教養とは何か | 創造の杜~カッコいい知識人を目指すBlog~

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keynoteの扱いに慣れてきてスライド作成時間がどんどん減少してきているさくらアトムです、こんにちは

本日は教養について考えていこうと思います。け、決して書き溜めておいたエッセイ題材なんかではありませんよ!





 先日とある経済雑誌を書店で立ち読みしていたとき、教養本ブームという記事を見つけた。その記事曰く、難関大学生やビジネスパーソンの間で少しアカデミックな書籍が売れているのだという。ウィリアム・H・マクニールの『世界史』やジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・毒』がその代表である。なるほど、確かに二冊とも生ぬるい小説などとは一線を画する「教養ある」歴史書である。講談社の子会社として昨年創設された星海社が送り出す星海社新書も、「教養」を求める”戦うビジネスマン”を対象としている。

 批評家で株式会社ゲンロンの代表である東浩紀氏はTwitter上で「教養」について、「『どんなコンテンツが長期間生き残るか』についての実践的な知恵」と述べた。ソクラテスなど今でも我々の間で語り継がれる古典はコンテンツとしての競争力がとても強いのだと彼は言う。2000年も前に書かれたものが今まで残っていることは驚くべきことであろう。プラトン然り孔子然り。これら「古典」はもともと競争力が強いから生き残ったのか、それともここまで生き残ることができたから強いのか。

 石原千秋氏は「古典」について、何年も経ってから読み直すと新しい読み方が生まれ、そのテクストが息を吹き返すのだという。氏は夏目漱石の作品を挙げて、筆者が文中に隠した言いたいこと=宝物の数が「古典」の場合段違いに多いのだという。昔に書かれたものを現代の新たな見方で甦らす。今と昔、多面的な見方で味わうことができるからこそ競争力が他の書籍とは比べ物にならないのだろう。とすれば、『徒然草』のような日本人の昔から変わらぬ情緒や、普遍的な処世術を書いた「古典」は、現代でも十分教科書になりうる。場面設定を現代のものとパラフレーズすればよいのである。「古典」はこのように自らが積極的に宝物探しをしていかねば息を吹き返すことはないだろう。

 瀧本哲史氏は著書『武器としての決断思考』にて、一般教養=リベラルアーツは本来学のない奴隷を解放するための学問であり、自らが己の未来のために積極的に獲得すべきものである、と述べている。「教養」や「古典」、社会の上層に支配されるだけの奴隷には確かに必要ない。しかしながら、それらに立ち向かう気概があるのなら積極的に身につける必要がある。自分だけの宝物を探し出し、それを武器にして戦っていく。これが「教養」のあり方なのか。さすが「教養」、一つの答えだけでは捉えきれない。


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