自分自身についての疑念や不信を超越できる自らの能力を信じ、その信を抱き続けるには、兄弟への信頼が不可欠である。
兄弟を攻撃する時、あなたは、自分が彼の中に知覚したものによって、彼が限定されていると宣言している。彼の誤りを超えたところを見てはいない。むしろ、その誤りが拡大されている。そして、あなた自身の間違いを超え、彼やあなた自身の罪のごとく見えたものものをも超えたところにある自己を、あなたは自覚できなくなっている。
知覚には焦点がある。
これが、あなたが見るものに一貫性を与える。
兄弟の罪に焦点をあてるのはやめなさい。
そうすれば、無罪性を信じることから生じる平安を、あなたは経験する。
こうした卑小な焦点のすべてを、私たちの無罪性を明らかにするという重大な必要へと入れ替える。
過去は過ぎ去っており、未来は想像されているに過ぎない。それらの懸念は、知覚の焦点が現在において変化しないようにする防衛に過ぎない。
私たちはうちなる無罪性を見るという意図を持つ。
私が見たいのは、これではない。
私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。
私たちの無罪性を見る心眼を何らかの障害が妨げるように見えるたびに、罪に焦点をあわせたことでもたらされる不幸、そしてその罪が訂正されない間はとどまり続ける不幸から、ほんの一瞬の間、離れようとするだけで良い、
間違いを超えたところに焦点が移行するとき、私たちは完全に罪のない世界を見るようになる。
これを見ることだけが、私たちのすべてとなる時、真の知覚の名においてこれだけを求める時、キリストのまなざしが、必ず私たちのものとなる。
そしてキリストが私たちに対して感じている愛も、私たちのものとなる。私たちは世界と自分自身の中に、この愛の反映だけを見るようになる。
私たちの無罪性は、神の意志にほかならない。
この瞬間が、私たちが神の意志とひとつになることを意志している瞬間である。