10papaのボクシングブログ

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ビッグマッチが目の前に近づいておりますが、それは一旦置いておいて、話を進めます。


今回でモハメド・アリ編最終回です。


モハメド・アリが凄かった3つの理由のうち、最後の1つです。


【その3:反戦と人種差別反対を貫き続けたリング外の戦いが世間から評価され、スポーツの枠を超えた存在としてシンボル化した。



このあたりが、アリがただのスポーツ選手では留まらない存在となった理由になるのですが、順を追って説明していきましょう。




1942年、アメリカのケンタッキー州に生まれたアリは、1960年、18歳でローマオリンピ ックのボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得したことは、前回説明しました。


金メダルを持って意気揚々と帰国したアリでしたが、故郷ケンタッキー州のレストランで肌の色を理由に入店を断られます。
日頃から、食事をするにも、買い物をするにも、乗り物に乗るにも、依然として黒人としての差別を受けることに強く失望していたアリ
は、この時、失意のあまりオハイオ川の橋の上から金メダルを投げ捨ててしまうのです。



そして、この屈辱の経験が、その後のアリの活動の原点となっていきます。




その後、鳴り物入りでプロ入りした彼は、デビュー当時は本名のカシアス・クレイの名で試合をしていました。
当時から、公民権運動(人種差別の解消を求める運動)に興味を持っていたアリは、 「ブラック・モスレム」という宗教に出会い、指
導者イライジャ・モハメドやマルコムXといった有力者との関係を強めていきます。



そして1964年、怪物ソニー・リストンを倒し、世界チャンピオンとなった会見の場で、自身がブラック・モスレムの一員であり、キリスト教からイスラム教へ改宗することを宣言します。
またその後、名前もカシアス・クレイからイスラム教の名前「モハメド・アリ」に改名することを宣言します。



この当時、時代は1960年より始まったベトナム戦争の真っ只中でした。


先の見えない戦争が続く中で、1966年、遂にアリのもとにも徴兵令が届きます。


しかし、アリはイスラムの教えに従い、反戦を理由に、この兵役を拒否します。
アリの言い分はこうです。


「なぜ俺が1万6000キロも離れた土地に行って、罪のない有色人種の頭上に爆弾を 落とす必要がある? もし戦争に行くことが自由と平和をもたらすなら、俺は明日にで も入隊するぜ。」




当時、これらのアリの行動に、世間は批判的でした。


一つは、宗教について、アリが加わったブラック・モスレムは、過激な宗教団体として国内で目をつけられていました。
また、入隊についても、15年も続き泥沼化するベトナム戦争も当時は反戦の気運はなく、逆に戦争への協力によって権利を勝ちとろうと
する黒人指導者もいたほどでした。



まさにアメリカ合衆国を敵に回し、ほとんど世論の支持も得られなった訳です。



そして、ついにボクサーとしての活動も絶たれてしまいます。


すでに国内では試合開催を各地の州政府にことごとく拒否され、海外を拠点にタイトルマッチをこなしていたアリに、合衆国軍への入隊拒否の行為に対して、懲役5年、罰金1万ドルの有罪判決が下されるのです。
そして同時に、ボクシングライセンスが停止され、世界ヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪されてしまうのです。



結果的に、アリはここから3年半もの間、ボクサーとしての活動ができないまま、キャリアにブランクを作ってしまいます。
それは世界チャンピオンとして9連続防衛を記録していた時期であり、彼の全盛期と言われていた25歳から28歳までの時期でした。




しかし、アリは決して自分の信念を曲げることはしませんでした。


「どんな刑罰を受けても、自分の信仰は揺るがない。たとえ銃を突きつけられても」




この後、保釈を獲得したアリは、入隊拒否の判決に対して裁判に挑み、控訴・上告の裁判を続けていきます。
またあわせて、全米各地の大学を中心に、公民権運動や反戦についての講演活動を行っていきます。



アメリカ合衆国を敵に回し、世論の支持も得られず、孤軍奮闘していたアリでしたが、その行動が次第にベトナム戦争や公民権運動に無関心だった人たちにまで影響を与え、多くの一般市民が深い関心を持つようになっていきました。


また泥沼化するベトナム戦争に、反戦気運も高まっていき、世論が徐々にアリの方向に傾いていきます。


そして、なにより最強のボクサー、モハメド・アリの試合をもう一度みたいと望む人々の声の高まりもあり、これらに抗しきれない各州の政府は、ついに1970年モハメド・アリの試合を解禁するのです。


そして、翌1971年7月には合衆国最高裁が徴兵拒否という彼の有罪判決をくつがえすのでした。

徴兵を拒否してから4年余り、たった一人でアメリカ総権力に戦いを挑み、不屈の精神と社会的なパワーを身に付け、勝利を勝ち取ったモハメド・アリ。
ボクサーとして61戦したアリですが、彼のキャリアの中ではこれが最大の戦いだったかもしれません。




復帰後の彼のボクサーとしての歩みは、前回説明した通りです。

数々の激戦を経て、1981年最後の試合を終えた時には、すでにアリの肉体はボロボロの状態になっていました。
そして頭部への打撃が原因とされる、パーキンソン病にかかり、言語や運動に障害を持ってしまうのです。



そして、そんな彼の姿を、その後我々は意外なところで目にするのでした。



1996年7月19日、アトランタオリンピック開会式。
オリンピックスタジアムに最終聖火ランナーとして、直前まで極秘にされ、現れたのはモハメド・アリでした。

どよめく会場の中、パーキンソン病と闘い続けるアリが震える手で聖火台に点火した時、ざわめきは大きな拍手に変わり会場を包み込みました。


そして、1960年のローマオリンピックで金メダル獲得後、レストランにて黒人である事を理由に入店拒否され、メダルを川に投げ捨てたアリに対して、改めてアトランタの金メダルが彼に贈られたのです。



スポーツと平和の象徴であるオリンピックの最終聖火ランナーに、米国社会と戦い続けてきたアリが選ばれ、金メダルを授与されたことは、“アリと米国社会の和解”を示す象徴的なシーンでした。




そしてその後もアリは、不自由な体を押して、各地への講演活動や途上国への支援活動など、自身の多くの時間を平和の追求のために注ぎ込んでいきます。
その活動は広く評価され、ドイツのオットー・ハーン平和賞など数々の賞を授与されています。




さて、モハメド・アリ編の冒頭で、彼はいったい何が凄かったのか、そして彼の本当の強さが何なのかを掘り下げると伝えましたが、いかがだったでしょうか?



ボクサーとしての戦いはもちろんのこと、自身の病との戦い、人々に平和をもたらすための戦いといったリング外の戦いに、彼の凄さや強さを感じぜずにはいられません。



そして、だからこと昔も今も「最強のボクサーは誰?」といった問いに、皆は答えるのです。


「最強はモハメド・アリ」だと。





(終わり)





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前回の続きです。
モハメド・アリは何が凄かったのか? 理由その2です。



【その2:同時代のライバル達と多くの名勝負を残しファンを魅了した。】



モハメド・アリは61戦 56勝 37KO 5敗という素晴らしい戦績を残しているのですが、同じような戦績またはそれ以上の戦績を残したヘビー級ボクサーは過去に多く存在して言る事は、以前に述べました。


しかし、その数値では現れない戦歴の重み(どんな強敵と戦ったか、どんな名勝負を残したか、いかにファンの心を掴んだか)という点で、アリは大きく抜きん出ていると思います。



これについては、アリの戦歴を振り返りながら説明する必要があると思います。





1942年、アメリカケンタッキー州に生まれたアリは、9歳からボクシングをはじめ、1960年、18歳でローマオリンピックのボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得します。


プロに転向したアリは、前回説明したとおりのスピード&パワーのボクシングで連戦連勝を重ね、世界ヘビー級タイトルへの挑戦権を手に入れます。


しかし、当時のWBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンは、史上最強のハードパンチャーとの呼び声も高く、怪物的な強さで恐れられていた非常に強いチャンピオンでした。
モハメド・アリでさえ、下馬評は圧倒的不利だったのです。


しかし、そのようは状況下で1964年2月に行われた試合は、ふたを開けてみると、怪物ソニー・リストンを全く寄せ付けず、モハメド・アリの一方的な試合運びで6ラウンド終了時にTKO勝ちとなるのです。

続く再戦も、なんと1ラウンドTKOで勝利し、アリの強さが本物であり、とんでもないチャンピオンが誕生したことを世間に知らしめるのでした。




チャンピオンになった後も、アリは圧倒的な強さで、9度のタイトル防衛を重ねます。


当時のアリは、他の選手とは一線を画し、頭1つ2つ抜きん出た存在で、それはもう手のつけられない強さでした。

そして、この頃がモハメド・アリのの全盛期であり、いまだにその強さはヘビー級史上最強と言われています。



しかし、その後アリはベトナム戦争の兵役拒否により、世界王座およびボクシングライセンスを剥奪されてしまい、25歳~28歳まで全盛期の3年半もの間、ブランクを作ってしまうのです。(この件は、次回詳しく説明します。)



3年半の長いブランクが明け、復帰を遂げたアリは再び連勝を重ね、その強さは健在と思われていましたが、実は全盛期の強さは既に失われていました。

しかし、それが災いし、逆にその後のキャリアで多くの死闘、激闘、名勝負を生むことになるのです。



どういうことかと言う、こんな理由です。


(1)他の選手とは頭二つ抜けた圧倒的な強さから、頭半分程度の差に縮まり、きわどい勝利(接戦)が増え、逆にファンを熱狂させた。

(2)華麗なフットワークは影を潜め、ロープ際でパンチを打たせてから反撃するという、肉を切らせて骨を絶つスタイルにシフトチェンジした。その結果、壮絶な打ち合いが増え、それが名勝負と言われる試合となった。



衰えてもなお、ファンを魅了する強さと、気力を維持し続けてしまったが故に、その後のアリの試合に名勝負がより多く生まれたことは皮肉と言えるかも知れません。



さて、話を復帰後のアリに戻します。
アリが復帰を遂げたとき、アリの替わりに当時チャンピオンに君臨していたのは、機関車の異名をもつ無敗の王者、ジョー・フレージャーでした。


ジョー・フレージャーは、アリが金メダルを獲得したローマオリンピックの4年後の東京オリンピックでの金メダリストであり、無敗のままチャンピオンになったところなども、アリと同じ経歴を辿っていました。


世間では、この圧倒的な強さを誇る無敗のボクサー2人は、いったいどちらが強いのか?と囁かれ続けており、2人の対戦が熱望されていました。

そして、連勝を重ね、アリはいよいよジョー・フレージャーとのタイトルマッチまで辿り着き、1971年3月に行われた無敗対決は、ボクシングファンが待ちわびた世紀の一戦として、世界中が注目するのでした。


試合のほうも誰もが期待していたとおり激しい打ち合いとなりましたが、結果は、最終15回にダウンを奪われるなどして、アリの判定負け。

遂にアリの不敗神話に終止符が打たれたのでした。




初めての敗北を喫したアリですが、、再び返り咲きを目指す彼の前に新たな怪物が現れます。


アリに勝利した王者ジョー・フレージャーを僅か2ラウンドで完膚なきまでに叩きのめし、新王者になったジョージ・フォアマンです。



一方アリは、王者返り咲きに向けた戦いを続け、ジョー・フレージャーとの再戦にも12回判定勝ちを収め雪辱を果たすとともに、王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を手にします。


この試合が、1974年10月、アフリカで行われ「キンサシャの奇跡」と言われ伝説化した、WBA・WBC統一世界ヘビー級タイトルマッチです。



衰えを隠せない32歳のモハメド・アリ。25歳の若き怪物ジョージ・フォアマンとの対決は、アリの圧倒的不利が囁かれ、とてもアリの勝てる相手ではないと思われていました。


実際の試合も、試合開始直後からロープを背負い、フォアマンの豪腕を耐え続けるアリ。試合は一方的に見え、いつフォアマンがアリにトドメを刺すのかと思われていました。


しかし、パンチに耐えながらフォアマンの疲労を待っていたアリは、8ラウンド、疲れの見え始めたフォアマンに強烈なパンチを打ち込みダウンを奪います。

フォアマンはそのまま立ち上げあることができず、アリの8ラウンドKO勝ち。「キンサシャの奇跡」と言われ、後世に語り継がれる伝説の試合となるのです。



この試合で手にした世界タイトルを、アリはその後10度防衛します。これは、ブランク前の9連続防衛を上回る記録です。
とうにピークを過ぎていると思われていたアリですが、やはり、それでもそんじょそこらの選手とはレベルが違うということでしょうか。



この防衛記録の中には、アリの終生のライバル、ジョー・フレージャーとの3度目の対決も含まれています。


お互い1勝1敗で迎えた第3戦。両者の気合は凄まじく、アリ史上最高の試合と言われるほど、両者一歩も引かない凄まじい打ち合いが展開されました。

しかし、あまりに凄惨な戦いが続いたため、14ラウンドに連打を打ち込まれコーナーに戻ってきたジョー・フレージャー側のセコンド陣が、これ以上試合を続けることは命に関わるとして、試合を続けようとするフレージャーを抑え、棄権を申し出たことで試合が終了し、アリのTKO勝ちとなります。

しかし、実はこの時、反対側のアリ陣営では、すでに全力を使い果たし、これ以上は試合を続けられないと、自らグローブを外し試合を棄権しようするアリをセコンド陣が必死で止めていたといいます。


それほどまでに、紙一重の試合だったということです。




さて、そんなアリも30代後半を迎え、いよいよキャリアの終焉を迎えます。

モントリオールオリンピックの金メダリストながら、まだまだ経験の浅いレオン・スピンクスに判定で敗れ、アリは再び王座を失います。


一度敗れた相手には必ず再戦でリベンジしてきたアリ。今回も意地を見せ、半年後の再戦でレオン・スピンクスに勝利し、史上初ヘビー級で3度目の王座奪還に成功します。



しかし、自身も限界を感じていたアリは、この王座を一度も防衛することなくタイトルを手放し、遂に引退を表明します。



しかし世間はアリを求め続けました。

周りから担がれるように、その後3年間で2試合を行い、いずれも一方的は判定負け。

その後試合をすることはなく、39歳でキャリアを終えるのでした。




こうして振り返ってみると、アリの試合は以下のような特徴があると思います。


・不利と言われた大勝負に勝ってきた
・激しい打ち合いの末の勝利(年開最優秀試合賞を6度受賞)
・1度負けた相手に必ずリベンジしている(引退前の2連敗を除く)
・3度のヘビー級王座奪還(史上初)


更にはこれに当時の時代背景など様々な要素が重ね合わるのですが、これだけでも同時代に生きた当時のファン達が、いかにアリを求め、アリの試合に魅了されたかが分かると思います。



そしてこれが冒頭に述べた61戦 56勝 37KO 5敗という数値では現れないアリの戦歴の重みではないでしょうか。




(つづく)

 次回、モハメド・アリ編、最後です。




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前回より、誰もが知っている世界一有名なボクサー、モハメド・アリについての記事を書いています。


前回までは、モハメド・アリを含めた過去の伝説的なヘビー級ボクサー達を紹介してきました。
その中で、モハメド・アリだけが、唯一無二の絶対的な知名度と人気を持っているのは何故でしょうか?


「ようはモハメド・アリって、何か凄かったの?」ということなのですが、その問いに対して、今回より私なりの考察を記載していきたいと思います。



モハメド・アリは何が凄かったか? その理由を私は3つあげます。



◆その1:ヘビー級にフットワークとスピードのボクシングを持ち込み頂点を極めた。


◆その2:同時代のライバル達と多くの名勝負を残しファンを魅了した。


◆その3:反戦と人種差別反対を貫き続けたリング外の戦いが世間から評価され、スポーツの枠を超えた存在としてシンボル化した。




1つずつ解説していきましょう。



【その1:ヘビー級にフットワークとスピードのボクシングを持ち込み頂点を極めた。】


ひと昔前のヘビー級ボクシングと言えば、力自慢の大男達が、足と止めてどつき合う野性的なファイトが魅力でした。
そして多くのファンも、一発で相手を倒すことのできる強烈なパンチの応酬の末のノックアウトを、彼らに期待していました。


そこへ、ヘビー級のパワーに加え、軽量級並みのフットワークとスピードを持ち込んだのがモハメド・アリでした。


まずは、どのくらい早いか以下の動画を見てみましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=dGiC7FarXnc&feat



これは無敗のまま世界チャンピオンとなり、タイトル防衛を続けていた全盛期のモハメド・アリの動きです。


もはや軽量級すら上回るスピードです。これほどのスピードを持ったヘビー級ボクサーは、アリ以外、現在まで現れていないと思います。


そしてただ速いだけでなはく、相手を一発で倒すパワーも持っている訳です。


「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と自らがキャッチフレーズを付けたそのボクシングスタイルは、過去に類を見ないものでした。



そして、このスピードとパワーを兼ね備えたモハメド・アリこそが、長いボクシング史の中で、今も最強のヘビー級ボクサーと言われ続けている所以なのです。



(つづく)




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