モハメド・アリ(その3)~戦歴の重み~ | 10papaのボクシングブログ

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前回の続きです。
モハメド・アリは何が凄かったのか? 理由その2です。



【その2:同時代のライバル達と多くの名勝負を残しファンを魅了した。】



モハメド・アリは61戦 56勝 37KO 5敗という素晴らしい戦績を残しているのですが、同じような戦績またはそれ以上の戦績を残したヘビー級ボクサーは過去に多く存在して言る事は、以前に述べました。


しかし、その数値では現れない戦歴の重み(どんな強敵と戦ったか、どんな名勝負を残したか、いかにファンの心を掴んだか)という点で、アリは大きく抜きん出ていると思います。



これについては、アリの戦歴を振り返りながら説明する必要があると思います。





1942年、アメリカケンタッキー州に生まれたアリは、9歳からボクシングをはじめ、1960年、18歳でローマオリンピックのボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得します。


プロに転向したアリは、前回説明したとおりのスピード&パワーのボクシングで連戦連勝を重ね、世界ヘビー級タイトルへの挑戦権を手に入れます。


しかし、当時のWBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンは、史上最強のハードパンチャーとの呼び声も高く、怪物的な強さで恐れられていた非常に強いチャンピオンでした。
モハメド・アリでさえ、下馬評は圧倒的不利だったのです。


しかし、そのようは状況下で1964年2月に行われた試合は、ふたを開けてみると、怪物ソニー・リストンを全く寄せ付けず、モハメド・アリの一方的な試合運びで6ラウンド終了時にTKO勝ちとなるのです。

続く再戦も、なんと1ラウンドTKOで勝利し、アリの強さが本物であり、とんでもないチャンピオンが誕生したことを世間に知らしめるのでした。




チャンピオンになった後も、アリは圧倒的な強さで、9度のタイトル防衛を重ねます。


当時のアリは、他の選手とは一線を画し、頭1つ2つ抜きん出た存在で、それはもう手のつけられない強さでした。

そして、この頃がモハメド・アリのの全盛期であり、いまだにその強さはヘビー級史上最強と言われています。



しかし、その後アリはベトナム戦争の兵役拒否により、世界王座およびボクシングライセンスを剥奪されてしまい、25歳~28歳まで全盛期の3年半もの間、ブランクを作ってしまうのです。(この件は、次回詳しく説明します。)



3年半の長いブランクが明け、復帰を遂げたアリは再び連勝を重ね、その強さは健在と思われていましたが、実は全盛期の強さは既に失われていました。

しかし、それが災いし、逆にその後のキャリアで多くの死闘、激闘、名勝負を生むことになるのです。



どういうことかと言う、こんな理由です。


(1)他の選手とは頭二つ抜けた圧倒的な強さから、頭半分程度の差に縮まり、きわどい勝利(接戦)が増え、逆にファンを熱狂させた。

(2)華麗なフットワークは影を潜め、ロープ際でパンチを打たせてから反撃するという、肉を切らせて骨を絶つスタイルにシフトチェンジした。その結果、壮絶な打ち合いが増え、それが名勝負と言われる試合となった。



衰えてもなお、ファンを魅了する強さと、気力を維持し続けてしまったが故に、その後のアリの試合に名勝負がより多く生まれたことは皮肉と言えるかも知れません。



さて、話を復帰後のアリに戻します。
アリが復帰を遂げたとき、アリの替わりに当時チャンピオンに君臨していたのは、機関車の異名をもつ無敗の王者、ジョー・フレージャーでした。


ジョー・フレージャーは、アリが金メダルを獲得したローマオリンピックの4年後の東京オリンピックでの金メダリストであり、無敗のままチャンピオンになったところなども、アリと同じ経歴を辿っていました。


世間では、この圧倒的な強さを誇る無敗のボクサー2人は、いったいどちらが強いのか?と囁かれ続けており、2人の対戦が熱望されていました。

そして、連勝を重ね、アリはいよいよジョー・フレージャーとのタイトルマッチまで辿り着き、1971年3月に行われた無敗対決は、ボクシングファンが待ちわびた世紀の一戦として、世界中が注目するのでした。


試合のほうも誰もが期待していたとおり激しい打ち合いとなりましたが、結果は、最終15回にダウンを奪われるなどして、アリの判定負け。

遂にアリの不敗神話に終止符が打たれたのでした。




初めての敗北を喫したアリですが、、再び返り咲きを目指す彼の前に新たな怪物が現れます。


アリに勝利した王者ジョー・フレージャーを僅か2ラウンドで完膚なきまでに叩きのめし、新王者になったジョージ・フォアマンです。



一方アリは、王者返り咲きに向けた戦いを続け、ジョー・フレージャーとの再戦にも12回判定勝ちを収め雪辱を果たすとともに、王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を手にします。


この試合が、1974年10月、アフリカで行われ「キンサシャの奇跡」と言われ伝説化した、WBA・WBC統一世界ヘビー級タイトルマッチです。



衰えを隠せない32歳のモハメド・アリ。25歳の若き怪物ジョージ・フォアマンとの対決は、アリの圧倒的不利が囁かれ、とてもアリの勝てる相手ではないと思われていました。


実際の試合も、試合開始直後からロープを背負い、フォアマンの豪腕を耐え続けるアリ。試合は一方的に見え、いつフォアマンがアリにトドメを刺すのかと思われていました。


しかし、パンチに耐えながらフォアマンの疲労を待っていたアリは、8ラウンド、疲れの見え始めたフォアマンに強烈なパンチを打ち込みダウンを奪います。

フォアマンはそのまま立ち上げあることができず、アリの8ラウンドKO勝ち。「キンサシャの奇跡」と言われ、後世に語り継がれる伝説の試合となるのです。



この試合で手にした世界タイトルを、アリはその後10度防衛します。これは、ブランク前の9連続防衛を上回る記録です。
とうにピークを過ぎていると思われていたアリですが、やはり、それでもそんじょそこらの選手とはレベルが違うということでしょうか。



この防衛記録の中には、アリの終生のライバル、ジョー・フレージャーとの3度目の対決も含まれています。


お互い1勝1敗で迎えた第3戦。両者の気合は凄まじく、アリ史上最高の試合と言われるほど、両者一歩も引かない凄まじい打ち合いが展開されました。

しかし、あまりに凄惨な戦いが続いたため、14ラウンドに連打を打ち込まれコーナーに戻ってきたジョー・フレージャー側のセコンド陣が、これ以上試合を続けることは命に関わるとして、試合を続けようとするフレージャーを抑え、棄権を申し出たことで試合が終了し、アリのTKO勝ちとなります。

しかし、実はこの時、反対側のアリ陣営では、すでに全力を使い果たし、これ以上は試合を続けられないと、自らグローブを外し試合を棄権しようするアリをセコンド陣が必死で止めていたといいます。


それほどまでに、紙一重の試合だったということです。




さて、そんなアリも30代後半を迎え、いよいよキャリアの終焉を迎えます。

モントリオールオリンピックの金メダリストながら、まだまだ経験の浅いレオン・スピンクスに判定で敗れ、アリは再び王座を失います。


一度敗れた相手には必ず再戦でリベンジしてきたアリ。今回も意地を見せ、半年後の再戦でレオン・スピンクスに勝利し、史上初ヘビー級で3度目の王座奪還に成功します。



しかし、自身も限界を感じていたアリは、この王座を一度も防衛することなくタイトルを手放し、遂に引退を表明します。



しかし世間はアリを求め続けました。

周りから担がれるように、その後3年間で2試合を行い、いずれも一方的は判定負け。

その後試合をすることはなく、39歳でキャリアを終えるのでした。




こうして振り返ってみると、アリの試合は以下のような特徴があると思います。


・不利と言われた大勝負に勝ってきた
・激しい打ち合いの末の勝利(年開最優秀試合賞を6度受賞)
・1度負けた相手に必ずリベンジしている(引退前の2連敗を除く)
・3度のヘビー級王座奪還(史上初)


更にはこれに当時の時代背景など様々な要素が重ね合わるのですが、これだけでも同時代に生きた当時のファン達が、いかにアリを求め、アリの試合に魅了されたかが分かると思います。



そしてこれが冒頭に述べた61戦 56勝 37KO 5敗という数値では現れないアリの戦歴の重みではないでしょうか。




(つづく)

 次回、モハメド・アリ編、最後です。




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