教え教えられる今日
沢山のことを学び、教わり成長すると、もしかしたら、いつか今度は自分が教える立場になるのかも知れない。
人に教えることが多くなると、今度はまた何かを学びたい、教わりたい!という衝動に駆られるのかも知れない。
今日は一日、特に両方を経験した日で、充実感があったので、思ったことをバーって書いてみた!
親の小言とエコ洗剤
何事も初めの頃は、教えてくれる人が周りに沢山いる。誰もいない様に思ったとしても、実は教えてくれなさそうな、あの人も自分の行動と気持ちの変化次第でころっと教えてくれる人へと変わる。
経験が積み重なってきてからも同じではあるが、初めの頃と比べると圧倒的に自分から積極的に行動していかないと自分にとって、本当の意味で何かを教えてくれる存在の人にはなかなか出会い難い…。
若かれし時に、先輩上司からもらった理解に苦しむ助言も、時間が経つにつれ、ようやく理解する。親の小言とエコ洗剤は時間差で効いてくる。その場での即効性は薄いけど、後から確実にジワジワと効く。
若いときや初めの頃に、細かく、しつこく教えてくる人が周りにいる環境というのは、決して最悪の環境ではないのかも知れない。
もしかしたら、この先いつか、そんな人を自分から望む様になる時がくるかも知れない。「絶対に一生望むことはない!」と、まだ見ぬ未来に向かって断言はできないはずだ。今の心理的葛藤が後々、自分の背中を押す手助けになることだってある。
何もしないと.何にもならない
僕も以前は、自分の指導が周りから、「細かい、しつこいって思われてるかも…嫌われたらどうしよう。控えようかな?」って悩んだ時もあった。
でも、今は意味のあることなら嫌われることも覚悟の上、相手には遠慮せず伝えることにしてる。伝えた後に相手がそれを必要か不用かを決めるのは本人の自由。
相手が不用と捉え、自らそれを完全に切り捨てるまでは、教える側もこちらから先に相手より早く諦めない。相手のことを早々にダメだったと決めつけてはならない。
社会生活でも小さな会社の中一つとっても、「いる=いらない。必要=不用。やる=やらない。」を自分の都合で自由に勝手に決めれない事はどうしたってある。
選択肢のある事柄は選択権の自由を事前に明確に伝え、あくまでも本人の意思とペースで二人三脚だ。この場合の教えるは導くことであって強制ではない。
教える側も言葉だけでなく、口を開いたら開いた分だけ、自分の行動もしっかりと背中で語れる様に頑張らないと説得力に欠ける。
何が正解かは分からないけど、これならどちらも、共に成長の可能性を秘めていて、1番良くないのは、何もしないことだ。