『「ほどほど」にできない子どもたち 達成中毒』 | First Chance to See...

First Chance to See...

エコ生活、まずは最初の一歩から。

テーマ:

 アメリカの裕福な家庭に生まれ、成績優秀校に通い、当然のように一流大学への進学を目指す子どもたちが、学業もスポーツもルックスも人格も完璧でなければならないと思い詰め、精神的に追い込まれている現状について取材したノンフィクション。著者ジェニファー・ウォレス自身、ハーバード大学卒のエリートジャーナリストで、三人の子供の母親でもある。

 

 

 アメリカの勝ち組エリート親子のエピソードの数々は、正直、読んでいるだけで疲れる。親も子もやりすぎだろ。一家団欒とか休息もスケジュール化しようとか言ってる時点で、不自然だと思わないのか?

 

 昭和な日本に生まれ、昭和の受験戦争を潜り抜けてきた私に言わせると、問題の根本はアメリカの大学入試制度にある。著者にとっては当たり前なので疑問に思う余地はないのだろうが、推薦入試もあるけど一発勝負の筆記試験で勝負できる日本と違い、アメリカの大学は高校の成績とか課外活動とかエッセイとか面接といったもので合否が決まるため、高校に進学した途端、全力で絵に描いたような優等生にならねばならない。高校の成績がすべて最優秀だったとしても、それだけでは他の高校からの優秀な出願者と差がつかないから、課外活動で部長を務めたり、スポーツで良い成績を出したり、ボランティア活動でリーダーシップを発揮したりしなくてはならない。一発勝負の筆記試験で合否が決まるような入試制度下では、誰が課外活動の部長になろうと「素敵な青春」でしかないけれど、それが大学入試の合否に直結するアメリカでは、同級生同士のガチバトルになってしまう。「少年ジャンプ」のスポ根マンガとかに出てくるライバル同士のバトルが牧歌的に思えてしまうほどに。

 

 全力で演じ続ける完璧な優等生の外ヅラだけが評価される世界。うまく社会的成功をおさめ、その外ヅラが完全に内面化されてしまえば問題ないのかもしれないけれど、一度でもどこかで躓いたら、そりゃ速攻で病みますわな。

 

 本書には、激化する一方の競争社会でぶっ壊れないために、子どもが自分を大切だと思える/親からもそう思ってもらえていると感じられるようにしよう、とか、友人との付き合いを大切にしよう、とか、あれこれ提案が出されているけれど、それもこれも結局は「競争に潰されず勝ち抜くための処方箋」にすぎず、そのせいで何もかもひどく功利的に見える。お友だちとしょーもないことを何時間もベラベラと喋り合うのはその行為自体が楽しいからであって、助け合うとか支え合うとか、そういうのはあくまで「おまけ」じゃないの?

 

 「お友だちとしょーもないことを何時間もベラベラ」とかやってる時点で勝ち組エリートにはなれない、と言われればそれまでだけど、ともあれ「ほどほどにできない子どもたち」呼ばわりはちがうよな、むしろ「ほどほどでは許されない子どもたち」と言うべきだよな。