スピリチュアルはまだ当分腫物扱いされる | Eye of the God ~神の眼~

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現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 スピリチュアルという世界に身を置いていると、そのカバーする範囲は広く様々であるとはいえ、いくつか多くに共通する特徴的な問題点がある。


①スピリチュアルは特別なものではない。むしろ生活と一体


 一見、そんなに問題あることを言ってないように感じるだろう。特にスピリチュアル側の人間にしたら息を吸うように当然の考え方だろう。
 ただ、この考え方がスピリチュアル側の人間がそれを理解しない人間に多少の「迷惑をかける」ことへの免罪符になっている側面は見逃せない。
 ほとんどのケースで、迷惑を感じるのは一般人側でスピリチュアル側の人間は罪悪感を感じないという特異なシステムが出来上がっている。イエス・キリストを誤って殺したことへの罪悪感から、本人に関係ないところで赦されるシステムを赦されたいがために編み出したキリスト教のように。
 スピリチュアル畑の人間は自身の信じるスピリチュアルをベースに行動することに何のためらいも呵責もない。問題が起きれば、それはスピリチュアルをベースにしていない(分かっていない)あなたのせいなの、と無意識領域においてではあるがホンネで思っている。


②愛とか喜びとか争いのない世界とか叫ぶが、実は自分がその争いの種を蒔いている

 
 最近、芸能ニュースで小林麻耶と夫である國光吟氏の話題を連日のように見かける。今読んだものでは、両氏はブログで「これからはスピリチュアルの時代」「愛と喜びだけで、争いのない世界が実現できる」「今の時代は愛を理解するか、離れてしまうか人類が二極化する」という言説を展開している。もちろん今の言葉通りではない。筆者の理解に当てはめた言葉に置き換えている。
 読んで笑ってしまったのが、「自分だけは特別」と思っている点。
 争いや悪口をまったく言わない世界が実現するのなら、他人だけでなく自身にもその義務が課せられるはずである。なのに、小林氏のしていることは海老蔵への攻撃である。つまりは「その悪口のない世界の実現のために、暫定的に悪口を駆使しなければならない」という状態は免除されるのだろう。
 光の戦士には、闇と戦う上で闇と同じ武器を取ることは一時的に致し方なし、ということか。まるで仮面ライダーの世界観。でもそれだと、スピリチュアルが主張する「まったく悪のない世界」が実現できないと認めることになり、大きな矛盾をはらんでしまう。まさかとは思うが、小林夫妻は自分たちのしていらっしゃることが『他者への攻撃』だということがわかっていらっしゃらない?
 高い精神性の基準に照らせば、「たとえ相手が間違っていて自分が正しいとしても、敵を攻撃することはよくない」ことであるはずのなのだ。國光氏がスピリチュアルの指導者としてメシを食っていることを考えたら、そう考えてしかるべきなのでは? 争いのない世界をと言うなら、ガンジーのように自らが非暴力(自分が正しくても攻撃に訴えない)ことを率先して、世間に自らの背中を見せて教育したらいいのでは?


③カッコいいことを言いながら、結局は自分の利益のためである


 愛とか平和とか争いのない世界をとか高尚な言説をのたまっているが、それはそういうきれいごとがダシにされているだけである。要するに、「自分たちが悪口を言われない、居心地のいい世界」「批判・反対されない世界」を作りたいだけ。
 それを証拠に、自身がYouTubeなりで海老蔵を攻撃するのは天の神様から『お目こぼしの特権』があると考えているようだから。スピリチュアルに目覚め、世間に広める使命がある自分には色々なことが「ゆるされる」らしいから。


④上から目線で、目線を下げる優しさがない


 話は小林夫妻から俳優の窪塚洋介氏に移る。
 彼はちょっと不思議男というか、昔からスピリチュアル系の匂いのする人物ではあった。それは有名な転落事故の一件からさらに加速した感はある。
 そんな窪塚氏が、ある時のインタビューかなにかで「思考が現実化する」というような引き寄せ系の内容をしゃべっていたと記憶している。
 それ自体は言論の自由があるから構わないのであるが、ただ言い方が上から目線であることが気になった。
 ロシア侵攻とかコロナ禍にからめてだろうか、「そういうものを気にしてかまってしまうから、対象にエネルギーを与えることになってしまっているんだよね」的なことを言っていた。その言い方には「あんたたち分かってないねぇ」的な嫌味な部分を筆者は感じた。人それぞれ受け止め方はあるだろうが、少なくとも筆者はいい印象を受けなかった。まるで思考は現実化するということを信じてないやつはバカ、とでも言いたげだ。
 宗教や一部スピリチュアルを熱心にやる人は、世界を良くしたいという強い動機とエネルギーがある点は立派なのだが「信じる世界の実現のために、多少の無理は正当化してしまう」という点が、普通の悪人よりも怖い点である。
 また、分からない人間を目線を下げて対応するよりも「分かるやつついてこい、こっちまで這い上がってこい」ってな感じな人が多いのも特徴。この窪塚氏も國光氏も、自分は新時代の意識に目覚めた選ばれた「魂」で、皆さんのために色々して差し上げているということなのだろう。ありがたがられこそすれ、文句を言われる筋合いはない、というスタンスに見える。


 アセンション、という考え方もこの選民思想の最たるものである。愛に目覚めた人は次元上昇で生き延び、そうでない残念な人は生き残れず、ハイサラバーなのだそうで。筆者は、たとえ世界の一人でも地獄にいたら、私もそこで一緒でいい派。
 全員が天国に行けないのに、その限定的人数の世界が天国とはこれいかに?
 筆者の理解では、天国と地獄が両方あってはならず、全部地獄か全部天国かであるべきだ。


 これらの考察から、新時代においてスピリチュアルが一般になじむことを期待しておられる同胞には申し訳ないが、スピリチュアルがもっと世から温かく受け入れられるためには今しばしの時間を要するようだ。五十年か百年か、はたまたそれ以上かは分からない。
 少なくとも、現時点でスピリチュアル界をけん引されておられる有名人の面々を見れば「今ではない」ということは言えよう。