思えば遠くへきたもんだ | Eye of the God ~神の眼~

Eye of the God ~神の眼~

現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 ここ最近は、筆者の周囲はのどかで平和なものだ。
 売れてない・お金を稼げないという不便はあるが、まぁ何とか衣食住は最低限なんとかなっているし、趣味も贅沢を言わなければ楽しめているほうだ。
 売れてない最大の利点は、大勢から相手にされないことだ。アンチとか批判者というものは戦い甲斐がある有名人に付くものだから、こちらを構ってくる相対的人数が減れば、批判もあまりされないものだ。有名でも金持ちでもなく何も持たざる者をそれ以上追い落としても、批判を生き甲斐とするような人は意欲をかきたてられないし、盛り上がらないからだ。


 筆者がカクヨムという小説投稿サイトに掲載している「クリスチャンがひっくりかえる聖書物語 ~イエスが本当に言いたかったこと~」という作品がある。ブログの中を探していただいたらどこかにリンク先があるので、ご興味のある方は読まれたし。キリスト教や聖書の知識などなくとも、スピリチュアルにさほど抵抗のない人ならラクに読んでいただける聖書解釈書である。
 この作品をアップしたその日から、一定数「普通の信仰」をお持ちのクリスチャンの方からの苦言は寄せられた。これはどうしても仕方のないことで、純粋な信仰をお持ちの方には受け入れがたいということは想定内であった。
 筆者も人間なので、批判されたいかされたくないかで言えばされないほうがいい。ならば批判を受けると分かっているかような作品を発表しなければいい、ということになるがそれはどうか。
 恋をしなければフラれることはない。受験をしなければ落ちることはない。試合をしなければ負けることはない—。確かに当たり前だ。
 でも、私は自分が傷つきたくないということ以上に、一定数の人に快く思われなくても「筆者のメッセージを必要としている・同じような疑問を教会や聖書に持ち似た立場にいらっしゃる」人々のためにも発表したいと思った。
 問題提起をしなければ、永遠に物事はすすまない。キリスト教が一般に浸透して大きな市民権を得ていて、世が認めるオーソドックスな聖書の読み方に怖くて誰も声を挙げない状態ではなおさらだ。
 また、面倒を嫌うために自分の本当に言いたいことが言えないことも違う、という思いもあった。


 イエスは大昔に亡くなっており、彼自身が書き残したものは何も残っていない。すべて、第三者が自分の見た(あるいは信じた)イエス像を語ったのみだ。キリスト教というもの自体、パウロという生前のイエスに会ったこともない人物が作り上げたものだ。
 聖書解釈にまつわる話は、食い違う様々な言説が入り乱れている状態で、厳密に何が正しいとは言えない。イエスはこう言った、ましてや神の意図がどうなどどう万民に証明できるのか。歴史上の事件の話にしても、考古学上絶対という物品や文献でも出ない限り仮説や推論でしかない。その推論は自由であるはずなのだが、どうも自分に不利なことを言われるとイライラする幼い精神の方がいらっしゃるようで。
 仮にこの件で筆者に訴訟を起こす人がいても、何が証拠として採用され裁判官がどんな顔をするのか考えると、それはもうコメディだ。


 筆者に先日、久々にねちっこい人が関わってきた。上記作品に対し数通のコメントで長々と自説を述べ、私が相手にしないと今度はメールで送りつけてきて、それでもほっとくと『書いている内容がひどいので運営に通報しました』という捨て台詞を最後に消えた。私がその人物のアカウントをブロックしたので、新たなアカを作ってでも文句を言う、までの情熱はなかったようだ。
 この方の言う『ひどい』は、あくまでのその人物の思想信条に照らしてひどいということにすぎず、通報というのは自分で言ってて恥ずかしくないのかと思った。また、こういう通報で簡単に作品がBANできるなら、世の中に出回る書物はほとんどない。お前の好き嫌いで(完璧に事実確認できないような何を信じているかの違いで)いちいちアカ消してたら世の中回らねーよ、って運営も読んで思うだろう。
 もっとも、最近のニュースで●●の科学の圧力に負けたような●●社のような出版社もあるようだけど!


 偉そうに言うが筆者も過去、自身の信じたものが絶対正義であり絶対真理だと信じて活動していた時期があった。
 それに批判的なものには徹底的に戦いを挑み、自身の信条(信仰)を強化するためのありとあらゆることをやり、親も泣かし友に迷惑をかけ絶交まで言い渡された。それでも、その犠牲を払って余りある価値がその教えにはある、と信じて歯を食いしばった。
 その時代から、もう二十数年あまりが過ぎようとしている。
 紆余曲折を経て、「賢者テラ」と名乗る現在になった。今の私は、何かが正しくて命がけでそれを伝える(要するに周りは間違っている)というステージにはいない。
 批判者は、私が何も答えないと『逃げるのか』と言うが、私が気にするたったひとつのことは「その問題をその人と時間をかけて議論して、何か得るものはあるだろうか」という点である。そこがあれば、私は喜んで時間を割いて向き合う。
 都合が悪いから逃げているのではなく(確かに面倒だという気持ちはあった)、大きくは建設的な議論が可能かどうかにある。数通のコメントを読んで『ああ、今のこの人と議論しても意味ないな』と判断した。
 まるで昔の私を見るようだった。議論というものは、とりあえずどっちが正しいかを置いておいて、挙げられた数々の情報をベースに冷静に語り合うことを言う。大切なのは『相手の言い分を聞こう』という姿勢が双方にあることだ。
 しかしこの方の文章からにじみ出るのが『正しいのはこっちでアンタは絶対的に間違っている』という波動だ。そもそも相手に負ける気なんかないので、これは相手にするだけ疲弊する。で、双方斬り合うだけで何の利益も生まない。
 イエスを逮捕し処刑することを決定する議員たちがいた場で、唯一ニコデモという有力者が『双方の言い分を聞いた後でないとこんな決定をするもんじゃない』と言うが、大勢が「アンタ、ナザレ(イエスの出身地)からはゴミみたいなやつしか出てこないことを知らんのか」と言う。そしてそれがまかり通る。
 健全な民主裁判が聞いたら真っ青な内容だ。


 筆者に文句を言う人のほとんどが、上記のイエスの処刑に問題がない理由に似たレベルの内容だ。確かに、引き合いに出している情報が絶対に正しいわけではないことがある。でも大事なのは、そのお話から導きだされる『エッセンス』であって、それが人の生きる糧となる。学びとなる。その全体のお話が何を言わんとしているかを見ず、ここがここがと枝葉末節をつつく人は、間違ってはいないがもったいないなぁと思う。ディズニーランドに入場だけしてアトラクションひとつも乗らない、みたいな感じ。
 せっかくの学ぶ機会を、好き嫌いとか反発とかで失ってしまう。イエスが長生きしてたらもっと世に色々良い土産を残せただろうに。イエスを気に食わない者たちの願いを叶えたせいで、人類はかつて大きな宝を早くに失ってしまった。


 百歩譲って筆者の聖書解釈作品が削除という処分になったとしてもかまわない心境だ。言いたいこと言えたし。それはそれで縁起の織り成すタペストリー、世界の流れだし。それに逆らっても、いいことはない。
 今はもう、何でもいいやという境地である。ただ、選ぶならできる範囲で自分が心地よいと思うものを選んで生きたい。裏返せば、自分が関わりたくないと思うものに関わらない権利があるということ。
 その一方で、私の血が騒ぐもの・相手にするに足ると認めたことに関しては、面倒だろうが苦しかろうが、それでも追って戦っていくことだろう。
 思えば遠くへ来たもんだ。一昔前は、自分もこのアンチみたいな生き方をしていたなぁ、としみじみ思う。