人のあいだと書いて人間なのに | Eye of the God ~神の眼~

Eye of the God ~神の眼~

現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 ネットニュースで、どこぞにIKEAが建つことが決まって、古くからの町の商店街は悲鳴を上げているというのがあった。どうかこっちにも買い物に来てほしいと。
 コメント欄では、その根底に『自己責任論』の流れるものが多く賛同されていた。


●商店街が、IKEAが建つせいで自分たちの生活が脅かされると考えるのは、その発想自体が間違い。
 そもそも、自分たちが生き残るための創意工夫や努力をしているのか。漫然と商売しているだけならそこから改めないと。IKEAのせいにするのは怠慢。
 大型ショッピングモールと町の商店街はまったくの別物。商店街は商店街にしかない良さや強みを生かして勝負すればよいだけのこと。金持ちに貧乏人が駆逐される、みたいな冷血金持ち vs 力のない庶民みたいな構図の話にもっていくな。



 また、この世界は法治国家であり資本主義社会であり自由競争社会なので、その流儀にのっとって起きていることなので全く問題がなく、社会とは『そうしたもの』なんだから、受け止めていくしかないだろうと。なんでこうなるの、ではなくじゃあこれからどうしたらいいか、を考えていくのが人間ってもんだろ、と。
 総じて、IKEAが建つことで自分の暮らしを心配する商店街の人々を擁護する声は少なかった。応援はあっても、『工夫して頑張ってくださいね!』という、いかにも対岸の火事の立場から聞こえのいいことを言ったに過ぎない空疎な応援ばかり。言われた方の現実がどんなにたいへんか、想像がつくだろうか? 


 上記の意見には、正しいと錯覚される要素がいくつもあるのがずるい。


●法は犯してない。すべて合法なので、その範囲で人は自由にする権利がある。


●問題が起きた時、それを他人や社会のせいにするのではなく、自分が何をできるのか考えるのが人としての良い姿勢である。また、WhyではなくHowを問え・できない理由を探すな(最初からムリだとあきらめるな)というのも、自己啓発的には正解とされる。


●弱者にも問題がある。もしかしたら、大型商業施設に文句を言うばかりで、自分たちの生き残りを懸けた創意工夫や必要な努力を怠ってはいない? そこを甘えて被害者面するのはどうなのかな、と商店街側の姿勢自体を問う。


 大昔の日本のアニメ作品で、『樫の木モック』というものがある。
 海外の名作『ピノキオ』のパクリである。似た作品にピコリーノの冒険というやつもあった気がするが、意味が分かるのは結構お歳の方だろう!
 そのエピソードの中で残酷な話があった。
 ある、身寄りのない子たちを世話する施設を運営する男が、やっとの思いでお金を貯めて、子どもたちが暮らせる家を買いに来る。売る側も、よかったですねぇなどと声をかけ、手続きに入ろうとする。
 そこへ、何かの成功でにわかお金持ちになったモックがでかい態度で乗り込んできて、言う。『僕ならその3倍払うよ』
 すると、売る側の態度が豹変し、モック様様~という大歓迎ぶりになり、定価で買おうとした施設の男は無視される格好に。
 大豪邸が建ち、家来やうちわであおぐ女もはべらせていい気になるモック。家を買えなかった施設の男は、なんとしても子どもたちのために土地を譲ってほしいと訴えたくてモックの家の門前で取次ぎを求める。
 家来から「こんな男が面会を求めていますがどうなさいますか」と聞かれ、「そんなやつ追い返してしまえ!」と取りつくしまもない。で、施設の男は帰れ!とばかりに背中を蹴っ飛ばされ泣く泣く帰ることに。
 今の話は、先のIKEAの話に似ていないだろうか。


●法的には何も問題がないから建つ。どうやこうや誰が言ったところで一切関係なく、粛々と遂行される。


●資本主義社会とはそういうものである。より利益が出るならそちらを取るのは責められることではなく当たり前で、なんら間違った商売姿勢ではない。金を出す人物がいい人か悪い人かなど関係がなく、目的の崇高さや買う側の人生背景などもどうでもよい。

 


 モックは、家を買えなかった男のことをよくは知らないし、家のない子どもたちの顔や気持ちも見えない。全国で大型商業施設を建てた資本家はたくさんいるだろうが、おそらくその誰もその土地を自分の足で歩き、仕事関係なく話して回り事情を知ろうとした人物はいないであろう。せいぜい形だけの住民説明会を行い、怒号が飛んでも「自分は法的に何も問題ない」という涼しい顔で退場しただけのことだろう。
 いちいちそんなことをして事情を汲んでいたら、大型デパートなんて一軒も建てられないぞ! という意見もあるだろう。もちろん一理あるが、せめて「地元と共にwin-winの関係を模索する」という姿勢はあってもいいと思うのだ。儲けだけを考えたら、施設内の全店舗をそれなりに有名で規模の大きいお店で埋めればいいことだが、ある程度地元と協議して、双方の良さが維持され客の行き来も生じる工夫をしてもいいのではないか。いくつかのコーナーは地元商店街に提供してもいい。
 でもこの社会は、利益追求型なんで! こんなことを言っても鼻で笑われるだけだろう。


●いじめられる側にも問題はある、論。

 


 悔しければ、モック以上のカネを用意すればいい。それが自由競争社会だ。
 世界は、そのための努力はできる場所だ。泣き言を言う前に、可能性を試し尽くせ。けっしてあきらめるな。あきらめたらその時点で試合終了。
 自分が成功できないのを(貧乏なのを)社会のせいにするな。ホームレスから一念発起して社長になった人の本だって売れているくらいだ。その人にできてあなたにできない、って誰が決めたの?


 筆者は最近書いたブログ記事の中で、エクソシストというホラー映画の中での言葉を紹介した。『悪魔は、分かりやすいまったくのウソはつかない。悪魔は99%の真実に1%のウソを混ぜてこちらを混乱させてくる』。
 今回のニュースでIKEAが建つことを問題視するのはお門違い、商店街側はひとのせいにせず自助努力せよというのは正しい。正しいが他人事であり、そこには血が通っていない。99%正しいが、残り1%の人のエゴがすべて破壊する。
 筆者は、人間にはすべからく『最低限生存を脅かされない権利』があると思っている。ベーシックインカムも推進派だ。怠けるとか弱者がつけあがるとか、筆者にしたらなんでそんな考え方ができるんだろう? と不思議なくらいである。


●筆者は、日々の糧を得て人が普通に生きるのに適した労働量というのがあると思っている。もちろん、その人の能力や意欲・実績や世間の期待などで個人差というものは当然ある。
 しかし、「工夫とやらをしなければ生きてすらいられない」という状況はどうなんだろう? と思う。大型商業施設に負けてしまうとかいうとらえ方をしないで生き残る努力・創意工夫をせよとの意見だが、私は逆に「やること普通にやってて、それで不十分だと責められる世界は健全ではないと思っている」。



 そりゃ、昔ながらの商店街の主人のジジババたちは、普通に仕入れて普通にらっしゃいと売っているだけだろう。そりゃ、仕入れる商品の選定やディスプレイの仕方、クーポンやスタンプカード・電子マネーやクレジットとの連携などやれることはあるだろう。たとえ創意工夫がまだ足りないとは言っても、基本的な労働というものができていて、それ以上に責められる世界は地獄と言っていい。
 この世界はどこまで行っても、できている人間・腹の痛まない人間がそうでない人間の足りなさを嘆き、ここまで這い上がってこい(できないのは言い訳。現に自分はできたから今がある)という感じである。
 頭の固い成功者には多いタイプだが、自分は過去何も助けがない中全部自分でやってきたのに、弱者が『何もしないくせに、自分が乗り越えたことをそうやすやすと助けてもらえるなんて』という腹立たしさも、気付かないだけで意識の底にあるのかもしれない。
 人の間と書いて人間なのに、どうも我々が決めた法とか主義とかいうものは、細かい部分で血を通わなくさせることが得意なようだ。富裕層と貧民との二極化、分断ではなくもっと助け合いの方向へ向かうべきである。