スピリチュアルのイメージはなぜこうも悪い? | Eye of the God ~神の眼~

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現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 安倍元首相銃撃の事件の興奮冷めやらぬ間に、その裏で取り沙汰されているのが安倍氏の妻・昭恵夫人の動向である。
 昔から奔放なキャラとして世を騒がせてきた昭恵夫人であるが、一方でスピリチュアルへの傾倒も指摘されてきた。筆者は、今思い出すだけでも『スピリチュアルへの傾倒』を報じられた有名人が3人いる。一人は今言った昭恵夫人、二人目は元アナウンサーの小林麻耶、三人目は息子が偉大過ぎて控えた報じられ方しかしないが、木村拓哉の母親。


 不思議なことなんだが、どの報道を見ても「良いことだね」という肯定する書かれ方をしている記事はひとつもない。そもそも「傾倒」という言葉を使う時点で、記者は「悪いものに引っ掛かった」と考えていることは明らかだからである。
 あれ? スピリチュアルって目に見えないものを大事にし、心の安定と平安を求め、自他ともに幸せになる道を模索するものではなかったの?
 もしその定義通りなら、なぜ世間の人は「まるで悪いものにでも捕まったかのような視線で」見てくるのか。ご愁傷様、って感じで心の中で手を合わせるのか。


●世間一般の人に、スピリチュアルはその定義通りの活動をするところとして認められてない現実を、スピリチュアル民は再確認すべし!


 人というものはズルいもので、自分ではできないことを他者に要求してくる生き物である。普通、人は生きるために働かねばならない。金儲けをしないと(刑務所に入っていたり生活保護を受けていない限りは)命すら保てない。
 宗教だってスピリチュアルだって、もちろんその業界人はカネを得ないといけない。でも俗人の一般人はこう考える。「聖なる世界で金儲けはいかがなものか」と。
 宗教やスピリチュアルで儲けると、世間が悪く言うのだ。こちらとて、それで食っていかないといけない人もいるのに! でも筆者は、自分がカネを稼いでいるのにこちらが自分の得意とするカテゴリーで金を稼ぐと悪く言われてしまう、というのはノンスピリチュアルな人々のせいばかりでもない気がしてきている。


●ここ十年ほどのスピリチュアルは、ちょっと調子に乗りすぎた。


 心の安定・瞑想・悟り。自分と自分を取り巻く小さな世界の小さな幸せ。
 その控えめなところで収まっておれば、世間の眼ももう少し暖かかった。
 一体、どこでスピリチュアル界は進むべき道を誤ったのか。


【これでスピリチュアルは悪名を高くしていった!】


その①「有名人へのミーハーな関与」



 前述の昭恵夫人は気さくな人間で、呼ばれればどこへでも顔を出すのでスピリチュアル関係の友人にはたいへん喜ばれていたそうだ。
 スピリチュアル指導者に問いたいが、スピリチュアルを人に伝えるってどういうことだと思っている? その流儀の継承を、情報の伝達をどういうことだと思っている? 昭恵夫人は有名人である。彼女がいることの宣伝効果は高いが、私は「そうしてまで広く知らしめないといけないのが、そもそもスピリチュアルというものなのだろうか?」という疑問を強く持つ。
 結局お金でしょ? と思われても仕方がないでしょう。かつて、道端ジェシカというモデルが引き寄せの実践者だということで、彼女を著者にした引き寄せの本を出版している。幸せを引き寄せるプロだと自認するからそんな本が他人向けに書けるんだろうが、皮肉なことに彼女はその後、結婚して間もないのにもう離婚という事態を「引き寄せ」、妹アンジェリカもたいへんな目に遭った。
 安易に「有名人」→「スピリチュアル好きを公言」→「オカネ出してでも表に出てもらったら、結果スピリチュアルに人気が集まるのでは?」という皮算用はしないほうがいい。現実、ジェシカは後に幸せの引き寄せの先生としての地位は落ちたようなものだ。
 たとえばだが、悟りで名高い高僧が「弟子にしてください」と命がけで懇願する男たちを断り続けたあとで、目を見張る美女が「先生の悟りの話を聞きたいですわ」と来たのをどうぞどうぞと部屋に引き入れたらどう思うだろう?
 スピリチュアルの指導者は、一般人に対する目線と「有名人」に対する目線は使い分けているらしい。後者には、情熱とか理解度とか姿勢を問わないもののようだ。
 昭恵夫人がどれだけの深度でスピリチュアルを理解しているのか不明だが、多分関わっているスピリチュアル友人はそんなことどうでもいいはずだ。彼女は広告塔としての利用価値しかまず考えてないから!


その②「自信ありすぎな法外な報酬額」


 細木数子や江原啓之、美輪明宏が話題となる時期から、そういうスピリチュアルな有名人の態度がデカくなった。細木は加減を誤って失敗したが、江原氏や美輪氏はその匙加減が絶妙で、スピリチュアルの看板は掲げ続けていても息長く活動されている。ちゃんと身の程をわきまえているからだ。
 オセロ中島と占い師との関係が報じられたのも、この頃ではなかったか。芸能人は浮き沈みの激しい世界だから、人によってはスピリチュアルにすがる人も出てくるのは分かる。ただ、それに付け込んで「先生」と言われる人間がちょっと自分はすごい人間だと勘違いしてしまった部分がある。
 小林麻耶のスピリチュアル夫の「宇宙マッサージ」も確か結構しましたよ? この時期からスピリチュアルなセッションとしての相場額が上がったのは、「名は体を表す」という言葉を都合よく解釈してしまったことによる。


●セッション料が安い → その安いなりの内容だと思われてしまう
●セッション料がバカ高い → 客は限られてくるが、そのたった数人の太客が来続けてくれさえすれば、十分儲かる。払えるリッチな客には、「高いが、それだけの価値があるのだろうな」と思ってもらえる効果がある。



 スピリチュアル指導者はむしろ、すべての人なんか救いたくないのだ。
 安くして、たくさんの人が押し寄せてみ? 薄利多売、吉野家の牛丼か駅前の立ち食いソバみたいに、数をやらないと稼げない。でも、「こんなのにこんな高額、誰が払うんだ?」と普通なら思う者でも、ハマる人はハマってくれ、スピリチュアル指導者にしたらそんな少数の太客さえ維持できるなら願ったりかなったり!
 そんなスピリチュアルでメシを食う側のホンネが、一般人にはすけて見えるのかもしれない。


その③「引き寄せ」と「ユダヤ人大富豪の教え」(笑)のせい?


 ここ十数年ほどのスピリチュアルの動向を考えてみると、大昔(たとえば昭和の時代)に比べて、変わってきた考え方の根幹がある。


●昔→ ボロは着てても、ココロは錦。清貧という言葉が大事にされ、聖職者は大金をもつべきではない(もつと、初心からズレていく)


●今→ スピリチュアルでも、経済的に豊かになるのは良いことであり、むしろそのスピリチュアリティが本物であるあかしともなる。心の豊かさと経済的豊かさは連動し、決して矛盾しない。



 いろんなスピリチュアルの指導者を見ていると、世の中の活動における実績を分かりやすくアピールし、それに「スゲー」と脱帽した、自分もそうなりたいファンたちが(まずそうはならないんだが)誘蛾灯のように集まってくる。
 フェイスブックでは上限の五千人の友人、YouTubeやツイッターでも芸能人並の登録者数を誇るスピリチュアル指導者もいる。もはや業界内では、儲かっていることこそ本物の証しであり、もっと、もっと引き寄せるぞ~! みたくイケイケドンドンみたいに「幸せになり合戦・もうけ合戦」が繰り広げられている。
 そりゃ、外野から見たら誤解もしますわ。スピリチュアル知らない人は、「最近は経済的豊かさも心の豊かさと連動しているんで、否定しない」んだなんて分からない。だた、「こいつらガメてるな」としか見えない。
 だから、もう少し世の中に必要なメッセージをスピ側はアピールしていかないと。芸能人でも会社でも業界でも、何か批判的な世間の声が上がったら「声明」を出したり、公式に見解を述べたり、必要だったら記者会見をして謝罪したり弁明したりするよね。そこへ行くと、スピリチュアル業界って何やってるんだろう、ってあきれる。今までに一度でも、スピリチュアル業界全体として世の中に何か弁解したことあった?


 スピリチュアルという世界が、そこでちゃんと学んでいない人間にとって「奇異な世界」であり「ちょっとヤバイ」ように思われている傾向にある事実は否定しようがない。スピリチュル好き、とは書いてもらえず報道では必ず「傾倒」という言葉を使われてしまうんだから。
 だから、皆これからの時代心してほしい。本当に大事なことは何なのか考えよう。
 有名人の知名度の威光に媚びを売るのも、ちょっと考えものだ。スピリチュアル業界は今一度、昭恵夫人・小林夫妻・キムタク母とどのような距離感で付き合っていくのがいいか考え直すべき。今のまま手放しで大歓迎(だって宣伝になるし!)では、必ず両者とも穴に落ちる。