オリンピック競技会が終わって,10日を過ぎました。そして,パラリンピック競技会まで5日ほどになったここで,一度私なりの見立てを記しておこうと思います。

 

昨年来より続いている新型コロナウイルス感染症は依然衰えるところを知らず,むしろ変異型によって,悲観的な先行きを予感させます。そのような中で(一度延期されたとはいえ)開催された本大会は,パンデミックとの関係で,これまでの大会以上にその開催に否定的な見解が多く出されていることは周知のとおりです。そして同時に,出場する選手を含む開催関係者から何度も口にされた「勇気/感動を与えたい」という言葉は,私には,今になって意味の不明瞭な言葉のように見えてきました。

この言葉自体は,かつてより,国際大会や世界大会などでも用いられてきたものであり,その意味で突然降って湧いたかのような言葉ではありません。言い換えれば,さほど「深刻に」受け止められてこなかった言葉だといえます。

 

ですが,とりわけスポーツ競技が与える「勇気」なり「感動」とは何なのでしょうか? 自国代表が優勝なり,勝利なりをしたことなのだとすれば,それは「勇気」や「感動」ではなく,「勝利の快感」なのであり,情動内容が異なります(もし,これをイコールで結んでいる人がいるのならば,それはまた別のいくつかの問題を引き起こします)。

「勇気」や「感動」をもたらすものの多くは,いわゆる「感情移入(これについてはまた別稿を起こす予定です)」の可能な,フィクションでありましょう。もしこの「感情移入」に要点があるのだとしたら,観覧者側が選手に「感情移入」していることになります。しかし,これは,双方から見て不可思議な状態です。

観覧者が選手に感情移入できるということは,選手の置かれた状態と自身の状態を重ねることができているということのはずです。しかし,フィクションを初めから見るのと違い,我々は当該選手の「文脈」を持ち得ていません。となれば,その試合の瞬間だけを重ねることになりますが,当該競技を行ったことがない者にとっては,当該競技の困難を真に理解することは不可能です。だとすれば,残されているのは,「勝利した」というその部分のみでしょう。しかし,これは,多分に「制圧の快感」と同様なのであって,「実力が拮抗したものに打ち勝ったこと」を前提とする,「自身が他者を制圧する可能性の獲得」でしかないのではないかと思われます。いずれにせよ,何か困難なものへのチャレンジ意欲の惹起や,そのチャレンジから生まれる人間的な葛藤のようなものは,容易には看取し得ないのではないかと思われるのです。

他方で,選手側がこれを言うことにもやはり違和感があります。それは,上記からも明らかなように,人々は選手に「感情移入」できると安易に考えているのではないかという疑念があるからです。国際競技会の選手というのは,極めて特殊な環境に置かれています。いろんな物的・人的支援を受け,まさにある種の「優良商品」として置かれている面があります。しかし,多くの人々は,「優良商品」として様々な充実した支援を受けられる地位にはありません。明らかに選手とそうでない多くの市民には圧倒的な差があります。それを無視するのは妥当ではなく,もし選手を見て「何かにチャレンジしよう」としたところで,多くはその土俵にすら立てないのです。「やればできる」というのは,同じ(環境)条件下でしか成り立ち得ません。それこそ,100メートル走のはずなのに,実はスタート地点が違うようなものです。そもそも多くの人たちは,ストイックに自身を高めようとしてなどいません。それを望む人などほとんどいないはずです。

 

所詮,いかなる国際競技会も観客からは「娯楽」を超えるものではないのです。そこに出場する者がどのような経緯を辿ろうが,「舞台の上の演者」という地位から自由になることなどありません。であれば,演者は演者として,「演技」以外の「表現」は不要とすら言えます。もし,「勇気/感動を与える」という表現が「台本」の中にあるのならば,それは「台本」が下手であるといわざるを得ないように思われます。


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