どうもサボり気味でよくないなと思いつつ。

 

最近,たまに見かけるようになった概念に,愚かな言動や選択をする権利という「愚行権」というものがあります。少し前には,自民党の経済政策のブレーンである竹中平蔵慶応義塾大学名誉教授が「みなさん(若い人)には貧しくなる自由がある……貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と述べたことがあり(竹中平蔵(聞き手・佐々木紀彦)「リーダーは若者から生まれる(下)」(東洋経済オンライン2012年11月30日)),このことが波紋を呼んだこともあります。これも一種の「愚行権」の発想でしょう。しかし,この「愚行権」なるものは必ずしも法学的な概念ではなく,実際,国立国会図書館サーチで「愚行権」をキーワードにしてみても,本稿執筆時現在では,法学の論文は見当たりません。では,「愚行権」なるものは,「在る」のでしょうか?

 

愚行権なるものを人権や人格権のレベルで捉えることが可能かというと,それは困難でしょう。そもそも,人権にせよ人格権にせよ,「人間らしい善き生」というものを目指して構築されているのであり,その反対の生き方を保障するということは考えられていません(だからこそ,刑法202条の自殺関与罪や消費者法制のようなリーガルパターナリズムが肯定できるのです)。

では,「愚行」をはたらこうとする者に,無制約に国家は干渉できるのかというと,そうではないといわざるを得ません。それは,「権利」というものの理解に関わります。もともと,権利は,その前提に「選択」がなければなりません。つまり,権利行使をするかどうかを選べなければ,そもそも権利とは呼べないのです(拙稿「自由と効率」参照)。したがって,「選べること」自体が権利である以上,選んだ「結果」の当否等については,「権利」は関知しません。したがって,権利行使の「結果」が,他者から見れば「愚かな結果」になってしまうこともあり得るし,時には権利行使をしたもの自身ですら愚かな結果だったと振り返ることもあるでしょう。そうだとすれば,権利行使それ自体が,往々にして,「愚行」的結果をもたらすことはあり得るのです。それを「結果」ないしその予測の観点から「愚行」だとして介入を図ることは,権利行使それ自体の否定になりかねない場面があるのです。

 

このような理解に基づけば,「愚行権」という概念は不要です。人は「愚かなことをしよう」として「愚かなこと」をするのではないはずです。その時の自身の利益状況を自身の指針で計算し,自己の幸福を目指してなされます。その結果が一瞬たりとも幸福をもたらなさかったとしても,「選べる」という,権利行使の前提自体を否定すべきではありません。他方で,自殺の自由は認められないと考える立場があるように,真にただただ「愚行」を選ぼうとする場合には,リーガルパターナリズムを発動させる余地はあります(例えば,前掲の刑法202条の自殺関与罪)。それは,自覚的な愚行は,権利行使者の一瞬の幸福にすら資さないため,その選択が法的保護に値しないからです。ただ,そのような場面は極めて限定されていると理解せざるを得ないでしょう。


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