先日、千葉雅也ほか『ライティングの哲学』(星海社)を購入し、少しずつ読み進めたところです。

 

法律家は、実務家、理論家(そして、学生)を問わず、「書く」ことを運命づけられています。とりわけ学生の間の「答案」などは、書く内容が限定されていて、書くことそれ自体に「苦しみ」を伴うことは、あまりないようにも思われます。

しかし、そこを「越え」たとき、そしてさしたる「ゴール」も与えられることなく、「書く」ことを求められるようになった時、そこには寂寥とした砂漠が広がっているような感覚に陥ります。

 

その砂漠を渡ろうとした時、足が竦みそうになるのは、やはりいくつかの「呪い」を受けているからであるように思われます。典型的には、「初めて公表したものが最も大事である」というのがあるでしょうか。他にも、「いいものであれば、必ず評価される」といったこともそれにあたるのかもしれません。これは、発破であるのかもしれませんが、やはり一種の呪いだとも思われるのです。

 

「呪い」が呪いとして機能するためには、やはり、それが受け手にとって何らかの理由(例えば、尊敬している人から言われたとか、こわい思いをしたとか、尊厳を傷つけられたなど)で、拭いがたい――忘れようにも(忘れていたと思っていても)思い出されてしまう――ものとなっているからでしょう。そう考えると、どこかで「言霊」なるものを感じざるを得ない面もあるように思われます。

 

問題は、この「呪い」を解くことができるのか、です。この「呪い」というものは、「コンプレックス」に似て、それもまた自身の人格になってはいないか(拙稿「もう一人の自分と向き合う」参照)という疑問があるのです。そうだとすれば、「解呪」は決して容易ではなく、時には人格上の大きな変革を伴うことすらあるかもしれません。

そうであるからこそ、また自分の発した何事かもまた「呪い」と化しているかもしれず、またここでも無限回廊にはまってしまっています。


人気ブログランキング