少しずつリハビリを兼ねて、割合書きやすいものを提供したいと思います。

 

法の解釈というものは「難しい」ものです。それは解釈手法の多様性にも由来していますし、そもそも「(条文や判例といった)テクストを解釈する」だけでなく、「社会的事実を解釈する」という問題もあり、かなり複線化するからです(概要について、拙稿「法律の読み方」及び「カップ焼きそばで学ぶ法解釈の手法」参照)。

(実体)刑法の解釈は、その中でも、入門書をはじめとしていろいろな文献等にその特殊性が示されています。その最たるものが、「罪刑法定主義」で、条文に規定のない犯罪を根拠とした処罰や、条文に規定のない刑罰を許さないという原則です(詳細は、拙稿「罪刑法定主義の意義」参照)。そこから、類推解釈と呼ばれる手法が禁じられるといったことが説明されるのですが、実は、この罪刑法定主義とは別の次元で刑法解釈には特殊性があります。

 

現在の刑法理論では、行為者(犯人)の内心の在り様のみををもって処罰することを否定しています(これが、思想処罰の禁止とか、行為主義と呼ばれます)。実は、このことが、刑法の解釈に強い影響を与えています。

典型的には、次の事例です。すなわち、XがVを殺害する目的で、毒入りのウイスキーを戸棚に隠し、後日自らVに提供しようと考えていたところ、Vが自ら当該ウイスキーを発見し、自ら飲酒したところ、当該ウイスキーに含まれた毒物によって死亡した場合です。この事案で「殺人罪」が成立すると考える人は多いと思いますが、刑法学では、この事案は、「殺人予備」+「過失致死」という扱いがされます。つまり、殺人罪は成立しません。それは、「毒入りウイスキーを用意し(て隠し)た」ことは「殺人行為」ではないと理解されているからです。つまり、「殺すつもりがあって、実際に(狙ったとおりの死因で)被害者が死亡した」としても、それだけでは「殺人」にならず、きちんと「殺人行為」(実行行為といいます)があったこともまた必要なのです(ちなみに、実行行為は、犯罪結果を発生させる現実的危険を有した行為とされ、毒入りウイスキーを隠す行為は、この「殺人結果を発生させる現実的危険」がないと理解されています)。

 

通常、解釈は、その文脈的理解を中心に据えます。しかし、上記の例から明らかなように、刑法の場合には、社会現象として広く「文脈」を把握するのではなく、「行為と結果を中心にして『切り取る』」ことをします。その結果、「文脈」がむしろ「失われる」ことを是としているのです。

もっとも、このことは、犯罪の成立を肯定する方向であり、犯罪を否定する場面では、さらにその外側を「文脈」に取り込むため、把握すべき事実関係は「拡張」されていきます。言い換えれば、思考力学的に、犯罪肯定の方向は収縮させ、犯罪否定の方向は拡張させるということになるわけです。このことによって、「行為を処罰し、人格や思想を処罰しない」という命題を守っているといえます。

 

このような「狭く切り取る」という作業は、特に民事法の世界では見られません。民事法では、法律行為(とそこから生じる法律効果)が1つの「果実」として理解されているように見受けられるところ、どうしても「どうしてそうなったのか」を意識せざるを得ません。このようなところにも、「法分野」の解釈の違いが滲んでいて、よくよく見てみると、好奇心をそそられます。

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