伝統的に、法益(法律上保護されるべき利益)には、生命、身体、自由、財産に加え、名誉が含まれてきました(例えば、刑法230条及び同222条の加害内容参照)。しかし、現代を生きる我々にとって、名誉の法益性は、必ずしも直感的に把握できるものではないかもしれません。それは、名誉概念それ自体に内在している問題に加え、現代社会の価値観によるところでもあるように思われます。

 

名誉の概念は、法律上は、外部的名誉または事実(社会)的名誉といわれるように、社会の人々がある個人をどのように見ているかという面で考えられています。そのため、偽りの名誉である「虚名」も保護対象になります(以上、拙稿「名誉毀損の基礎Ⅰ」参照)。

この「虚名が保護対象になる」ということを直ちに腑に落ちるものとして受け止められる人は多くはないのではないでしょうか。その背景には、ある意味でのナイーブな「正直であるべし」との倫理観があるのかもしれません。しかし、名誉概念は、もともとは、騎士をはじめとする諸身分者が持つ「地位」や「身分」を示すものであり、今でいうところの「メンツ」に近いものがありました。その意味で、「名誉の侵害」とは、「社会的地位の侵害」であったわけです。だからこそ、それが虚名であったとしても、そのことに基づいた社会的地位が確立しているのなら、その社会的地位を支えている名誉を保持しておかなければならない、と考えられてきたのです。

 

他方で、このような理解は、現代社会に生きる人々には把握しきれないところがあるように思われます。それは、現代社会が「価値多元主義」及び「情報過多の社会」であることを前提に、その人にどのような名誉があるのかということに必ずしも意が払われていないように見えるところに由来しているように思われます。つまり、人の価値というものは一律に捉えられないだけではなく、安易なジャッジは避けるべきものであり、あえて「名誉」という言葉で表現されるような「社会的地位の強制」は、時に、その人の価値を否定するものになりかねないということに加え、様々な情報が存在することで、情報の取捨選択自体に困難が生じ、むしろその人の社会的地位を推し量ることが著しく困難になるという点を考慮する必要があるように思われるのです。

このような理解からは、したがって、その人の価値は、第三者がどうこうできるものではないという理解日長りやすくなり、「名誉」の価値把握を困難にさせます。

 

そうはいっても、現在のほとんどの人は、(ある限界づけられた社会とはいえども)社会の中で円満な生活をしているはずです。そして、そのような円満な生活には、「(少ない範囲とはいえ)あの人はこういう人だ」という評価が基になっていることは少なくありません。そのような評価が脅かされるということは、翻って、そのような社会生活が営めなくなる危険が生じるということでもあるのです。その意味で、現代における名誉は、「円満な社会生活を送るための、属人的な諸情報の集合体」として実態把握をするのがよいように思われます。

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