夢の傑作映画館・高島与一

ドラマ・映画のシナリオ、ルポ、ドキュメンタリー、構成台本、小説、エッセーなどの執筆とドラマ論、脚本指導

『はだしのゲン』への見る自由の制限

2013-08-23 05:56:07 | 教育問題


『はだしのゲン』への見る自由の制限は、以下の件と基本的には同様の発想です。


【以下、加筆転載】


みなさま    高島与一

8月3日、「ちょっと待って!放射能ガレキ 関西ネット」で紙芝居『雲からさす光』の披露をした日に、さっそくある場所で紙芝居の上演に行って来ました。

この作品は、福島県の女の子が原発震災以降、体調が悪くなり大阪へ母子避難するが、そこで被災地ガレキ焼却に遭遇し、さらに沖縄へ再避難を余儀なくされるというストーリーで、被災者支援、原発反対、放射能汚染反対を訴えているもの。

そこで、ある方から「子どもに不安を与えるような紙芝居はダメ」という主旨の全面否定に遭遇しました。

批評なら議論できますが、全面否定には、その場で対応する気がしなかったので、スルーし、また会う機会があれば、紙芝居・絵本を含めた児童文学論について冷静に話し合おうと考えました。

同じ様な意見としては、「子どもには残酷すぎる」と言ったものなどが多いです。

この種の意見は、幼児教育者、教育者、公序良俗タイプ「PTA」的ママなどから、よく発言されます。その結果、児童文学において自主規制がなされる場合もあります。

『子どもとファンタジー』(新曜社)から以下引用してみます。

C・S・ルイス(1979)が「子どもの本の書き方三つ」という評論のなかで、児童文学のよくない書き方の一つとして、自分の生まれてきた世界には死や暴力や負傷や冒険、英雄的行為や卑怯さ、美や悪が併存するのだということを子どもに知らせてはいけない、という見解に基づくものを挙げている。……中略……一方の大人は与えたくないと言い、もう一方の大人は与えたいと言う。両者の意見は一見対照的であるが、そこには共通した点がある。前者は想像や創造のための素材を子どもたちから奪い、後者は想像や創造のための自由を奪うというやり方で、両者とも大人の考える理想やモラルを押しつける結果になっているという点である。大人は読者としての子どもたちを保護するかと思えば逆に偶像視する。そうではなく、子どもたちに対等な相手として話しかける物語が必要である。大人は、つい、子どもたちのためになることをしたいと考えがちだが、これが具体化できるとしたら、それは子どもたちに教えることができるのは自分たちだという思い上がりを大人が捨てたときだろう。
ルイスがわざわざこうした忠告をしなければならなかったということは、世の大人たちのこのような「教育的」配慮が洋の東西を問わずけっして珍しくないことを物語っているといえよう。(引用以上)

沖縄戦を素材にした絵本に、『ぼくとガジュマル』(下嶋哲朗・童心社)があります。主人公の「そういち」と母は、ガマの中で米軍の爆撃で崩れた大岩の下敷きになって死んでしまいます。

『ジャンボコッコの伝記』(さねとうあきら)では、小学生たちが学校で飼育して可愛がっていた大きなオスの鶏が野犬に殺された時、どうしたか? クラスのみんなは、ジャンボのお墓を作ってやろうとの奇麗事を乗り越え、愛したジャンボを一人ひとりの血肉にしようと、ジャンボを料理して泣きながら食べるのです。

昔噺の「かちかち山」は、最後の方で、お婆さんを「婆汁(ばばじる)」にして食べてしまうというストーリーが伝えられていたそうです。多分、現在出版されているモノでは、そういう箇所は削除されているはずです。こういう噺が、昔から囲炉裏端でお爺やお婆によって子どもたちに語られて来ました。

子どもたちは、おおいに喜び、同時に人間を含む生き物の「生きることの残酷さ」を学んだのでしょう。

スーパーで売っているパックの食肉や魚の切り身しか見たことのない子どもたちに、生きるということは、生物を殺して食料にしているのだという現実をどうやって伝えるのでしょう。ただそのことを理屈で言ってみても、生きることの重みが感性に伝わるでしょうか。

児童文学には、そのような役割の一端を担う機能も有していると考えます。

もちろん、命の大切さを伝えるために、戦争反対、原水爆・原発反対をテーマにした作品は貴重です。これらの存在が残酷なものであることを具体的に表現として伝えずに、「平和を愛しましょう」なんて抽象的に確認したところで、何の力にもなりません。