特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

親心 子心

2022-05-19 07:00:30 | 腐乱死体
五月に入り、梅雨のような日や、寒暖差が激しい日が続いたが、ここにきて、やっと、この時季らしい陽気に恵まれるようになってきた。
次の波が来ないとも限らないが、幾度となく社会と人々を苦しめてきたコロナも派手な動きを見せないようになってきている。
マスク着用の要否も議論され始めている中、先日の11日、私も、ワクチン三回目を接種してきた。
自宅近くの病院で、結局、三回ともすべてファイザー。
「今日は激しい運動は控えて下さい」と看護師から言われたが、残念ながら、夜になっても、一緒に“激しい運動”をしてくれる相手はおらず、いつも通り、おとなしく酒を飲んで就寝。
何はともあれ、三回とも、副反応は腕(肩)の痛みのみで、倦怠感も発熱もなく、仕事にも影響なく済んで助かった。

高齢の両親も、幸い、コロナに感染することなく今日に至っており、しばらく前に三回目の接種も終えている。
しかし、すんなり受け入れた父とは違い、当初、母は、得体の知れないワクチンを打つことに難色を示していた。
母は、肺癌と糖尿病、基礎疾患の中でも「コロナにかかると最も危ない」とされる病気をWで患っているわけで、おまけに高齢ときている。
したがって、大多数の専門家と同様、私は、「ワクチンを打つリスクより、打たないデメリットの方がはるかに大きい」と判断した。

それで、その辺のところを幾度となく説明。
脅して強制するつもりは毛頭なかったが、
「その身体でコロナにかかったら命はないよ!」
「“打たない”という選択肢はあり得ない!」
「自分のためだけじゃないよ!」
と、接種を強くすすめた。
かつて、よくやらかしていた親子喧嘩にならないよう気をつけながら。
すると、私が本気で心配していることが通じたのか、しばらくして、母は、やっと承諾。
同地域同年代の人には遅れをとったものの、無事にワクチンを接種することができ、ひとまず、安心することができたのだった。



訪れた現場は、古い賃貸マンションの一室。
間取りは、今では少なくなってきた和室二間と台所の2DK。
その一方の和室で、暮らしていた高齢女性が死去。
「ありがち」とはおかしな表現かもしれないが、ここまでは“ありがち”な孤独死。
しかし、ここからが、あまりないケース。
故人は、亡くなってから半年余り経過して発見されたのだった。

半年も放置されると、当然、遺体は、それなりに腐敗。
ただ、気温が下がり始める秋に亡くなり、上り始める春に発見されたわけで、山場は、低温・乾燥期の冬。
畳には、人のカタチが残留し、頭があったと思われる部分には、白髪まじりの頭髪が大量に残留していたものの、それでも、その汚染は軽症。
また、異臭は発生していたが、「外にまでプンプン臭う」といったほどでもなし。
ウジ・ハエの発生もほとんどなし。
おそらく、その身体は、「腐敗溶解」という過程ではなく、「乾燥収縮」という過程を踏んで傷んでいったものと思われた。

家賃も水道光熱費も、銀行口座からの自動引き落としになっていたのだろう。
そして、同じマンションで親しく付き合っている人もいなければ、わざわざ訪ねてくる人もいなかったのだろう。
また、無職の年金生活者であって、社会との関りも希薄だったのだろう。
高齢につき、ネット通販を利用するようなこともなかったか。
ただ、故人は、天涯孤独な身の上ではなく、息子とその家族がいた。
それを考えると、「半年」という時間は、決して、短い月日ではなく、私には、長すぎるように思えた。

依頼者は、その息子(以後「男性」)。
母親の孤独死したことを半年も気づかずにいたことに罪悪感みたいな想いを抱いているようで、気マズそうにしながら、
「家族の恥をさらすようですが・・・」
と前置きし、発見までの経緯を話してくれた。

男性宅は、もともと男性の両親が建てたもので、現場とは駅の反対側、現場からそう遠くない距離にあった。
そして、数年前まで、男性家族と故人は、一つ屋根の下で同居していた。
ただ、家族といえども、一人一人の人間であり、人間関係に多少のギクシャクがあっても不自然なことではない。
また、「どっちが正しい」とか「どっちが悪い」とかいう問題ではなく、人には「相性」ってものがある。
相性が合わない同士は、どうしたって合わない。
ただ、生計を一にする家族である以上、相性がどうのこうのとワガママは言えない。
お互い、ある程度は、尊重と我慢をしなくては生活が成り立たない。
しかし、それにも限界があるわけで、限界を超えてしまうと、その生活は保てなくなる。
それを理解していたのだろう、もともと、“一枚岩”の家族ではなかったものの、皆がテキトーなところで折り合いをつけることによって、何とかうまくおさまっていた。

転機となったのは、男性の父親(故人の夫)の死去。
「家族の重石がなくなった」というか「規律を失った」というか、家族関係のバランスをとっていた支柱がなくなったみたいな感じで、それ以降、目に見えない何かが変わっていった。
露骨に変わったのは、嫁(男性の妻)と故人。
それまでは、お互い、抑えるところは抑えて、耐えるべきところは耐えてきたのに・・・
「これからは自分の天下」とまでは思っていなかっただろうけど、それぞれ、自分でも気づかないうちに気持ちが大きくなっていったよう。
その結果、家事の分担、家計費の分担、共用スペースの使い方、食事の好み、生活スタイルやリズム等々、些細なことで二人はぶつかるように。
嫁姑の確執なんて、家族間にありがちな揉め事の代表格なのだが、日を追うごとに、その関係は悪化していった。


ここからは、私の想像も含まれるけど・・・
もともと、自分達夫婦が建てた家にやってきた新参者(嫁)が、年月が経つにつれ、自分より幅を利かせるようになってきた。
「老いては子に従え」とも言うが、老いた者にだって自尊心やプライドはある。
年寄り扱いするだけならまだしも、疎まれ、邪魔者扱いされるのは我慢ならない。
必要のないところでも上下関係をつくりたがるのが人間の悪い性質だったりするのだが、居心地が悪くなってくるばかりか、この家で一緒に生活すること自体が苦痛になり、故人は、別れて暮らすことを思案。
「息子家族を追い出すより自分一人が出ていく方が諸々の影響が少ない」と判断し、結局、自分一人が出ていくことに。
高齢で始める一人暮らしのハードルは低くない中で、それでも意地を通すべく、地元の知り合いをツテに、今回、現場となった部屋を見つけ、そこに移り住んだ。

比較的、中立的な立場にあった男性は、時には妻の味方になり、時には母親の味方になり、何とかうまくやろうとしていたのだろうと思う。
しかし、男性には男性の生活がある。
そしてまた、家族のためだけではなく、自分のために生きていい人生がある。
争い事があまりに多いと、いちいち関与していられない。
また、その種があまりに小さいと、いちいち仲裁に入っていられない。
そんな男性の心情や事情は、充分に察することができた。

事実上のケンカ別れだから、以降、双方、関わり合いになろうとせず。
互いに行き来することはもちろん、電話やメールで連絡を取り合うこともなし。
盆暮れのイベントや誕生日などの記念日もスルー。
他人以上に他人行儀な関係に。
“意地とプライドの戦い”でもあったのか、結局、それは最期まで続き、あまりに変わり果てた姿での再会となってしまったのだった。


「それくらいは私がやります・・・」
と、男性は、台所にあったレジ袋を手に遺体痕の方へ。
そして、遺体頭部の脇にしゃがんで合掌。
それから、そのレジ袋を手袋の代わりにして、腐敗体液と混ざって畳にへばり着いた頭髪を、むしり取るようにベリベリと引き剥がし始めた。
時々、小さな溜め息をこぼしながら。

男性が、何を想いながら故人の遺髪を掴み取っていったのか・・・
供養の気持ち、感謝の気持ち、後悔の気持ち、謝罪の気持ち、色々な想いが交錯していたはずで、それを察するに余りあるものがあり・・・
その作業は、本来、私がやるつもりだったことだが、口出しはせず。
「お母さん、天国で喜んでいると思いますよ」なんて歯の浮くようなセリフは、とても吐けたものではなかったが、まんざらそう思わなくもない中で、私は、男性の後ろから、泣いているかのように震える背中を黙って見ていた。
時々、小さな溜め息をこぼしながら。



人間という生き物の性なのだろうか、小さなことのこだわりが捨てられず、意地になってしまうことってよくある。
自分が不幸になることに気づかず、自らの手で、大切な人を蔑ろにしてしまうことも。
時間が経ち、頭が冷えた頃になって、自分で自分がイヤになるほど悔やんだり、情けなくなったりすることもしばしば。

かく言う私も、これまで、随分と小さなことに引っ掛かり、随分と小さなことにつまずいてきた
それで、随分と親子喧嘩を繰り返してきた。
とりわけ、母親とは、子供の頃から、ほんの数年前まで頻繁にケンカ。
顔を合わせたときにかぎらず、電話で何気ない会話をしているうちにケンカになったことも多々。
長い間、絶交状態になったことも、「もう、一生、会えなくてもかまわない」と、頑なに心を冷たくしたことも一度や二度ではない。
しかし、もう、父は八十五、母は八十になり、この私も、結構な年齢になっている。
「もう、先が短いことが見えている」というか、ここまでくると、小さなことにこだわっている場合じゃない。

今となっては、親不孝を悔いることもしばしば。
両親共働きで、中学から私立の進学校へ。
貧乏しながら行かせてくれた大学でも、車やバイクを乗り回し、酒と女の子との遊びに興じ、勉学より優先して得たバイト代も、親に何か贈るどころか、すべて遊び代に費やしてしまった。
挙句の果てが、社会の底辺を這いずり回るような“死体業”への就職と、不名誉極まりない“特掃隊長”への就任。
こんな親不孝・自分不幸が他にあろうか・・・
あれから三十年経つのに、今でも自分の生活を維持するのが精一杯で、何の恩返しもできていない。
もう、申し訳なさ過ぎて、情けなさ過ぎて、この世にいる価値さえ見失いかけている。
そしてまた、そのことに、いい歳にならないと気づけなかったことが、とても恨めしく感じられている。

父や母に、私がやってあげられることがあるとすれば、孤独死腐乱した場合、誰にも負けないくらいシッカリ掃除することくらい。
冗談じゃなく・・・ホント、ガッカリなことだけど・・・
でも、もし、そうなったら、一生懸命!やろう・・・
異臭と汚れと残留汚物を、涙と汗で流しながら。
そして、この先、自分が死の床についたら、ロクに動かせなくなった身体と、ロクに動かなくなった頭で、病院の天井を見つめながら、最期を悟りながら、できるかぎり想い出そう・・・
父と母が与えてくれた“笑顔の想い出”を、後悔と謝罪に勝る、喜びと感謝の気持ちを抱きながら。

「親の心、子知らず」「子の心、親知らず」
それでも、いくつになっても親は親、子は子。
有限の命にある その愛と絆は無限。
こうなってしまった私の人生は もう仕方がないし、孝行らしい孝行ができるとも思えないけど、頻繁に会えない代わりに、メールや電話は こまめにしようと思っている。
そして、あまり無理をしないで、でも、無理をしてでも長生きしてほしいと思っているのである。



ヒューマンケアでは様々な現場の事例を公開しています。

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