特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

2021-03-16 08:53:51 | 腐乱死体
私には、もうじき79歳になる母親がいる。
50代半ばで糖尿病を発症し、60代半ばで肺癌を罹患、最近では、白内障で眼科にかかっている。
もう13年近く前になるが、癌研有明病院で片方の灰を切除した。
今現在、癌は再発しているものの、その進行スピードは極めて遅く、特段の治療はせず定期健診のみでしのいでいる。
糖尿病も、キチンと自己管理しているおかげで重症化することもなく、以前はインシュリンの注射が必要だったところ、今は、飲み薬だけで血糖値を管理できている。
高齢のうえ二つの大病を患っているにも関わらず、頭も身体もシッカリしており、誰の手を借りることもなく日常生活を送っている。
介護保険のお世話になったこともないし、今のところ、その必要もなさそう。
本当に、ありがたいことである。

そんな母と私は、子供の頃から衝突することが多かった。
性格が似ているのか、真逆なのか、そのせいなのか、これまでやらかしてきた大ゲンカは数知れず。
そのときも私が母を激高させたのだろう、四歳の頃には、脚の骨にヒビが入るくらいの暴行を受けたこともある。
何せ身体が小さいものだから、抵抗らしい抵抗ができず やられっぱなし。
グッタリ動かなくなった私を見て我に返った母は、慌てて私を病院に担ぎ込んだ。
そして、負傷した脚はギプスで固められ、しばらく松葉杖生活を送ったのだった。
しかし、これが今の時代だったら、立派な児童虐待。
で、母は警察に捕まってしまうところだ。

言葉の暴力に至っては日常茶飯事。
とにかく私は、生意気で口答えの多い子供だったようで、母を怒らせるのが大得意。
頭にきた母は、ことある毎に、
「お前なんか産むんじゃなかった!」
「伯父さんの家に養子に出せばよかった!」
「お前みたいな子は、少年院に入ってしまえ!」
等と、無茶な暴言を吐きまくった。
一方の私は、言われ慣れてしまっていたせいか、大してキズつくことはなく、屁理屈を言い返しては更に母を激高させていた。

回数は減ったものの、大人になってからも衝突はおさまらず。
何もなければ平和な関係なのだけど、ちょっとしたキッカケが火種になり、口論に発展。
そのうち、お互いに癇に触ることを言い合って大喧嘩。
で、その結果、絶縁。
関わり合わない期間は年単位で、これまで、大喧嘩をしては絶縁し、そのうち何となく復縁し、再びケンカをしては絶縁するといったことを何度となく繰り返してきた。
いい歳をしてみっともないのだけど、コロナが流行る前も大喧嘩をして、しばらく絶縁状態になっていた。
しかし、毎朝のドラッグストアに長蛇の列ができていた頃、コロナ感染を心配するメールと品薄だったマスクを送ってやったことがキッカケで復縁。
それ以降、今日に至るまで、直接顔を会わせることはないものの、ケンカをすることもなく、メールや電話をしながら、平和な親子関係を維持することができている。

それにしても、どうして私は、そんなに性根の悪い子供だったのか・・・
親の育て方が悪かったのか・・・
それとも、こんな性格だから、そんな育て方をしなくてはならなかったのか・・・
私には、兄と妹がいるのだが、うまくいかないのは私とだけ。
同じ腹から生まれてきたのに、三人兄妹の中で、何故かこんなのは私だけ。
母曰く、「とにかく、お前は育てにくい子だった!」とのこと。
そんなこと言われると心境複雑だけど、「確かに・・・わかるような気がする・・・」と、自分でも妙に納得できてしまう。
自分でも、それが何ともおかしい・・・もう、この歳になれば笑い話だ。

そんな母でも、私を産み育ててくれたことに間違いはない。
自分は贅沢らしい贅沢をせず、したいオシャレだってほとんど我慢。
専業主婦だった期間も短く、共働きで中学から大学まで私立に行かせてくれた。
平和な日常においては、働き者の母親、忍耐強い母親、大好きな母親だった。
返しきれない大恩がある。
本来なら、もうずっと前から親孝行してこなければならなかったのに、大学を出て引きこもっていたかと思ったら、わけの分からない仕事に就いて、その後もケンカ&絶縁を繰り返すような始末。
「孝行息子」になるには程遠いイバラ道を歩いている。
今できる孝行は、たまに電話して、元気にやってるフリをするくらいのこと。
ただ、そんなことでも母は喜んでくれる。
私は、ただただ、そんな母に感謝するとともに、心の中で頭を下げるのみなのである。



付き合いのある不動産管理会社から、深い溜息とともに特掃の依頼が入った。
好況は、かなりヒドいよう。
そうは言っても、私は そんな情報に動じるほど青くはない。
もはや変態・・・凄惨であればあるほど、特掃は燃えてくる。
「ヨッシャ・・・いっちょ行ってくるか!」
と、種火のついた特掃魂を携えて、私は、勢いよく現場に向かった。

到着した現場は、郊外の1R賃貸マンション。
その一室で住人の中年女性が孤独死。
発見までかなりの日数が経っており、室内は凄惨な状態に。
玄関前には異臭が漏洩。
ただ、「クサい」という感覚はあっても、それが何のニオイかわからなかったため、近隣住民は“怪しい”と思いつつも放置していたよう。
「なかなかのことになってそうだな・・・」
と、漂う悪臭に、私は、小さく気合を入れ直した。

故人は、台所と居室の境目にドア下に倒れており、そこには、腐敗粘土・腐敗粘液と化した人肉がベッタリ。
頭部があったと思われる部分には大量の毛髪。
やや遠目にみると、床には身体のかたちもクッキリ。
「毎度~!」と言わんばかり、ウジやハエも常連客のように図々しく増殖。
「こりゃ、だいぶ骨になってたな・・・」
と、一目瞭然の腐敗深度に、私は、小さな溜息をついた。

その心情は、極めて事務的、冷淡。
死を悼む気持ちもなければ、同情心もない。
完全に「商売」と割り切ってのこと。
ただ、故人の人生を想わなくもなかった。
故人のためではなく、自分のために。
自分と同じ一人の人間が生きてきて、そして死んだわけだから、その生き様と死に様から何かをキャッチしないと、汚仕事に従事する自分が浮かばれないから。

故人のせいではなく死体のせいで部屋は悲惨なことになっていたけど、それがなければ整理整頓ができたきれいな部屋だった。
不動産会社によると、「故人は身寄りがない」とのこと。
しかし、家財をチェックすると、故人には男の子と女の子、二人の子供がいたことが判明。
ということは、夫もいたわけで、「家族はあった」ということになる。
どういう経緯で別々になったのか知る由もなかったけど、そこには、故人が大切にしていた想いがあった。

それを裏付けたのは、タンスの上の段の小引き出しにあった二つの小さな木箱。
自分も持っているので、それが何であるかすぐにわかった。
それは、ヘソの緒、故人と子供を結びつける証。
小さなラベルが貼ってあり、そこには、出産日時、故人の名前、子の名前、体重、産院などが列記。
引き出しには、他にも色々なモノが入っていた。
幼い子供が描いた母(故人)の絵。
“おかあさん だいすき”と書かれた一枚も。
子供が折ったのだろう、いくつかの折り紙もあった。
それから、小さな靴が二足。
二人の子が初めて外を歩くときに履かせた物だろう。
それらが、きれいに紙に包まれ、きれいに箱に入れられ、一つ一つ、何かを愛おしむように大切にしまわれてあった。

不動産会社からは、
「故人と親族は、絶縁状態だった」
「親族は、遺骨以外は引き取らない」
「部屋にある物はすべて処分していい」
と言われていた。
しかし、故人(母)の想いを無碍にしていいものだろうか・・・
私は、得意とする“善意の押し売り”になるのではないかと思わなくもなかったけど、その引き出しにしまわれたモノを そのまま捨てるのには、妙な寂しさを覚えた。
小さな引き出し一つ分、大した量でもなし。
後で始末したとしても、大した負担にはならない。
結局、私は、それらの品はゴミとして処分しないことに。
小さな段ボール箱に詰めなおし、空っぽになった部屋の押し入れに置き残した。


故人と二人の子が疎遠な関係になったのには、相応の事情があったはず。
多分、よくない事情があってのことだろう。
やむにやまれぬ事情だったら、家族が離散することはなかったかもしれないし、仮に離散となっても、家族としてのつながりは持ち続けただろうから。
少なくとも、故人は、過去に借金問題を抱えていたことがあったよう。
部屋にあった金融機関や裁判所の書類が、それを物語っていた。
生活苦からなのか、ギャンブルなのか、分不相応の買い物なのか、はたまた男遊びなのか定かではないけど、とにかく、健全な理由ではなかったように思う。

私もそうだけど、人間って弱い。
また、世の中には、欲をくすぐる誘惑がゴロゴロ転がっている。
で、コロコロと人生を転げ落ちるのは、意外に簡単なことだったりする。
故人も、人生のどこかで過ちを犯したのかもしれない。
家族を裏切るようなことをしてしまったのかもしれない。
そして、それがキッカケで、夫と離婚、子と別離となったのかもしれなかった。

ただ、往々にして「親の心、子知らず」。
子を想う親の気持ちは、子には、なかなかわからないもの。
親になってはじめてわかること、親になってみないとわからないこと、それでも尚わからないことって多々ある。
かつての私がそうだったように・・・今の私がそうであるように。
二人の子が、故人の親心を理解していたかどうかわからないけど、それでも、故人は、いつまでも子のことを大切に想っていたのだろうと思った。

故人の遺骨は、子供が引き取った。
そして、私が取り置いていた想い出の品も。
「いらないから捨てて下さい」と言われたらそうするつもりだったけど、ヘソの緒も靴もみんな引き取ってくれた。
それを手にした二人の子は、何を想っただろう・・・
いい思い出ばかりではないだろうけど、悪い想い出を錯綜させつつも、ほのぼのとした笑顔で母を偲んだのではないだろうか・・・
勝手な想像ながら、そう思うと、私は、“善意を押し売った”自分を「お手柄!」と褒めてやりたくなった。
そして、それが何とも嬉しくて、いつまでも その余韻に浸ったのだった。


いつの頃だかおぼえていないけど、ずっと昔に母がくれたもの・・・
私は、今も、自宅の机の引き出しに、自分のヘソの緒をもっている。
普段は放ってあるけど、何かのとき、その木箱を手に取ることがある。
そして、それをしみじみと眺めては、
「このときの俺には、色んな可能性があったんだよな・・・」
「この後にこんな人生が待ってるなんてな・・・」
と、悲しいような可笑しいような、複雑な想いが交錯する中で湧いてくる降伏感に近い幸福感に苦笑いしている。
そして、
「命がけで産んでくれたんだよな・・・」
「人生をかけて育ててくれたんだよな・・・」
と、若かった母、労苦していた母、老いた母の姿を心に浮かべては目を潤ませている。

とにもかくにも、それだけの月日が過ぎてしまった。
もう五十年以上経っているわけで、私と母をつないでいたヘソの緒は、私の身体と同じくボロボロ。
一人の人間を生み育てるということが、どれだけ大変なことか・・・産んだ方の身体は、もっとボロボロ。

「ありがとう・・・かあちゃん・・・」
この歳になったからか・・・いや、この歳まで生きさせてもらっているからこそ、私は、そんな風に想うのである。


-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社

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(365日24時間受付)

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