早いもので、小学校2年生の夏休みも終了となりました。
昨年に比較し、どれほど「根性」がついたかは
宿題のやり方でよくわかります。
色々な意味で脆弱だった神経も
少しは太くなったのかも知れません。
まだ時々「うーん・・・」という出来事はあるものの
ひところの事を思えば今は天国です。
それほど昔は大変だったのを懐かしく思い出します。
このブログに詳細が書かれているので、自分で読み返しては笑ってしまいます。
最近になってとてもアスペチックな出来事といえば
学童保育でやっている将棋やチェス、ボードゲームを巡って際立ったこだわりを見せた場面でしょうか?
例えば将棋で「王手」を言うのか
チェスで「チェック」というのか
こういう事が気になり出すと、それをそのままにしておけません。
調べないと気がすまない。どっちなんだろうという事ばかりが気になります。
私が教えて納得することもありますが
そうじゃない時は調べた資料を示した上で何が「ほんとう」なのかを
教えていきます。私自身も複合的な資料で、恐らくこれが正しいのだろうという事を教えていくように気をつけます。
彼は一度刷り込みをすると、それを変更したり覆すのが大変で、一番先に覚えたことをいつまでも大事に保管するような脳を持っているからです。
しかし日常において、この「ほんとう」とは流動しやすいものもあります。全部に白黒つけられるものではない。
これってOK?NG?やりだしたらきりがないほど日常は曖昧にあふれている。
チェスや将棋の事は「公式には言わない」という事がすぐに分かるのでいいのですが、すぐに分からないことを
「一旦棚上げにする」という事を今は教えています。
例えば遊んでいる最中でもルールの厳密さにこだわるがあまり
その流れを止めるようなことが起こります。
普通の子は、細かいことよりも「流れを止めるのがイヤ」「ラクなのがいい」「いいじゃん、それくらい」「自分が有利になるために運びたい」と考えるところを、彼はそのように感じ取ることが出来ず、あくまで公式のルールは何なのかという事で戸惑うので、ひんしゅくを買うのです。仲間内と和やかに過ごすという事がこの場合最も大事なのじゃないのかという場面でも、
「ココ」という一点に集中して全貌を台無しにすることもありそうです。
本人は悪意はないのですが、はっきりしないままやるのを
とても恐れる傾向があるようです。完璧主義といえばそうですが、ココはこだわってソコはいいんだというようなこともままあるので、よくわかりません。
ちょっと納得行かないなというところでも、流れが大事な場合もあるので、命のかかっていないようなシーンはそこまで真剣に主張しなくてもよいと。一旦は流されておけという棚上げテクニックは、まだ小学生の彼には難しいのかも知れませんが、理解しようとしなかろうと一応は話をして聞かせます。
その時に決着をつけようとしないで、一旦「わからないまま」にしておくのもよいと。
そしてその後に自分で納得行くまで追求しなさいと。
それで本当にその疑問や気づきが多くの人にとって「メリットがある」ならば表現するタイミングや相手のテンションを考えて伝えていくがいいよと。
その性分はどうしようもないものですのでね「すぐに決着をつける」という事だけ我慢すれば随分他者からも、受け容れやすい態度となるのではと思っています。