やまさんの読書ブログ

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ども。

 

ここ二日ほど体調が整わず、半日寝ては動画を見たりものを食べたりという生活が続きました。

何もできないというのも身体に悪いもので、ただ摂取できるものを無節操に摂取し続けるだけの生活になります。

今日久しぶりに外出した時の、世界の情報量の多いこと多いこと。すれ違う人と顔が向き合っただけで、その顔面だけで簡単に頭が処理落ちしそうになります。

きっと未来では「現実なんて贅沢やめとけよ、俺らは一生バーチャルで楽しんでるのが身の丈に合ってるのさ」なんて世界になってるんでしょうか。

バーチャルで再現できるものは、人間が意識的に再現できるものだけで、人間の感覚器官に入出力できないならともかく、意識の俎上に上がらないものは再現できないからバーチャルはリアルにとってかわることは出来ない、なんて論をどっかで見ましたけど、ちょっと納得しました。

目に映る世界もバーチャルみたいなもんだから、目に映る全てのものがVtuber!!

とか言って遊んでる場合じゃないですね。バーチャルの解像度

 

わたしってなんでしょうか。

わたしは、行為をしているときに、行為に照らされて現れる主体のことをわたしと考えます。最初から確固たる自分自身なるものが存在して、それが自分以外の世界や自分の行為を統御しているのではなく。その都度あらわれるものとして。

なにもしてないときはなにものでもないわけです。

外出しているときにちゃんと築いた世界との境界がただただ溶けていく感覚でこの二日間を過ごしたといいますか。ゾウリムシが徐々にほどけて死んでいく動画を思い出しました。

ただただ布団と画面とに一体化した二日間でした。ただただ受けるだけだった。粗末な情報量で脳がフォアグラ。

 

様々なタイプの人がいますが、少なくとも自分は何か外との接点がないと、色々なものを維持できないんだろうなと思いました。

 

 

思い出しました。

いまから引っ越しの段ボール箱から探し出して再読するのはめんどくさいけど、多分上の文章と大筋ははずしてないと思います。

小さなころからなんかズレてた主人公が、ついに外界との接し方を、コンビニ勤務というタスク最適化ゲームに見出して生きていくも、30歳を超えたなりの、いわゆる普通の生き方をしてもらうよう周囲から要請されて、しかし…みたいな感じだったと思います。

村田沙耶香さんはもっと(ギャグ方面に)ぶっ飛んだ主人公や世界観、まだ笑いようのある設定を書く作家さんだと思っていたので、この本読んだ時にあまりに淡々としててちょっと怖かった覚えがあります。『タダイマトビラ』レベルでも、まだ救いがあったと思っています。未読の『しろいろの街の、その骨の体温の』が気になるところ。

 

本にかこつけた自分語りのターン。淡々と他人事に生きていく人について。

何事かに追い詰められた人間は、ただ淡々と過ごすことによって一日一日を乗り越えてゆきます。これは周囲や自分の経験から。

感情を殺すしかないからね~、でも説明にはなると思うけれど、私の実感では違います。

おそらくイメージされているのは、感情を表に出したら研磨されてしまうことが続いて、いつしか表立っての起伏が無くなってしまい、そのうちに自分を見失ってしまう、と言ったものでしょうか。典型的なイメージで、その通りの人も少なくないでしょう。でも、このイメージはあまりに共有されすぎてしまっていて、リアリティのないストーリーのように感じられます。

 

追いつめられると、拠って立つものが必要になります。それほどの信頼が身近に寄せられない場合、自分は自分に拠って立つしかありません。その時に、自分が揺れ動いて感情的でいては困ります。そして、耐えられるほどに心が強ければ、自分の中の夾雑物を落とすような選択をします。そうなると、淡々と日々を過ごすことしか可能で無くなってしまうようになります。仕事、家事、睡眠。中途半端に心が強いからで、あまり心の耐久がない人はさっさとメンタルクリニックに通えるでしょうし、本当に強い人は頼れる人を探すか作るか、環境ごと離れるか、すると思います。

 

反応は出来るんですよ。なんなら他の人よりよっぽど出来るようになります。

自分から何もできなくなるんです。唐突に主人公の話に戻り。

主人公は、周囲から教えてもらった普通をトレースしようにも、根本的にOSが違うので、表面上の動作しかトレースできないような主人公だったはずです。

恋人云々の下りも、誰かに求められれば出来る、みたいな話だったはずです。

必要なことは自明だし、それに対して反応は出来るけれど、全く未知のことに対してのチャンネルが閉ざされてしまうような。自分語りフェイズの終わり。

 

この本に対する反応は、大きく3種類だったと思います。

気持ち悪い、根本的に何が語られているのかわからない人。

主人公に共感して、自分の無理解エピソードが感想欄に噴出する人。

主人公に共感したりしなかったり、ともかく、自分が主人公を苛む一般的で普通の人側だとわかっちゃって、自責の念に駆られる人。

下二つの立場は、なんか違いますよね。共感できない

どうもこの本が、主人公を鍵に、現代社会と現実の読者自身の間の摩擦を読みだす扉を開くために読まれたような印象を受けます。何も考えなくても、普通って何だろう、みたいな問いが自明に浮かんじゃうというか。

本を利用しようと思ったら、本に翻弄されて、本の一要素に過ぎない表の面で満足してしまったような。

この本の最後は、主人公がコンビニを生きることを選ぶ、それも、そうするしかないという受動的なニュアンスで、みたいなストーリーだったはずです。

社会から要請される何者かにならねばならぬ、と日々苦労を重ねている周囲の人たちを尻目に、主人公は繰り返しの日常へ戻ります。

主体性があるのはどっちなんでしょうね。というか、どちらにも主体性はないので、「主体」性みたいなものがそもそもないと考える方が自然かもしれません。初めの方に書いた、確固たる自分があるというより、行為の都度に主体が生成される…を思い返します。

確固たる自分探しゲームをして、社会から選んだ理想の人生モデルの模倣に徹するのと、淡々と行為するのと。「欲望はすべて他者の欲望である」。

どっちが善悪の価値の問題ではないと思うけど、前者の人生は後者にさんざん支えられていることを思います。

 

あとこの本、主人公の年齢になってから読むとまた違ってキツい印象を受ける気がします。この本は明らかに読者の年齢を選ぶだろ。プラスマイナス10歳ではちょっと正確に物語の印象が得られなさそう。今思い返すと、周囲の人は普通を強要してくる愚民どもじゃなくて、心の底から親切で優しかったことがわかります。もっと年を取ってから読むと、周りの人たちが選択の余地なしにそういうしかなかったんだ、みたいなどうしようもなさの心境が分かるのかもしれません。

本は読者の年齢を選ぶ、というのが最近の学びです。「何事にも時がある」。