日本語落ち穂拾い

主に日本語について、思いつくまま「重箱の隅」的な話題をとりあげて参ります。脱線・道草し放題。

 なお、当ブログの内容は、社団法人武蔵野市医師会会報(第490~525号)に掲載した記事と一部重複するものであることをお断りしておきます。

自分が何を言っているのかわかっていない言葉(2) ー 危険度:中

 次に、主に勘違いや間違った思い込みからくる誤りを挙げてみましょう。

 これらは、意味からするとまるで正反対と言ってもよいほど違っているのですが、同じような間違いをしている人が多いこともあって、実際に使ってもさほど恥をかかずに済むようです。でも、日本語にうるさい人がその場にいると突っ込まれることもありますし、就職活動の面接などでこういう間違いをしてしまうと採用の可否にかかわらないとも言えませんので、やはり注意するに越したことはありません。



1.「流れに棹(さお)さす」

 代表的な例がこれです。あまり日常生活で使う機会はありませんが、夏目漱石の『草枕』という小説に

    『情に棹させば流される』

という有名な一節があることから、知っている人は多いことでしょう。ただ、「知っている」とは言っても、「意味まで正確に知っているか」と言えば話が別で、勘違いをしている人も少なくないのが現状です。

 この「流れに棹さす」という言葉は、川で舟に乗っている人が川底を棹で突いて、舟を流れに乗せることからきています。つまり、

    「流れに乗って進む」

という意味であり、ここから

    「時流に乗る」

という意味にも使われているのです。

 ところが、この意味とは反対に

    「流れに逆らう」

とか

    「流れを止める」

という意味だと思い込んでいる方が少なくないのです。

 恐らく、そう考えている人は、舟人が川底に棹を突き刺して流れに抵抗しているような印象をお持ちなのでしょう。ですが、現実的に考えてみれば、舟の上から棹1本で川底を突いてみたところで、流れに逆らうことなどほとんど不可能です。もし、本気で流れに逆行しようとするなら、櫂(かい)か何かで漕ぎでもしなければ無理でしょう。

 では、なぜこのような誤解が生じるのかと言えば、その原因は恐らく「さす」という表現にあるものと考えられます。

 一般に、「さす」という言葉は「水をさす」とか「嫌気(いやけ)がさす」というように、物事を妨げる意味合いで用いられます。そのため、私たちは「さす」という言葉から「止める」とか「邪魔する」といった意味を感じる傾向があり、これが間違いの原因になっていると私は思うのです。


2.「気の置けない」

 これも、逆の意味に取られがちな言葉の一つです。

 正しくは

    「気兼ねがいらない」

という意味なのですが、最近は反対に

    「気を許せない」

というような意味に解釈されることが多くなっているのです。

 「置く」という言葉には、元々

    「(不信や遠慮などを)介在させる」

という意味があり、だからこそ、この「気の置けない」という表現もあるわけなのですが、今では「置く」という言葉をあまりこの意味では使わないため、誤解してしまうのでしょう。

 また、

    「○○の風上にも置けない」

という表現もあるため、これからの類推で、悪い意味に解釈してしまいやすいのかも知れません。

 いずれにしろ、この誤解は意味がほとんど正反対になってしまうだけに、

    「彼は気の置けない奴だ」

と言ったような時に誤解されると、場合によっては絶交されるなどの重大な問題に発展しかねません。

 ですから、今の時代は、この言葉を敢えて使わないようにした方が無難であると言えるでしょう。


3.「情けは人のためならず」

 この言葉も、よく間違えて解釈されます。

 間違いと言っても、正反対というわけではないのですが、そこから導き出される行動が全く逆になってしまうという点を考えれば、やはり重大な誤りとするべきでしょう。

 「人のためならず」とは、「人のためなり」の否定ですから、

    「人のためではない」

という意味です。つまり、「情けは人のためならず」は

    「情けは人のためではなく、
 自分のためである(だから、
 すべきである)」

と解釈するのが正解となります。

 ところが、ここを間違えて「人のためになる」の否定と捉えてしまうと、

    「情けは(その人の)ために
 ならない(だから、すべきでない)」


という解釈になり、結果として行動が逆になってしまうのです。

 本来の意味は「他人に情けをかけると、それが巡り巡って我が身に返ってくる」ということであり、突き詰めて考えれば一種の利己主義であり、あまり感心しないという意見もあろうかと思います。この点を忌避する意識から、間違えた解釈に流れがちになるという要因はあると思います。

 ですが、同じ言葉がこうも違って解釈されては混乱してしまいますので、やはり、本来の意味に限定して用いるよう努めていくべきでしょう。


4.「君子(くんし)豹変(ひょうへん)す」

 これは間違いの中でもかなり高等な部類に属します。

 しかも、「豹変」という言葉が本来の意味とかけ離れた使い方をされるようになってきているため、余計にわかりにくくなっています。

 「豹変」という言葉は、本来は「豹の毛が生え替わる際に(豹紋が)ひときわ鮮明になること」から来ており、

    「美しく変わる」

という意味合いを持つ言葉です。つまり、「君子豹変す」とは、

    「君子は(過ちを犯しても)
 悔い改めることによって
 (豹紋が鮮やかに蘇るように)
 美しく変貌する(ものである)」


という意味であるわけなのです。

 なのに、現在、この「豹変」という言葉は「突然凶暴になる」といった

   「醜く変わる」

意味に使われることがほとんどで、「君子豹変す」も同じように使われてしまうことが多いのです。

 具体的には、普段は聖人君子のように思われていた人が急に凶暴になったような場合に「君子豹変す」などと言ってしまうわけです。

 そのような場合は、その人が元々君子ではなく、それが何かのきっかけで露呈したに過ぎないわけですから、正しくは

    「化けの皮が剥がれる」

とか

    「馬脚を現す」

とでも言うべきものなのです。

 そうなると、「君子豹変す」と言える機会はそうそうないとも思えますが、使うならばぜひとも正しい場面で使うように気をつけたいものです。(例:「言い間違えた時は『枕流漱石』ではなく『君子豹変す』で行きましょう!」)



(続く)




自分が何を言っているのかわかっていない言葉(1) - 危険度:低

 話し言葉にしても、書き言葉にしても、言っている本人はまともなことを言っているつもりなのに、聞いている方にとってはおかしなことになってしまう例が時にはあるものです。

 「口は災いの元」と諺(ことわざ)にも言いますが、その内容によっては、赤恥をかいたり後々まで後悔する羽目に陥ったりすることもありますので、言葉というものは意外と怖いものです。

 ここでは、そういった言葉の例を拾って参ることとしましょう。


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 まず最初に、使ってしまってもちょっと恥をかくくらいで、あまり問題にならないような危険度の低いものから挙げて参りましょう。


1.「カニクン」

 これは、これだけでは恐らく何のことだかわからないだろうと思います。でも、メモなどにこのように書いてあったらどうでしょうか?

    「伝票カニクン

 実はこれは医療現場で私が実際に目にしたものなのですが、こう書いてあれば、ピンとくる方も多いと思います。

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爪亭八楼(つめてー・やろう):「こんなもんでやんすかね」
伝票カニクン



























爪亭八面(つめてー・やつら):「違うわ! ボケ」 ボカ

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 そうです。 これは本来

    「伝票カクニン(確認)」

と書いてあるべきものだったのです。病棟業務では、検査などの伝票を確認する作業が頻繁にあるわけですが、忙しいといちいち「確認」などという画数の多い漢字を書いていられなくなり、片仮名で済ましてしまうことが多く、そういう時につい、こういった間違いをしてしまうことがあるのです。

 ですが、実際の現場では、こういう例があっても誰も気付かずに処理されていることも多いもので、恐らくは

    「伝票カ○○ン」

という所だけ見て、「多分『確認』と書いてあるんだろう」と判断しているのだと思われます。

 この例のように、片仮名や平仮名ばかり連続で出てくると、つい順番が入れ替わったり混乱してしまったりすることがあるものです。

 中には、この手の間違いが本当になってしまった例もあり、

    「山茶花(サザンカ)」

という花がありますが、この名前は漢字の読みからすれば本来、

    「サンサカ」

と読むべきものにも関わらず、「サザンカ」と間違えて呼ばれる方が多くなって定着してしまったものなのです。

 また、

    「雰囲気(フンイキ)」

という言葉も

    「フインキ」

と間違って言われる例があり、こういう傾向が強くなると「『フインキ』の方を正解としよう」とならないとも限らないと言われているのです。

 こういった例を考えますと、現在は間違いとされている言葉も将来「正しいもの」として認められる日がくるのかも知れません。


2.「枕流漱石(チンリュウソウセキ)」

 仮名ばかりの言葉で順番を間違える例を挙げましたが、これは漢字で同様の間違いを犯した例です。

 「間違い」と言っても、実際にこの言葉を言ったのは中国の故事に出てくる大昔の人であり、現代の私たちが気に病むことではないのですが、同様の誤りを犯さないように留意する意味で覚えておくのはよいことだと思います。

 この言葉は

    「枕石漱流(チンセキソウリュウ)」

と言うべきところを間違えて

    「枕流漱石」

と言ってしまったわけですが、話をするのに夢中になってしまい、一瞬、何を言っているのかわからなくなったような時に起こしやすい間違いであると言えるでしょう。

 元になった故事では、中国の晋の時代の孫楚(ソンソ)という人が山中での自給自足の生活を表現するため

    「枕石漱流(石に枕(まくら)し、流れに漱(くちすす)ぐ)」

と言おうとして、うっかり

    「枕流漱石(流れに枕し、石に嗽ぐ)」

と言ってしまったわけですが、聞いていた人からそれを指摘されても訂正せず、「流れに枕するのは耳を洗うため、石に嗽ぐのは歯を磨くためだ」とこじつけたことになっています。

 このことから、現在この言葉は「自(みずか)らの誤りを認めずに屁理屈をつけて強弁すること」という意味の故事成語・四字熟語として使われているわけです。一説では、文豪の夏目漱石(ナツメ・ソウセキ、1867年2月9日-1916年12月9日)の名前も、この故事から採られたとのことです。

 私たちは、こういう間違いをしないよう気をつけるだけでなく、間違えた時も「枕流漱石」ではなく率直に誤りを認めるようにしたいものです。


3.「喧々諤々」

 これは、文字の順番を間違えるのではなく、他の言葉と混乱して起こす間違いの代表的な例です。

 正しくは

    「喧々囂々(ケンケンゴウゴウ)」

かまたは

    「侃々諤々(カンカンガクガク)」

のどちらかであるべきものが混じり合ってしまったわけです。

 意味は、「喧々囂々」が「大勢の人が騒ぐさま」であり、「侃々諤々」が「遠慮なく直言するさま」であって、特に似通っているわけではないのですが、それでも混乱してしまうのは、恐らく

    「ケンケン」



    「カンカン」

との音の類似に原因があると考えられます。逆の「侃々囂々」という間違いが滅多に聞かれないのは、「侃」や「囂」という漢字に馴染みが薄いためでしょう。

 ただ、現在ではこの「喧々諤々」という間違いも一般化してきているため、何と辞書にまで載るようになってしまいました。意味は『多くの人がいろいろな意見を出し、収拾がつかない程に騒がしいさま』(『広辞苑第六版』岩波書店、2008年、ISBN:978-4-00-080121-8)とされており、丁度「喧々囂々」と「侃々諤々」の意味を組み合わせたものとなっています。

 「フインキ」と同様に、今後は元々間違いであった言葉も、広く使われているうちに「正しい言葉」として認められるようになって行くのかも知れません。


4.「一石一朝」

 「喧々諤々」もそうですが、四字熟語というものは互いに似通ったものが多いため、混乱を起こしやすい言葉と言えます。

 この「一石一朝」というのは、字の順番を間違えた上に、さらに他の言葉とまぜこぜになってしまったものであり、「枕流漱石」的誤りと「喧々諤々」的誤りとが複合した例です。そのため、見ても聞いてもさっぱりわけのわからないものと化してしまっています。

 この間違いをした人は恐らく「短い期間」という意味で

    「一朝一夕(イッチョウイッセキ)」

と言いたかったものと思われます。それが、まず「一朝」と「一夕」の順番を間違えてしまい、さらに「イッセキ」の音から

    「一石二鳥(イッセキニチョウ)」

と混同して「一石」と書いてしまったのでしょう。

 間違いもここまで来ると、もはやその場で指摘するのはほぼ不可能であり、往々にして

    「よくわからないけど、まぁいいや」

といった感じで流されてしまうことでしょう。

 私たちは、四字熟語でこのような間違いをしないためにも、不消化な四字熟語をみだりに用いないよう心がけるのが賢明と言えるでしょう。



(続く)

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爪亭八楼:「落語の道は一石一鳥にならず!」

爪亭八空(つめてー・やから):「おめぇ、ワザと言ってねぇか?」

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約物(やくもの)について(3) ー 繰り返し符号

 今回、最後にとりあげる約物は「同じ文字・語句を繰り返すために用いる記号」です。これらは

   「繰り返し符号」

と総称される通り、漢字ではなくて「記号」なのですが、一部に漢字と紛らわしいものも含まれています。皆さんの中にも、

   「えっ? これは漢字じゃなかったの?」

と思う方がいらっしゃることでしょう。

 一口に「繰り返し符号」と言ってもその種類は意外に多く、厳密には細かい使い分けをするべきものとされています。ですが、最近はそのうちのごく一部しか使われないようになってきました。

 ですから、特に積極的に使う場合は少ないかも知れませんが、古い本などを読む際に困らないためにも一通り知っておくことは無駄ではないと思います。


 元々、この「繰り返し符号」は中国で同じ漢字を続けて書く際に用いられた

   「重文号」

という、「二」の字を小さく書いたような記号が最初と考えられています。古代中国では漢字は「金文」や「篆書(てんしょ)」のような画数の多い複雑な書体で書かれていたため、少しでも書く手間を省くためにこのような記号が生み出されたものと思われます。

 ただ、現在はこの「重文号」に類する記号を正式に用いているのは漢字文化圏の中でもほとんど日本だけになってしまっています。(台湾には今でも一部に使われている例があるそうです。)

 こういった記号は、一字一字が複雑で書くのが大変である漢字だからこそ生まれたものであり、しかも縦書きが原則であったからこそうまく使うことができたと考えられるので、非漢字文化圏の地域・国では必要性が乏しかったのでしょう。非漢字文化圏ではその代わりに「ノノ字点」と呼ばれる

   「〃」

がもっぱら使われていて、文字のみならず、文章や時には図表までも繰り返す記号として用いることができます。


 ですから、まとめると「繰り返し符号」は

   「踊り字」

と総称されるような「重文号」に類するもの(主に文字を繰り返す場合に用いる)と、「ノノ字点」とに分けられると言えるでしょう。


 では、これからそれぞれの「繰り返し符号」について見て行きましょう。



1.踊り字(躍り字、おどり、(狭義の)繰り返し符号、重ね字、送り字、揺すり字、重字(じゅうじ)、重点(じゅうてん)、畳字(じょうじ))

 これは、主に文字を繰り返すために用いる記号で、記号によっては「複数の文字からなる語句」を繰り返すことを表すこともあります。また、特殊な例として「繰り返しているようで、実は繰り返していない」場合に使うものもあるのです(わかりにくい)。

 これに属する記号には、次のようなものがあります。


1-(1) 「々」(同の字点、同上記号、ノマ)

 これは恐らく「繰り返し符号」の中でも最もよく使われるものだと思います。

 一見、漢字のように見え、「佐々木」などのように名前に使われたりする文字であることから漢字だと思っていらっしゃる方も多いかと思われますが、これは漢字ではなく単なる「記号」です。ですから、当然、「部首」も「読み」もありません。ただ、それですとワープロなどで入力する場合に困りますので、ほとんどのワープロでは

   「ノマ」(「々」を分解すると「『ノ』+『マ』」となることから)

と入力して変換すれば出るようになっています。

 この記号の由来については定説がなく、後に説明する「〻」(二の字点)が変化したものという説や、「同」という漢字の別字体である「仝」が変化したものという説などがありますが、私が最も納得できる説は、

   「〃」(ノノ字点)



   〻」(二の字点)

を重ねて書くと

ノマ-04








のように、「々」という字になることからこの記号ができたとする説です。

 「々」は主に漢字1字を繰り返す場合に用い、「山々」とか「人々」のように直前の漢字を繰り返すことを表します。但し、「御御御汁(おみおつけ)」のように、同じ漢字でも読みが異なる場合には用いないのが原則です(「人々」の場合には「ひと」と「びと」とで読みが変わるが、これは後半の音が連濁しただけなので同じ読みとみなす)。

 また、「○○病院院長」のように意味に区切りがある場合にも通常は用いません。しかし、最近は「○○病院々長」とか「○○会社々長」というような表記を見ることも珍しくなくなってきました。なお、結婚式や葬式のように「繰り返すことが好ましくない」行事関連の場合には「○○式式場」とせずに敢えて「○○式々場」として、同じ漢字の繰り返しを避けることも行われます。

 文書などで「々」がたまたま行頭に来てしまう場合には、繰り返すべき漢字がわかりにくくなってしまうため、「々」は使わないのが原則です。ただし、「佐々木」という人名のような固有名詞の場合には、たとえ「々」が行頭に来ることになったとしても「佐 ー 佐木」のように書いてはならず、「佐 ー 々木」と書かなければなりません。


1-(2) 「ゝ」、「ゞ」、「ヽ」、「ヾ」(一の字点)

 これらは、最近めっきり使われなくなった「踊り字」です。特に
、「ヽ」、「ヾ」はほとんど見ることがなくなってしまいました。皆さんの中には

   「ゝ」  「ヽ」

   「ゞ」 と 「ヾ」

がそれぞれ同じものだとお思いの方さえいるかも知れません。ですが、これらは本来、きちんと使い分けられるべき記号なのです。

 これらの記号は「一の字点」と総称される「繰り返し符号」であり、「々」が漢字を繰り返す場合に用いるのに対して、

   仮名を繰り返す場合に用いる

記号なのです。正式には

   「ゝ」「ゞ」  平仮名繰り返し記号

   「ヽ」「ヾ」  片仮名繰り返し記号

と呼ばれます。つまり、「ゝ」は平仮名を繰り返す場合(濁音なら「ゞ」)、「ヽ」は片仮名を繰り返す場合(濁音なら「ヾ」)に用いるということです。

 例えば、

   「ああいう」 → 「あいう」

   「すずむし」 → 「すむし」

   「ウクレレ」 → 「ウクレ

   「ババ抜き」 → 「バ抜き」

という具合です。ですが、皆さんも見てお感じの通り、片仮名の場合には見慣れないためにかえって読みにくくなってしまっているようです。

 なお、これらの「一の字点」には、半濁点のついた
一の字点-01





などというものはありませんので、「たんぽぽ」、「パパイヤ」などの場合には

   「たんぽぽ」 → 「たんぽゝ」

   「パパイヤ」 → 「パヽイヤ」

と書くしかないことになります。

 文書でもしこれらの「一の字点」を使う場合には、「々」と同様の注意が必要になります。つまり、これらの記号が行頭に来てしまう場合には使用しないのが原則であるということです。ただし、これも「々」と共通することですが、

   「学問のすゝめ」(福沢諭吉の著作)

   「こゝろ」(夏目漱石の小説)

   「金子みすゞ」(女流詩人)

のように固有名詞である場合には、たとえ「一の字点」が行頭に来ることになってもそのまま書かなければなりません。幸いなことに、片仮名の場合にはこういう例は見当たらないようです。

 こうしたことから考えると、現代では「一の字点」は固有名詞を除き、使わないようにするのが実際的なのかも知れません。


1-(3) くの字点

 これは縦書きの場合のみに用いる「繰り返し符号」であり、「2文字以上からなる語句」を繰り返すことを表します。その形が「細長い『く』」に見えることから「くの字点」と呼ばれます。具体的には、次のようなものです。
くの字点-10









 「一の字点」とほぼ同様に、通常は左の方を用いて、濁音を繰り返す場合に右の方を用いるわけですが、若干違うところもあります。


 まず、繰り返される語句の先頭が清音(濁音でない)場合で、それと全く同じ語句(発音も同じ)を繰り返すならば、

くの字点-06
















のように、通常の「くの字点」を用います。そして、繰り返し部分が連濁して、先頭が濁音になる場合には

くの字点-07


















のように、濁点のついた「くの字点」を用いるわけです。ここまでは問題はありません。


 ですが、繰り返される語句の先頭が元々濁音である場合には少々ややこしくなるのです。例えば、「だらだら」というような場合には、「一の字点」と同様に濁点のついた「くの字点」を使うことになるのですが、このような場合には濁点のついていない通常の「くの字点」を使ってもよいことになっているのです。実際、「前半が濁音で後半が清音になる」ような繰り返し語句はほとんどありませんので、誤解を招く心配がないことからこのようになっているものと考えられます。


 なお、ここで「清音」とか「濁音」を問題にしているのは「語句の先頭の音だけ」です。ですから、「くどくど」というような言葉の場合には、濁音が入っていても語句の先頭ではありませんから、通常の(濁点のついていない)「くの字点」を用いることとなります。


 この「くの字点」についても、文書の行頭に来てしまう場合には使用しないのが原則です。



1-(4) 二倍ダッシュ


 これは、本来は日本語の約物ではないのですが、「くの字点」が縦書きでしか使えないことから、横書きで同様の繰り返しを表すために使われるようになった記号です。


 ダッシュ(「-」)を二倍の長さで書いたものであり、「くの字点」と同様に、通常の「二倍ダッシュ」

2倍ダッシュ-02





と、濁点のついた「二倍ダッシュ」

2倍ダッシュ-03





とがあり、それぞれ「くの字点」と同様に用いられます。



1-(5) 「〻」(二の字点、揺すり点)


 これは、一応「踊り字」の中に分類されていますが、他の「踊り字」とは違って特殊な使い方をする記号です。つまり、


  「繰り返しているようで、実は繰り返していない」場合


に用いるものなのです。と言っても、これだけでは何のことだかわかりにくいですので、実例を挙げて説明しましょう。


 日本語には、繰り返し言葉が一語になっていて、漢字一文字で表される場合があります。例えば、次のような場合です。


   「うやうやしい」 → 「恭しい」

   「おのおの」 → 「各」

   「しばしば」 → 「屢」「数」「驟」


 これらの例のような場合、仮名書きにして「くの字点」を使い、
二の字点-03















のように書くこともでき、これですと繰り返し言葉になっていることが一目でわかります。

 ですが、これらの言葉を漢字で書きますと

   「恭(うやうや)しい」、「各(おのおの)」、「屢(しばしば)

のようになってしまい、繰り返し言葉であることがわかりにくくなるだけでなく、読み間違えるおそれが出てくるのです。

 そこで、
二の字点-04












のようにして、

   「繰り返しはしないけれども、繰り返し言葉になっている」

という注意を喚起するために、この「〻」(二の字点)を付けるということが行われるのです。なお、「〻」は上の例の通り、行の中央でなく、右側に寄せて書きます。

 つまり、この「〻」は正しくは「繰り返し符号」ではありません。そして、あってもなくても読みには全く変化がありません。

 しかも、もっぱら縦書きの場合のみに用いられ、横書きで「〻」に相当する記号はありません。

 元々、あってもなくてもよい記号ですので、もし行頭にこの記号が来ることになった場合には省略することになります。

 注意すべきことは、この「〻」と他の「繰り返し符号」とを混同しないことです。辞書などで「各(おのおの)」を「各々」などと表記している例が見られますが、これは厳密には誤りであり、従わない方がよいでしょう。


2.「〃」(ノノ字点)

 これは「踊り字」に含まれない「繰り返し符号」であり、日本語だけでなく、他の言語でもよく使われる記号です。

 この記号は

   文字や語句だけでなく文章や図版など何でも繰り返すことができる

   原則として、文中には用いられない


という特徴があり、他の「繰り返し符号」と違って、「文字」として使われることは少ないと言えます。主に表などで、上や左の項目と同じ内容であることを意味するために用いるのが大部分でしょう。

 中には、

   イ.○○規則の一部を改正する規則

   ロ.         〃         の一部を改正する規則

   ハ.                 〃                の一部を改正する規則

   ニ.                         〃                       の一部を改正する規則

などという書き方をする場合もありますが、こういう使い方は個人的なメモでは許されても、正式な文書には適さないでしょう。


 以上、現代では「々」を除いて、日本語ではあまり使われなくなってきた「繰り返し符号」ですが、手紙などの個人的な文書なら、時には敢えて使ってみるのも趣きがあってよいのではないでしょうか。


(この項終わり)



約物(やくもの)について(2) - 括弧(かっこ)

 次にとりあげる約物は

   括弧(かっこ)

です。これは既に表題でも上でも使っている通り、日本語でも頻繁に使われるものですので、知らないという方は恐らくいらっしゃらないでしょう。

 この括弧というものは文章の一部を他の部分から区切り、「内」と「外」とに分ける働きをする約物であり、、必ず「括弧開き」と呼ばれる記号と「括弧閉じ」と呼ばれる記号の2つを対にして用いるという特徴があります。


 括弧には多くの種類があり、装飾的なものを含めるとほぼ無数にありますが、日本語での正式な補助記号とされているものは意外と少なく、

   ( ) - 丸括弧(まるかっこ)

   「 」 - 鉤括弧(かぎかっこ)

   『 』 - 二重鉤括弧(にじゅうかぎかっこ)

の3種類だけです。ただ、だからと言って他の括弧を日本語で使ってはいけないわけではありません。ですから、ここでは上の3種類の括弧だけでなく、日常よく目にするもの・注意が必要なものについてもとりあげることに致しましょう。



1.丸括弧(まるかっこ) - ( )

 これは恐らく最も頻繁に使われる括弧です。ですが、それだけに用法が曖昧になっている面もあるので要注意です。


 まず名称についてですが、この括弧の正式な呼び名は「丸括弧」です。これは見た目の形から名付けられたものであり、非常にわかりやすい名称と言えるでしょう。場合によってはドイツ語から来たとされる

   「パーレン」

という呼び方をされることもあります。

 正式な名称は以上の通りです。ですが、このように言うと、皆さんの中には

   「これって『小括弧』って言うんじゃないの?」

とお思いになる方がいるのではないでしょうか。ところが、現在、この呼び名は

   適切でない

とされているのです。なぜか? それは後でまとめて説明することとさせて戴きましょう。


 この丸括弧の用法としては、括弧の働き、つまり「内と外とを区別すること」に尽きます。しかし、注意しなければならないのは、括弧の「内」に入るものが

   語句でも文章でも文章の一部でもよい

ということです。つまり、丸括弧は文の区切りに一致しなくてよいということなのです。言葉を換えて言えば、

   丸括弧が閉じられたからといって、文が終わったわけではない

ということなのです。この点で、括弧の閉じが文の終わりを意味する鉤括弧などとは異なるのです。

 例を挙げましょう。

   爪亭八楼(つめてー・やろう)は眠った。 - 語句

   八楼は真打になった。(水をぶっかけられた。) 八楼:「はっ、夢か」 - 文

   八楼は師匠になった(わけねぇだろーが) - 文の一部

 このように、丸括弧は文の区切りの役目を果たさないので、句読点はきちんと打たなければなりません。



2.波括弧(なみかっこ) - { }

 これは日本語の文章にはまず使われない括弧であり、使われるとすれば、数学で数式や集合を書き表す場合に使うくらいなものでしょう。

 ただ、この括弧も丸括弧と同様に、名称に注意が必要です。

 この括弧は日本語の補助記号ではないので、正式な呼び名はないのですが、一般に「波括弧」または

   「ブレイス」

と呼ぶのが望ましいとされています。もちろん、形がそう見えるからこのように呼ばれるわけですが、丸括弧と同じく、人によっては

   「これは『中括弧』と呼ぶんじゃない?」

とおっしゃるかも知れません。ところが、現在はこの呼び名も

   不適切

と考えられているのです。これについても説明は後でさせて戴きます。



3.角括弧(かくかっこ) - [ ]

 この括弧も日本語の補助記号ではなく、主に数式や化学式で使われるものです。

 この括弧も「角括弧」または

   「ブラケット」

という呼び名が一般的ですが、名称の点で注意が必要なのです。

 上の1.2.で、丸括弧と波括弧について、それぞれを「小括弧」、「中括弧」と呼ぶのが不適切であると述べましたが、この角括弧についても、数式に慣れていらっしゃる方は

   「これは『大括弧』と呼ぶんじゃないか?」

と思うのではないでしょうか。ところが、これも実は適切でないと言われているのです。これは一体どういうわけでしょうか。

 この「小括弧」・「中括弧」・「大括弧」という呼び方は、数学での数式の書き方から来ていると考えられます。数式で複雑な計算を書き表す場合、括弧が入れ子状態になることがありますが、その際にわかりやすくするために括弧の種類を変えることが行われるのです。例を挙げれば、次の通りです。

   (A + B) × C

   {(A + B) × C - D} × E

   [{(A + B) × C - D} × E + F] × G

 このような式において、括弧を入れ子にする場合に、日本では一般に

   [{( )}]

の順で使われています。このことから、

   [ ] - 「大括弧」

   { } - 「中括弧」

   ( ) - 「小括弧」

という呼び方がされてきているのです。ですが、実はこれは

   ほとんど日本だけ

であり、国際的には

   {[( )]}

の順で使われることが圧倒的に多いそうなのです。ですから、日本的な「小括弧」・「中括弧」・「大括弧」という呼び方は非常に誤解を招きやすいことになります。

 そういう理由があるため、「小括弧」・「中括弧」・「大括弧」という呼び方は避け、「丸括弧」・「波括弧」・「角括弧」と呼ぶのが適切であるとされているのです。



4.鉤括弧(かぎかっこ) - 「 」

 この括弧は日本語の補助記号であり、皆さんもよくお使いになることでしょう。

 鉤括弧は主に会話と引用に使われますが、一番注意するべきことは

   鉤括弧の区切りは文の区切りでもある

ということです。つまり、鉤括弧の中から外へ文を続けることは通常できないわけで、この点で丸括弧などと異なるのです。

 逆に、鉤括弧の「括弧閉じ」は必ず文または語句の切れ目を表すわけですから、もし文だったとすれば

   句点の役割をも兼ねる

ことになるのです。ですから、

   八楼は「わかりやした。」と言った。

というような書き方は好ましくなく、

   八楼は「わかりやした」と言った。

のように、鉤括弧閉じの直前の句点は省くべきであるわけです。


 また、鉤括弧を引用として用いる際には

   「引用の部分だけを鉤括弧内に入れる」

ことに気をつけなければなりません。どういうことかと言えば、例えば

   「腹の皮突っ張れば目の皮たるむ」

という諺(ことわざ)を引用する場合には、

   魚はまぶたがないので、「目の皮たる」まない。
 
のようにしなければならず、

   魚はまぶたがないので、「目の皮たるまない」

などと書いてはいけないわけです。


 なお、鉤括弧にはもう一つ、やや特殊な使い方があります。現に私も別ブログ『新・美爪通信』(http://biso-tsushin.doorblog.jp/)で頻繁に使っている用法です。

 それは、「いわゆる」とか「自称」とかいう意味を含ませる用法です。例えば、

   巻き爪・陥入爪の不適切な「治療」

というような表現です。これは、この場合「一般には『治療』と呼ばれているが、私は『治療とは呼べない』と考えている」という意味を表しています。つまり、「一般にはそう言われているが、実は違う」とか、「著者はそう主張しているが、私は認めない」という意味合いを示しているのです。

 英語でも引用符「“ ”」を使った似たような用法があり、有名なものではオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(Citizen Kane)という映画の例が挙げられます。ケーンが(2番目の妻である)スーザン・アレクサンダーをオペラ歌手として育て上げようとするのですが、彼女には全くその才能がなく、出演した歌劇は酷評を浴びます。そこで、新聞記者の発言として

   『彼(ケーン)は「“singer” スーザン・アレクサンダー」の「“ ”」を取り去りたかったのだろう』

というような台詞が出てくるのです。これはつまり、英語での「“ ”」にも「ケーンはそう呼んでいるが我々は認めない」という意味合いが含まれているわけです。

 この用法はかなり便利ですので、覚えておいて損はないと思います。



5.二重鉤括弧(にじゅうかぎかっこ) - 『 』

 この括弧も鉤括弧と同様、日本語の補助記号とされているものです。

 用法は鉤括弧と同様な点が多いので、異なるところだけ説明致しましょう。


 二重鉤括弧は主に次の2つの場合に使われます。


 一つ目は、鉤括弧が入れ子になる場合です。

 他の括弧の場合は、入れ子になっても同じ括弧で押し通して構わないのですが、鉤括弧だけはそうも行かない場合があります。それは引用・例示として括弧の記号(「括弧開き」だけ、または「括弧閉じ」だけ)を示したい場合です。例えば、

   

という記号を会話文の中に使いたい場合、

   「ここで「「」と書いてください」

としたのでは、どう見てもおかしいとしか感じられません。ここはやはり二重鉤括弧を使って

   「ここで『「』と書いてください」

とする必要があるのです。

 このような例があるため、鉤括弧が入れ子になる場合には二重鉤括弧を使うことになるのです。もし、二重鉤括弧の中にさらに鉤括弧を必要とする場合には、普通の鉤括弧を用いて、以後代わりばんこに使い分けて行くことになるわけです。


 二つ目の二重鉤括弧の使い方は、文学作品や芸術作品の題名を書き表すために使うものです。

 私もブログでよくこの用法を使いますが、書籍や小説の題名は一般に二重鉤括弧で括って書きます。ただ、小説の一部であったり、短編集の中の一編であったりする場合には普通の鉤括弧で書くことが多いようです。

 例えば、ある小説本『A』の中のあとがきの部分を言いたい場合は

   『A』の中の「あとがき」

としますし、もし、星新一(ほし・しんいち)の作品である『あとがき』(短編集『宇宙のあいさつ』に収録)という題名の小説のことを言いたい場合には

   星新一の『あとがき』

と書くことになるわけです。



6.その他

 以上の他に、日常生活では必要ありませんが、特殊な使い方をする括弧(の類い)がありますので、蛇足ながら付記します。

 発明に興味のある方ならご存じかも知れませんが、特許庁に特許・実用新案・意匠・商標の登録申請をする場合に、申請書類には勝手に使ってはいけない記号(括弧)があるのです。それは、

   【 】 - 隅付き括弧 または 墨付き括弧



   ▲ ▼ - (名称不明)

です。

 隅付き括弧は、申請書類の項目名を表す専用の括弧とされているため、他の場所には使うことができません(使えば訂正させられる)。

 また、「▲ ▼」は、申請者の名前や住所などに常用漢字以外の文字があり、代替文字を使わざるを得なくなった場合に、その代替文字を「▲」と「▼」とで挟んで表すために使われる専用の記号であるため、申請者は一切使ってはいけないのです(使えばやはり訂正しなければならない)。例えば、「ミヤザキ・タロウ」という氏名が

   宮崎太郎

ではなく

   太郎

という漢字であったとすると、公開される氏名は

   ▲崎▼太郎

と表示されることになるのです。


 皆さんも、もし何か特許などを申請しようとされる際には、どうぞご注意ください。



(続く)



約物(やくもの)について(1) ー 句読点

 前回の項では「漢字ではないようでいて実は漢字である」文字をとりあげましたので、今回は「漢字ではない文字」に着目してみましょう。

 この

   「約物(やくもの)」

という言葉は馴染みがないかも知れませんが、「言語を記述するのに用いる記号の総称」という意味の用語です。つまり、その言語で用いられる文字(日本語で言えば「漢字」と「平仮名」と「片仮名」)以外の字で、言語を記述するのに必要とされる記号のことです。

 普段はあまり意識せずに使っているものだと思いますが、これらを正しく使うことも言語能力の一つであることは間違いなく、決して蔑(ないがし)ろにしてはなりません。

 これから、約物の中でも特によく使うもの、注意が必要なものについてとりあげることと致しましょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 まず最初にとりあげる約物は

   句読点(クトウテン)

です。これは、

   句点(「。」)



   読点(「、」)

の総称ですが、人によっては逆に覚えている場合もありますので、ここで確認しておきましょう。つまり、「。」(マル)が句点で、「、」(テン)が読点ですので、間違えないようにしなければなりません。

 では、それぞれについて注意点を整理してみましょう。


1.句点

 まず句点についてですが、これはほとんどの方が問題なくお使いになっているものと存じます。ただ、注意が必要な場合も幾つかありますので油断はできません。

 句点で重要なことは

   文の終わりを表す記号である

ということです。ですから、「文」とみなされない単語や単なる表題、物や人の名前には原則として付けません。ですから、例えば「吾輩は猫である」と書く場合、これが通常の日本文として書くのであれば

   吾輩は猫である

と書かなければなりませんが、これが夏目漱石の小説の表題であるならば

   吾輩は猫である

というように「。」を付けないのが正しいことになるのです。

 逆に、日本語の文になっていれば、どんなに短くても句点を付けるのが原則です。例えば、

   「あ。そうか!」

というような場合、最初の「あ」はこれだけで1文なので、たった1文字しかありませんが、きちんと句点を付けなければならないわけです。

 ただ最近は、文になっていない、物や人の名前だけの場合も、また、単なる表題の場合も態(わざ)と句点を付ける例が見られるようになりました。例えば

   『モーニング娘』(女性アイドルグループ名)

   『いいひと』(高橋しん作の漫画の題名)

というようなものがありますし、商品のキャッチコピーでも似たような例を見つけることができます。こういった例は、必要ないところに敢えて句点を付けることによって、新鮮味を感じさせたり、強い印象を与えたりする効果を狙っているものと思われます。これらの用法は本来の句点の用法ではありませんが、「特別な効果を与える」という意味での用法としてこれからは認められるようになっていくものだと思います。


 それから、上の例では敢えて触れませんでしたが、日本語の文になっている場合でも最後に句点を付けない場合が少なくとも3つあります。これはかなり重要なことですので、しっかり押さえておきましょう。

 1つ目は、疑問文や感嘆文などで

   疑問符(「?」)

   感嘆符(「!」)

が付く場合は、もうそれで文が終わっていることが明らかなので、それらの記号が句点の代わりになるということです。ですから、

   「ええっ? そうなんだ」

などと句点を付けるのは誤りとなります。「!!」や「!?」が付く場合も、当然、句点は付けてはいけません。

 2つ目は、括弧の中の最後の文については句点を付けないのが原則であるということです。括弧についてはまた次回の記事でとりあげますが、括弧の中の文が括弧の外にまで連続しているなどということは通常あり得ないので、括弧が閉じられるところで文も終わると考えるのが当然です。ですから、そこに敢えて句点を付けるのは無駄であるため、省略することになっているのです。上に挙げた例で言えば、

   「そうなんだ

とするのは原則として好ましくないことになります。ただ、これはあまり厳格な規則ではないので、反したからと言って直ちに間違いとされるほどのことではありません。一般的にはそうすべきであるという程度です。ですが、上で挙げた

   『モーニング娘

のような場合は例外であり、「。」が固有名詞の一部になっていますので、省略せずにきちんと「。」を付けて書かなければいけません。

 3つ目は、賞状、表彰状などの毛筆で書かれた書状の場合には原則として句点を書かないということです。これは古くからの慣例でそうなっているものなのですが、実際、毛筆で句点を書いてもうまく書けず、美しくないので、書かない方がよいと私も思います。この場合は読点も書かないのが原則です。また、これはどちらかと言うとマナーの分野に入るものですが、結婚式や結婚披露宴の招待状には原則として句点を使いません。これは、句点が「区切り」や「終わり」を表す記号であることから、結婚に際して用いるのは縁起が悪いと考えられているためです。ですから、もしそういった招待状に返事を書く場合も句点を使うのはマナー違反となりますので、注意しなければなりません。人によっては読点も気にする場合がありますので、一般に、慶事の際には句読点は用いないと覚えておくのが無難でしょう。


 なお現代では、英語の影響からか、横書きの場合に本来の句点である

   「。」

の代わりに

   「.」(ピリオド)

を用いる例が見られるようになりました。印刷ではもうかなりの割合で「.」が使われているのが現状です。これは一般に認められていることですが、私の個人的な意見としては、手書きで書く際にはやはり句点を使うべきだろうと思います。なぜなら、「.」は鉛筆やボールペンではしっかり書くのが難しく、また、小数点などと紛らわしくなってしまうからです。


2.読点

 読点については、句点ほどの厳しい決まりはあまりありません。ですが、そのためにかえって「適切な用法」というものがわかりづらくなってしまっています。

 句点は「文の終わりに付ける記号」であり、読点は「文の区切りに打つ記号」ということになるのですが、「終わり」が1箇所だけなのに対して、「区切り」は複数あり、しかも全ての「区切り」に読点を打つわけではないので、用法が曖昧にならざるを得ないのです。

 読点の用法については、これまでも数々の文章関係の書籍でとりあげられていて、それらを網羅するのは私の力量を越えます。そこで、ここでは原則のみにとどめることと致します。


 私の考えでは、読点を使うべき場合として、次の3つが挙げられます。


 1つ目は、読点で区切らないと意味が曖昧になってしまう場合です。

 日本語は、英語などと違って「単語と単語との間にスペース(空白)を入れない」という性質があります。そのため、外国人から見ると、最初のうちは単語の切れ目がどこにあるのかわかりづらいことになります。

 例えば、私が昔読んだ子供向けの雑誌に載っていた話に次のようなものがありました。ある寺の和尚に、出入りの仏具屋が「読点なんかいらない」と言ったときに、「それなら、読点がないと困ることを教えてやろう」ということで、次のような注文を出しました。

   「二重にしてくびにかける数珠を持ってこい」

 早速、仏具屋が数珠を持ってきましたが、和尚は一目見て「何じゃこれは、長すぎる」と言い、「やはり、読点がなければ駄目だったようじゃの」とばかりに、読点を1つ打ちました。

   「二重にしてくびにかける数珠を持ってこい」

 つまり、仏具屋は

   「二重にしてくびに・・・」

と解釈してしまったわけです。

 このように、文字の切れ目によって2通り以上に解釈できてしまう場合には、読点で区切りをはっきりさせておかなければなりません。

 ですがこれについては違う意見の方もいらっしゃるでしょう。

   「そんなの漢字で書けば読点なんか要らないじゃないか」

 確かにその通りです。ですが、そうもいかない場合もあるのです。例えば、次の文はどうでしょう。

   「唐の初期には『初唐の三大家』と呼ばれる欧陽詢、虞世南、褚遂良の三人がいた」

 この文で読点がなかったらどうなってしまうでしょうか。

   「唐の初期には『初唐の三大家』と呼ばれる欧陽詢虞世南褚遂良の三人がいた」

 これでは、三人の名前がどこで分かれているのかさっぱりわからなくなってしまいます。しかも全部漢字ですから「漢字で書けば・・・」などとも言えません。

 やはり、読点はどうしても必要な場合があるのです。


 2つ目は、長い文の途中で意味の上で区切りが生じる場合です。

 例えば、次のような文があったとします。

   「A氏は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(なんたら)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(かんたら)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と言っているがB氏は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・(どうした)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(こうした)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と言っている」

 こんな文は悪文と言ってよいのでしょうが、これでもし、中程の読点がなかったらどうでしょうか? 読み手はさぞかしうんざりさせられるに違いありません。

 このように、内容において明らかに区切りとなる箇所には、必ず読点を打って区切りを明確にすべきなのです。もちろん、もっと短い文に書き直す方がよいことも多いのですが。


 3つ目は、「しかし」とか「そして」とかの接続詞を文頭に置く場合です。その場合には、その接続詞の直後に読点を打つのが望ましいと言えます。文頭でなく、文の途中に接続詞を使う場合には、例えば

   「昨日は雨そして雪に見舞われた」

というように、読点を打たない方が自然な場合もあります。


 読点は、以上のような点に注意して使えば、大きな問題は避けられるでしょう。


 なお、横書きの場合、句点の代わりとして「.」が使われるように、読点も代わりとして

   「,」(コンマ)

が使われることがあり、現在、かなりの印刷物でそのようになっています。これは、1952年(昭和27年)に発出された『公用文作成の要領』の中で文部省(当時)が「横組の文書では『,』を用いる」としているため、これに従っているものと考えられますが、強制ではなく、現に横書きでも読点が使われている例が数多くあります。ウィキペディアによれば、1999年(平成11年)3月に文部省大臣官房総務課行政事務管理室から出た『文部省における事務能率の向上について』という文書にて、読点と「,」のどちらでもよいことになっているそうですので、これについては私はどちらでもよいものと考えています。このブログでも横書きであるにもかかわらず読点を使っています。


 句読点は、約物の中でも最も頻繁に使う記号であり、誰でも使えなければならないものです。ぜひとも、以上の点を参考にして、より適切に使うように心がけて戴きたいと思います。


(続く)


国際なぞなぞ(3)解答

国際なぞなぞ(3)解答


1.秋

2.夏

3.冬

4.春



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

爪亭八楼(つめてー・やろう) : えー、今回の解答編はあっしに務めさせて戴きやしょう。


 まずはお題の1番目

   1.アメリカで、「滝」の季節と言えば?

でやんすね。

 これは英語をご存じなら簡単だったでやんしょう。まあ、強いて言やあ、イギリスじゃなくて「アメリカ」だってぇのがミソではあるんでやんすがね。

 英語で「滝」を何て言うかってぇと

   "fall"

なわけでやんすが、これは実は

   "waterfall"

を略したもんなんでやんすな。"fall" は元々は「落ちる」ってぇ意味でやんすから、「水が落ちる」のは「滝」ってぇことになるわけでやんすね。

 一方、アメリカ英語で四季を言ってみると

   春 : "spring"

   夏 : "summer"

   秋 : "fall"

   冬 : "winter"

ってぇわけで、もう答えが出ちまってやすねぇ。そう、アメリカでは「滝」も「秋」も

   "fall"

って言うわけで答えは

   「秋」

となるんでやんす。何で「秋」を "fall" って言うかってぇと、「秋は木の葉が落ちる季節だから」ってぇことだそうで。

 ちなみに、同じ英語でもイギリスじゃあ「秋」のことをもっぱら

   "autumn"

って言って、あまり "fall" とは言わねぇようでやんすね。だからわざわざ「アメリカで」とつけたわけでやんして・・・。

 ま、秋が受験シーズンでなくてよかったでやんすね。


 お題の2番目

   2.フランスで、猿の季節と言えば?

に参りやしょう。

 これはフランス語に興味のある方ならおわかりになったでやんしょう。問題の中で「猿」を括弧で括らなかったのにも実はヒントがあったわけでやんすが・・・。

 まずは、フランス語で四季をどう言うか考えるのが近道でやんすね。

   春 : "printemps"(プランタン)

   夏 : "été"(エテ)

   秋 : "automne"(オトン)

   冬 : "hiver"(イベール)

 さあて、どうでやんすか? 何かひらめきやせんか?

 そう! フランス語での夏は

   「エテ」

つまり、「猿」ってぇことになるんでやんすねぇ。というわけで、答えは

   「夏」

ってぇことでやんす。この調子で行けば、

   「フランスで、親父の季節と言えば?」

   ー 答え : 「秋(オトン)」

なんてぇなぞなぞも作れそうでやんすね。

 ちなみに、日本語で「猿」のことを「エテ」とか「エテ公」とか言ったりするのは、決して悪い意味じゃねぇんでやんす。説は大きく2つありやす。一つは、「猿」が「去る」と読めることから縁起が悪いっちゅうことで、「去る」の逆の意味の「得手(エテ)」と呼ぶことにしたってぇ説。もう一つは、「猿」を「真猿(まさる)」と考えて、「まさる(優る)」という意味の「得手(エテ)」と呼んだっちゅう説。どちらも猿をおとしめる気持ちなんかこれっぽっちもねぇわけでやんして、むしろ親愛の情すら感じられるじゃありやせんか。

 でやんすから、

   「『エテ』なんてけしからん!」

なんてお怒りの方もいらっしゃるかと存じやすが、「決して悪い意味じゃない」っちゅうことで、どうかご勘弁を。


 次は3番目のお題

   3.ドイツで、顔を平手打ちされる季節と言えば?

に行きやしょう。

 これはドイツ語をご存じの方でも咄嗟には思い浮かばねぇかも知れねぇでやんすね。とりあえず、ドイツ語で四季を言ってみるのが早ええでやんすな。

   春 : „Frühling“(フリューリング)

   夏 : „Sommer“(ゾマー)

   秋 : „Herbst“(ヘルプスト)

   冬 : „Winter“(ビンター)

 さあて、どうでやんすか? ここで勘のいい方はおわかりでやんしょう。

 そう!

   「顔を平手打ちする」 = 「びんた」

というわけで、答えは

   「冬」(ビンター)

となるんでやんすね。

 ドイツの冬は厳しいそうでやんすから、旦那方も行くなら「歯を食いしばって」行った方がいいかも知れやせんね・・・っと、まあ、これは冗談、冗談。


 さあて、いよいよ最後の4番目のお題

   4.スリランカで、贈り物をもらって

「わ、サンタからやー!」

と喜ぶ季節と言えば?

に参りやしょう。

 これはまず、スリランカでどんな言葉が使われているかわからねぇと始まらねぇわけでやんすが、今、スリランカじゃ、国民の約4分の3がシンハラ語を使っている(他はほとんどがタミル語)んで、ここではシンハラ語で考えることにして戴きやしょう。

 とは言っても、日本でシンハラ語に馴染んでいる方なんて・・・。ここはもう、先に答えを言っちまいやしょう。

   答え : 春

なぜなら、シンハラ語で「春」のことを

シンハラ語春



と言うから・・・って、知るかこんなもん! ってなもんでやんしょうなぁ。

 こりゃあもう、「そう言うんだ」ってぇ言うしかねぇわけでやんして・・・、まあ、何かの時に役に立つかも知れやせんから、知っていりゃあお得になる(のか?)

 因みに、シンハラ語で四季をどう言うかも参考までにご紹介致しやしょう。

シンハラ語四季
























 まあしかし、シンハラ語っちゅうのは味わい深い文字でやんすねぇ。

 では、ここで最後になぞなぞをもう一発!

    「スリランカでは、冬はどこから来る?」

    ー 答え : 「下」(しーたかーらや)

 お粗末!!


m(__)m



漢字らしくないカンジ(漢字)(3) ー 「〆」

 最後にとりあげるのは、

   「〆」

です。これは、かつては「漢字ではない単なる記号」として扱われていたものであり、今でも「漢字ではない」とお思いの方が多いと思われます。

 ですが、これも現在では漢字として扱われているのです。但し、「漢字」とは言っても

   国字(コクジ)

つまり「漢字にならって日本で作られた文字」ということになっていますので、音読みはなく、

   「しめ」

という訓読みしかありません。

 この漢字も、前回とりあげた「卍」のように、あまり使われることがない文字です。おそらく、使うとしたら

   「締」

という漢字の代わりとして

   「〆切(しめきり)」

のように用いるか、封書の口に「閉め」という意味で書くくらいであろうと思います。

 一応、部首と画数も決まっていて、

   部首 : 「丿」(ヘツ)

   画数 : 2画

ということになっていますが、これは覚えていてもあまり役には立たないでしょう。筆順も、簡単なのでわざわざ言うまでもないと思います。


 珍しいことに、コンピュータ用の文字コードである Unicode にはこの漢字が2箇所に登録されています。なぜそうなっているのかと言えば、この字が当初はただの記号扱いであったため、最初は記号として登録されていたのに、後に漢字として認められたことから改めて漢字として別の形の文字が再登録されるという経緯があったからです。

 具体的には、最初、「Unicode U+3006」に
〆-06













という字が「記号」として登録され、その後、「Unicode U+4E44」に

〆-07













という字が「漢字」として登録されたのです。このように、元はまったく同じ字なのにそれぞれ違うコードで2箇所に登録される例は非常に珍しいと言えるでしょう。


 ただ、私はこれらの字は2つとも「〆」の字体として好ましいとは思えません。なぜなら、「Unicode U+3006」の方は画がつながって1画のようになってしまっていますし、「Unicode U+4E44」の方は片仮名の「メ」と紛らわしいからです。下の図版をご覧になれば皆さんもおわかりのことと存じます。

〆-10


































 「〆」の字体としては、『広辞苑 第六版』(ISBN978-4-00-080121-8)に使われている活字の字体が理想的だと私は思うのですが、画面上に入力できないのが残念です。

 ですから、手書きで書く場合には、「2画で書くこと」と「『メ』と間違えないように書くこと」の2点に注意を払って

〆-01




















のように書くのがよいと思います。急いで書く場合には、

〆-02

















のように画がつながってもよいでしょう。ですが、

〆-03

















のように、1画目が右下へ撓(たわ)むようになっている(このことを「右下に凸」と言う)と、片仮名の「メ」

〆-04

















と間違えやすくなってしまいますので、1画目は直線状か、むしろ左上に凸になるくらいの意識で書くぐらいが丁度よいと思います。まとめると、次のようになります。

〆-09







































 もしこの漢字を使う機会がありましたら、こういった点に気をつけて書けば、きっとわかりやすい「〆」の字が書けることでしょう。


 なお、封筒の閉じ口に「〆」と書くのは本来は略式であり、目下の人宛でない限り避けるのが賢明です。自分と同等か目上に当たる人に宛てて出す封書であれば、

   「緘」(カン)

とするのがよいでしょう。

   「封」

は「緘」に比べるとややくだけた形となります。


(この項終わり)


漢字らしくないカンジ(漢字)(2) ー 「卍」(「卐」)

 次にとりあげるのは、

   「卍」「卐」

です。これはことによると、「漢字ではない」とお思いの方も少なくないかも知れません。

 ですが、これも正真正銘の漢字であり、音読みも訓読みもちゃんとあります。

   音読み : 「マン」「バン」

   訓読み : 「まんじ」


 ただし、訓読みの「まんじ」は実は

   「卍字」

の読みが訓読みに転じたものとされていますが。


 漢字であるとは言え、この字が実際に使われる頻度がかなり少ないのは確かです。特に熟語としては滅多に使われず、あっても「卍紋」などのように「『卍』の形をした~」という意味合いで使われるものばかりです。

 元々この漢字は「卍」の形の記号から来たものであり、インドで作られた形とされています。ヒンズー教や仏教にも関係が深く、そのためにこの「卍」とそっくりな記号が寺院の地図記号としても使われています。


 「卍」も「卐」も同じ意味の漢字であり、「卐」は「卍」の異体字とされています。区別する場合には

   「卍」 : 左卍(ひだりまんじ)

   「卐」 : 右卍(みぎまんじ)

と呼び分けますが、一般的には「卍」(左卍)を使いますので、こちらだけ覚えればよいでしょう。


 前回とりあげた「凹」・「凸」と同様に、この「卍」も形が直線的過ぎて「漢字」らしく見えない字と言えるでしょう。漢字らしさを実感するには手書きで書いてみるのがよいのですが、この漢字は使用例が非常に少ないため、古筆などで書かれている実例を見つけることができません。そこで、私が書道字典などを参考にして書いた例を載せておきます。この漢字の場合、行書・草書の区別は意味がないと思われるので、同じ形としました。

卍-01












 漢字を形よく書くためには正しい筆順で書くことが大切なのですが、この字の場合、普段使わない漢字であるだけに、あまり筆順など意識したことがない方がほとんどではないかと思います。

 「凹」・「凸」の場合と同様に、筆順を覚えるにはその漢字の部首と画数を正確に覚えておくことが近道です。如何でしょうか? 皆さんはこの漢字の部首と画数をご存じですか? 漢字に詳しい方でも咄嗟にはおわかりにならないかも知れません。

 正解は

   部首 : 「十」(ジュウ)

   画数 : 6

なのです。このことを知っていれば、「卍」の筆順を覚えるのも簡単です。大切なのは、「途中で『十』を書く手順が入る」ということです。

卍-02
















この筆順は、「凹」・「凸」に比べればまだ素直な方と言えるでしょう。「凹」・「凸」の中の画のように「稲妻型」に2画で書いてしまわないように注意する必要があります。正しい筆順を意識して書けば、より簡単に整った「卍」を書くことができるでしょう。


 なお、欧米では一般に、この「卍」(左卍)と「卐」(右卍)はどちらもハーケンクロイツ(Hakenkreuz(独):逆鉤十字)によく似ていることから、第二次世界大戦中のドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP)(独)のこと。「ナチ(Nazi)」と蔑称されるが、これはドイツ語名称の初めの「Nati」を同音の綴りである「Nazi」に変えたもの、もしくは「National」の「Na」と「sozialistische」の「zi」を取ったものと言われる)を表す忌まわしい記号として禁止されていて、特にドイツでは公の場で使うと逮捕されるそうですので、要注意です。


(続く)


漢字らしくないカンジ(漢字)(1) ー 「凹」・「凸」

 日本語には、歴(れっき)とした漢字でありながらそれらしく見えない文字が使われることがあります。人によっては、「漢字ではなく、何かの記号ではないか」と思い込んでいる場合もあります。ここでは、そういった例を幾つか拾ってみましょう。

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 ここで、第一に確認しておかなければならないことは

   漢字と呼べるためにはどんな条件が必要か

ということです。この条件がはっきりしていれば、ある文字が漢字であるか否かが明確に区別できるからです。

 学問的には、漢字とは下のような「形・音・義」の三要素を持つ文字であると考えられます。

    : 決まった形(一つでなくてもよい)があること

    : 決まった発音(一つでなくてもよい)で読めること

    : 決まった意味(一つでなくてもよい)を表していること

 つまり、これら「形・音・義」を全て兼ね備えていれば「漢字である」、そうでなければ「漢字でない」と言えるわけです。

 ですから、例えば「ネコの顔文字」などは「ネコ」と「読める」かもしれませんし、「ネコの顔」という「意味」を表してはいますが、「決まった形」というものがないので、「漢字」とは言えません。また、古代の洞窟などに書かれた絵文字は「決まった形」を持ち、「意味」も持っていますが、「発音」が明確でないので「漢字」とは言えません。そして、アルファベットや日本語の仮名などの表音文字は、「形」と「発音」はあるものの「意味」を持っていないので「漢字ではない」ということになるのです。

 まず、このことをしっかりと押さえて置きましょう。

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 さて、最初にとりあげるのは

   「凹」「凸」

の2文字です。これらは日常生活でもかなり使われる頻度が高く、

   「凹凸(オウトツ)」

   「凸凹(でこぼこ)」

などのような熟語もありますので、漢字だとわかっていらっしゃる方も多いことでしょう。

 ですが、ことによるとこれらの文字を「漢字ではない何か」のように感じていらっしゃる方もいるかも知れません。日本語を学ぶ外国人にとっては特にそう感じられるようで、

日本人の知らない日本語1-凹



























(蛇蔵&海野凪子著『日本人の知らない日本語』(ISBN 978-4-8401-2673--1)、2009年、81ページから引用。蛇蔵さん、ありがとうございました)


のようなこともあるそうです。

 もちろん2字とも立派な「漢字」です。前に述べた「漢字の三要素」を検討してみれば、これらの文字が漢字と言えることが明らかにわかるでしょう。


 では、なぜこれらの漢字が漢字らしく見えないのかと言えば、やはりその活字の形が直線的すぎて文字よりも図形のように見えてしまうからでしょう。

 そこで、これらの漢字を手書きで「楷書・行書・草書」で書いてみましょう。

凹凸-01




















 如何でしょうか? こうしてみれば、これらの字も普通の漢字らしく感じられるのではないでしょうか。


 ところで、皆さんはこれらの漢字を手書きで書くときに困ることはありませんか? 恐らくは何となく適当に一筆書きのように書いていらっしゃるのではないでしょうか? 実は、これらの漢字の正しい筆順は意外と知られていないのです。

 正しい筆順を覚えるためには、これらの漢字の「部首」と「画数」を知ることが近道です。それに、漢和字典でこれらの漢字を引くためにも「部首」と「画数」を正しく知っていることが必要です。

 如何でしょうか? 皆さんはこの「凹」と「凸」の部首と画数がおわかりになりますか? 即答できる方はきっと、普段から漢字に深く親しんでいらっしゃる方に違いありません。

 正解は「凹」・「凸」のどちらも

   部首 : 「凵」(うけばこ)

   画数 : 5

なのです。部首はともかく、画数は「6」と勘違いされていた方も少なくないのではないでしょうか。

 このことを覚えていれば、筆順を覚えるのもそう難しくありません。重要なのは「『凵』の部分を最後に書く」ということです。

凹凸-02













 「凹」の1画目と「凸」の3画目のように「稲妻型」に2箇所も曲がる画は大変珍しく、間違えやすいので注意しましょう。

 漢字の正しい筆順がアニメーションで見られるサイト(http://kakijun.jp/)もありますので、実感をつかみたい方はこちらでもご覧になってみてください(表示に時間がかかる場合があります)。

 これらの「凹」・「凸」のように「稲妻型」の画を持つ漢字には、他に

   「壺」(12画)

   「雋」(12画)

などがありますので、この際、まとめて覚えてしまうのが得策だと思います。


(続く)





 

国際なぞなぞ(3)問題

 さて節分も終わり、暦の上では季節も切り替わったところで、久しぶりに「国際なぞなぞ」jを出題してみようと思います(「国際」とつけているのは、以前にも書きました通り「日本語の知識だけでは解けない問題だから」です)。今回のテーマは、ズバリ「季節」です。

 解答は、次の項が終わったところで掲載しようと思っています。


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国際なぞなぞ(3)問題


1.アメリカで、「滝」の季節と言えば? (難易度:易)



2.フランスで、猿の季節と言えば? (難易度:中)



3.ドイツで、顔を平手打ちされる季節と言えば? (難易度:難)



4.スリランカで、贈り物をもらって「わ、サンタからやー!」と喜ぶ季節と言えば? (難易度:超難)




(ヒント : 四季)


読み間違いの多い漢字・医学編(5) ー 「六君子湯」

 医学で難解な漢字を多く使う分野と言えば、もちろん東洋医学(漢方や鍼灸)でしょう。元々は中国の医学だったわけですから、日本ではまず使われない漢字も多く登場しますし、読みも難しい場合が多いのです。

 そこで、今回は東洋医学、特に漢方医学に出てくる難読漢字を紹介しようと思います。ただ、日常生活でほとんど使われない漢字をとりあげても興味を持ちにくいと思いますので、「普段よく使う漢字であるにも関わらず、間違えて読んでしまいやすい」例に絞ることと致します。


 漢方薬の名前は、普段馴染みがない方が多いせいか、何やら神秘的な印象を持たれることがあるようです。雑学の本などを読みますと、「漢方薬の名前を幾つか言えると人から『へぇ』と『ソンケーされる』こともある」などとすすめていることさえあります。

 ですが、実際には大部分の漢方薬の名前の読み方は漢字を見ればだいたい察しがつきますので、さほど難しいものではありません。ただ、中には読みに注意が必要なものもありますので、そういう例を重点的に覚えておけばよいのです。


 実際、日本東洋医学会のような漢方医学の学会に行きますと、「漢方薬の読みなどわかっていて当たり前」の世界ですから、例えば今回とりあげる

   「六君子湯」

という薬名(正式には「方剤名」と言う)を間違えて

   「ロックンシトウ」

などと読んでしまいますと、その途端、周りの人の顔色が変わり、

   「あぁ、こいつは漢方のことはまるで知らないんだな」

というような蔑(さげす)みの眼差しで見られるようになってしまうこともあるのです。

 また、漢方専門の医院などを受診した際に、患者が間違えた読み方で方剤名を言ってしまうと、担当の先生に悪印象を与えてしまうことにもなりかねません。

 そういう意味で、一般の方にとっても漢方方剤名の正しい読み方を覚えておくことも必ずしも無駄なことではないということとなりましょう。


 では早速、難易度の低い方から順番に、間違えやすい漢方方剤名を挙げていくことと致しましょう。


難易度:易


「小柴胡湯」

 これは漢方薬の中でも最も頻繁に使われる方剤ですので、恐らくご存じの方がほとんどでしょう。ですが、読み方は如何ですか?

   「そんなの簡単でぇ。『ショウサイコトウ』ってぇんだろ?」

とお答えになる方が大部分でしょう。もちろん正解です。「ショウシコトウ」などと間違えて読む方は少ないでしょう。

 ただ、この方剤名をここで例として挙げたのは「読み仮名を間違えやすいから」ではありません。読むときの

   切れ目を間違えやすいから

なのです。

 皆さんはこの方剤名を読み上げる際に、どのように切れ目を意識しますか? 下の2つから選んでみてください。

   A:「ショウサイ・コトウ」

   B:「ショウ・サイコトウ」

 どうでしょうか? 私が耳にした限りでは、一般にはAのように切れ目を入れて読んでいる方が多いようです。ですが、これは間違っているのです。

 「小柴胡湯」とは、実は「柴胡(サイコ)」という生薬を主剤とする「柴胡湯(サイコトウ)」という方剤の系統の一種なのです。実際、「大柴胡湯」という方剤もあります。ですからこの方剤は当然、

   「ショウ・サイコトウ」

と読むべきなのです。皆さんも注意なさってください。

 他にも、「読む際の切れ目がわかりにくい方剤名」として、

   当帰四逆加呉茱萸生姜湯(トウキシギャクカゴシュユショウキョウトウ)」

という長ったらしいものがありますが、これも「当帰四逆散(トウキシギャクサン)」という方剤に「呉茱萸(ゴシュユ)」、「生姜(ショウキョウ)」という2つの生薬を「加」えたものという意味の名前ですので、

   「トウキシギャク・カ・ゴシュユ・ショウキョウ・トウ」

という切れ目を意識して読まなければなりません。


「治打撲一方」

 これは滅多に使われない方剤なので、ご存じの方は少ないでしょう。(私も使ったことがありません)

 この方剤名は、読むのを聞いているだけでは間違いに気付かないという点で要注意です。皆さんはどう読むとお思いですか? 恐らく

   「ジダボクイッポウ」

とお答えになる方が多いでしょう。確かに音にすればこれでもよいのですが、仮名で書く場合にはこれではやはりいけないのです。

 実はこの方剤は

   「ヂダボクイッポウ」

と読むことになっているのです。似たような名前の「治頭瘡一方」も同様に「ヂヅソウイッポウ」と読むことになっています。

 通常、日本語では語頭に用いられない決まりになっている「ヂ」という仮名(「ヅ」も実はそう)を頭に使っているのは奇妙ですが、そのようになっているものは仕方がありません。ですから、もしこれらの方剤の読みを書く必要がある場合(ほとんどないでしょうが)は、気をつけなければなりません。


難易度:中


「麦門冬湯」 

 これは咳に有効性が高い方剤で、よく感冒にも使われますのでご存じの方もいらっしゃることでしょう。本来は

麦門冬湯







と書かれていたのですが、漢字が難しすぎるためか「門」の字に変えられています。どちらも読みは同じなのですが、皆さんはどう読むとお思いになりますか?

 これは実は

   「バクモンドウトウ」

と読み、「冬」の字の読みが濁るのです。「麦門冬(バクモンドウ)」という生薬を使っているからこういう読みをするわけですが、このように普段あまり濁って読まない漢字を濁音で読むという点で、間違えやすいので要注意です。

 他に、これと似たような例に

   「大承気湯」

   「桃核承気湯」

というものがありますが、これらもそれぞれ

   「ダイジョウキトウ」

   「トウカクジョウキトウ」

と読み、普通は濁らない「承」の字を「ジョウ」と濁って読む点が特徴的です。


「五積散」

 この方剤はあまり使われないので、聞いたことがない方が大部分だと思います。普通に読めば

   「ゴセキサン」

となるところですが、正しくは

   「ゴシャクサン」

と読むのです。「積」という漢字には確かに「シャク」という音読みもあるのですが、滅多に使われない読みですので、覚えていないと間違えてしまうでしょう。


難易度:難

 さて、これから最後に最も読み間違えやすいと思われる例をご紹介します。初めに漢字だけ挙げておきますので、幾つ読めるかお試しになってみてください。

   「参蘇飲」

   「温清飲」

   「六君子湯」

   「牛車腎気丸」


「参蘇飲」

 これは、予備知識のない方が読めばほぼ間違いなく

   「サンソイン」

と読んでしまうことでしょう。ですが、違うのです。

 実はこの方剤は

   「人参(ニンジン)」

   「蘇葉(ヨウ)」

という2つの生薬を含むことから名付けられたものですので、それぞれの該当する漢字の読みを使って

   「ジンソイン」

と読まなければならないのです。これなどは、方剤の由来を知っていないと正しく読めない例と言えるでしょう。


「温清飲」

 これは婦人科疾患によく使われる方剤ですので、女性の方は聞いたことがあるかも知れません。文字通り読めば

   「オンセイイン」

となるところですが、違います。実はこれは特別な読み方で

   「ウンセイイン」

と読むことになっているのです。同じような例として、

   「温経湯」

というものがありますが、これも「オンケイトウ」とは読まず「ウンケイトウ」と読むことになります。


「六君子湯」

 さて、とうとう出ました。今回の表題にもなっているこの方剤ですが、皆さんはどう読むかおわかりになりますか?

 この方剤は食欲不振によく効くため、「慢性胃炎」という病名に対してよく使われています。皆さんの中にもお飲みになったことがある方が少なくないのではないでしょうか。

 上にも書きましたように、これを文字通りに

   「ロックンシトウ」

などと読むと、場所によっては恥をかくことになってしまいます。実はこれは

   「リックンシトウ」

と読まなければならないものなのです。

 使われている漢字がどれも易しいものであるにもかかわらず、読み間違えやすいという点では、これがその最たる例でしょう。漢方を勉強したことがある人であれば、まず間違いなく読めるはずの方剤名ですので、これが読めるかどうかで漢方への関心の度合いを推し量ることもできると思います。


「牛車腎気丸」

 最後にご紹介するのがこれです。

 この方剤名は最も難読な漢方薬名と言われており、実際に、ある医学部で学生にこれを読ませたところ、1クラスで正解者が一人もいなかったそうです。それだけ難しい読みであるわけですが、あなたはこれをどう読むと思われますか?

   「ギュウシャ・・・?」

   「ギッシャ・・・?」

どちらも違います。正解は何と、

   「ゴシャジンキガン」

なのです。

 この方剤は、「腎気丸(ジンキガン)」という方剤に

   「牛膝(シツ)」

   「車前子(シャゼンシ)」

という2つの生薬を加えたものになっていて、加えた生薬の名前から「牛」と「車」を取って名付けられたのです。そのために、それぞれの元の読みをそのまま使って「ゴシャ」と読んでいるわけなのです。

 こういう漢方薬名は、もう名前の由来ごとまとめて覚えてしまう方が得策と言えるかも知れません。


 如何でしたか? 皆さんは幾つ読めましたか? 全部正しく読めた方は、きっと漢方薬にかなり造詣が深い方に違いありません。


(続く)


読み間違いの多い漢字・医学編(4) ー 「粘稠」

 これは医学の専門用語ではありませんが、日常生活ではほとんど使われず、医療現場で盛んに使われている言葉です。

 この

   「粘稠」

という言葉は「ねばねばしていて、濃い」という意味であり、よく喀痰の性状を表すときに使われます。例えば、

   「昨晩から粘稠性の喀痰が多量に吸引されている」

といった具合です。ですから、呼吸器系の診療科であればもちろんのこと、他の科でもかなり馴染みのある用語と言えるでしょう。

 ですが意外なことに、そのような医療現場でもこの言葉を正しく読める人は非常に少ないのです。呼吸器科の医師ですら例外ではありません。現に、私がいた大学病院の呼吸器内科(正確には当時は「呼吸循環器内科の呼吸器グループ」と呼ばれていましたが)で気管支鏡検査(ファイバースコープで気管支の内部を見る検査)をしていた際も、その場にいた医師のほぼ全員が読み方を間違えて覚えている有様でした。


 皆さんは如何でしょうか? もしこの言葉の読みを聞かれたらどうお答えになりますか?

 恐らく、何の予備知識もない方は

   「ネンチョウ」

とお答えになるのではないでしょうか? ですが、これは残念ながら違うのです。

 実際、間違えてお読みになる方はほとんど全て、このように読んでいます。そして、みな周りの人が同じ間違いをしているため、誰も間違いであることに気付かずにそのままになってしまっているのです。

 この「粘稠」と同じ漢字を使った言葉に

   「稠密」

という言葉がありますが、これも同様に

   「チョウミツ」

と間違えられることが大変多い言葉です。


 しかしながら、実はこの

   「粘稠」

という言葉は

   「ネンチュウ」

と読むのが正しいのです。同様に、

   「稠密」



   「チュウミツ」

が正しい読みとなります。

   「えっ?! 嘘だろ?」

とお思いになる方もいらっしゃるかと存じます(特に医療関係者)が、これは事実です。実際、辞書を引いてみても、「ネンチョウ」では「粘稠」は出てきませんし、「稠密」も「チョウミツ」のところには載っていません(「慣用読み」として載っている辞書はあります)。

 漢和字典を調べてみても、「稠」という漢字の音読みは「ジュウ」と「チュウ」しかなく、「チョウ」という読みはありません。しかも「ジュウ」という読みは滅多に使われず、もっぱら「チュウ」という読みで使われているのです(*1)。


 では、なぜこのように「粘稠」が「ネンチョウ」と間違えて読まれるようになったのでしょうか。

 これは恐らく、「稠」の字の旁(つくり)が、よく使われる

   「調(チョウ)」

という漢字と似ていることから、「稠」の読みも「調」と同じだろうと考えてしまったためであろうと思われます。厳密には

粘稠

 




























のように細かい所で違いがあるのですが、これは旧字体と新字体の違いですのでここでは同じとして扱うことと致しましょう(*2)。

 現実に、旁が同じ漢字で音読みも同じという例が少なからずありますので、このような類推をしてしまうのも無理はありません。

 ですが、そういう類推に当てはまらない例外も多々ありますから、決して思い込みで決めつけないように注意する必要があるのです。この「粘稠」という言葉は、そういう注意が必要ないい例であると言えるでしょう。


 他にもこういう「旁などの部分が共通しているのに読みが異なる」例として

   「邁進(マイシン)」(「マンシン」ではない)

   「揣摩(シマ)」(「タンマ」ではない)

   「進捗(シンチョク)」(「シンポ」ではない)

   「邀撃(ヨウゲキ)」(「ゲキゲキ」ではない)

というようなものがあり、よく漢字検定で出題されますので、漢字検定準1級以上を狙っていらっしゃる方は覚えておく必要があります。


 なお、「稠」と同じ旁を持つ漢字として

   「蜩」

というのがありますが、これはまたどういうわけか「調」と同じように

   「チョウ」

と読みますので要注意です。漢字というものはなかなか一筋縄では行かないものです。「蜩」はよく「ヒグラシ」と読まれることもありますが、元々はセミの鳴き声からできた漢字ですので、本来の意味は「単なるセミ」です。この字を使った四字熟語に

   「蜩螗沸羹(チョウトウフッコウ)」

というものがあり、「セミが盛んに鳴き、湯が沸き返り、羹(あつもの)が煮えたぎる」ということから「非常にやかましい音の例え」として用いられます。これも漢字検定1級に出るかも知れませんので、興味のある方は覚えても損はないでしょう。


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爪亭八楼(つめてー・やろう):「とは言っても、こんなの使う場面なんかねぇじゃねぇか。それに、セミがいねぇ国の人にとっちゃ、まるでわけのわかんねぇ言葉になっちまうぜぇ」

爪亭八面(つめてー・やつら):「おめぇは引っ込んどれ」

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 このように、「蜩」は「ヒグラシ」のことだけを指すわけではないので、「ヒグラシ」ともっとはっきり表すためには

   「寒蜩(カンチョウ)」

のように言う方がいいでしょう。なお、セミを表す漢字としては

   「蟬」

が有名ですが、これを使って

   「寒蟬」

と書くと、何と

   「ツクツクボウシ」

のことになるそうです。漢字というのは面白いものです。


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爪亭八楼:「『カンチョウ』って言っても、これじゃありやせんぜぇ」

カンチョウ





















爪亭八空(つめてー・やから):「当たりめぇだバーロー」  ボカ

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図版引用元:蛇蔵&海野凪子『日本人の知らない日本語2』(ISBN 978-4-8401-3194-0)、2010年、43ページ。
        蛇蔵さんありがとうございました。


(続く)


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(注)

(*1)
 「『稠』という漢字の音読みには『ジュウ』と『チュウ』しかない」と書きましたが、実はインターネットで調べると「チョウ」という音読みも載っています。また、資格試験対策研究会編『漢字検定[1級・準1級]』(ISBN978-4-471-27464-1) という本にも「チョウ」という音読みが載っています。ですが、漢和字典に通常は載っていないので、恐らくは慣用読みの意味合いで載せているのであろうと考えられます。ですからやはり、正しい音読みは「チュウ」であると覚えておいた方がいいでしょう。


(*2)
 ここでも書きましたように、「調」の旁と「稠」の旁は新字体と旧字体の関係であり、元は同じ形のものでした。ですが、現在のところ「周」や「調」などでは新字体(縦画が下へ突き出ない)になっており、「稠」や「蜩」などでは旧字体(縦画が下へ突き出る)のままになっていますので、漢字検定などの正式な場では区別して書かなければなりません。新字体のものと旧字体のものとをきちんと区別して覚えておかなければならないのです。何とも面倒なことですが、やむを得ません。漢字にはこのような例が他にも沢山あります。



読み間違いの多い漢字・医学編(3) ー 「喘鳴」

 これは、恐らく医療現場で最も多く聞かれる「読み間違い」の例だと思います。

 しかも言っている本人はかけらも「間違い」とは思っていないため、こちらが正しく言い直してあげても

   「はぁ?(何言ってんの、こいつ)

というような反応が返ってくることが大部分なくらいなものなのです。

 この

   「喘鳴」

とは、「主に喘息発作の際に聴かれるヒューヒューという呼吸音」のことを指す用語なのですが、皆さんはこれをどう読むと思いますか?


 もし今、医療関係者(医師を含む)を集めて同じ質問をしたとしたら、きっと7~8割(もしくはそれ以上)の人が

   「ゼイメイ」

と答えることでしょう。皆さんは如何ですか?

 もし喘息をお持ちの方でしたら、実際に医療関係者(医師を含む)の口からこのような言葉が出るのを聞いたことが恐らくあるに相違ありません。

 それだけ、この読み方は広く「正しい読み方」として定着してしまっており、誰もが何のためらいもなく使い、聞く方も何も疑問を抱かないようになってしまっているのです。呼吸器を専門とする医師ですらそういう人がいるくらいです。


 ところが、これは歴(れっき)とした

   誤読

なのです!


 知っている方にとっては当然のこととしか考えられないのですが、この「喘鳴」は正しくは

   「ゼンメイ」

と読まなければならないのです。皆さんはどうお感じになりますか?

 ここで

   「おかしい」

とお思いになる方は、ぜひ次の言葉の読みを考えてみてください。

   「喘息」

 如何ですか?

 きっと、

   「馬鹿野郎! こんなの『ゼンソク』と読むに決まってんじゃねぇか!」

とお思いになる方がほとんどでしょう。よもや、

   「ゼイソク」

などとお読みになる方はいらっしゃるまいと思います。

 ですが、ここでよく注意すれば、きっとあなたも気がつくことでしょう。

   鳴」の「」の字は実は「息」の「」の字でもある

ということに。

 そのことに気付けば、「喘鳴」を「ゼンメイ」と読むのは至極当然の話と言えるのではないでしょうか? むしろ、「ゼイメイ」と読む方が明らかに不自然です。


 では、なぜこれほどまでに「ゼイメイ」という読み方が普及してしまったのでしょうか?

 新村出(しんむら・いずる)編『広辞苑第六版』(ISBN978-4-00-080121-8)によると、「ゼイメイ」という読みは「ゼンメイ」の訛(なまり)とされています。私が考えるに、この訛がここまで定着したのには大きく2つの理由があります。

 1つは、「喘」に続く「鳴」という漢字の読みである「メイ」、つまり「メー」に引きずられて「喘」も「ゼー」と読んでしまいやすいと考えられることです。

 そしてもう1つは、「喘鳴」をきたしている患者が苦しんで「ゼーゼー」言っていることから「ゼー鳴」という読み方が合っているように感じてしまいやすいと思われることです。

 こういった理由があるからこそ、「喘息」は正しく「ゼンソク」と読めるのに、「喘鳴」となると無意識のうちに「ゼイメイ」と読んでしまうことになるのでしょう。


 ですが、いくら「ゼイメイ」も辞書に載っているとは言え、やはり用語は正しく使うよう努めるべきでしょう。ですから、皆さんも、もし風邪などで息が苦しくなることがあったら、ぜひとも

   「喘鳴(ゼンメイ)

と正しい用語で医師に説明なさるよう心がけて戴きたいと思います。


(続く)


平成26年(2014年)甲午年賀

 皆さん、明けましておめでとうございます。

 このブログも最近めっきり更新頻度が落ちてしまい、汗顔の至りに存じます。

 本年は気持ちを新たに更新に努めますので、どうぞ折に触れてお立ち寄り戴けますようお願い申し上げます。


 遅れ馳せながら、本年(平成26年(2014年)甲午)のご挨拶として、今年の年賀状に使用したネコイラストをお届け致します。イラストに添えた短歌が読みづらいかと存じますので、横に活字でも記しておきます。

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木絵馬07イメージ

























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 ここで、皆さんはきっとこんな疑問をお持ちになるに違いありません。

   「『絵馬』は普通『えま』って読むんじゃない?」

 おっしゃる通りです。ですが、私は今回、敢えて「えうま」と読むこととしたのです。


 なぜそのようにしたかについては、この短歌に隠された「もう一つの意味」に気付けばおわかりになることでしょう。

 これまでの記事をお読みになっている方であれば、きっと「ははぁ」と察しがつくことでしょう。

 そうです。この短歌には今年の干支である「甲午」の音読みと訓読みが詠み込んであるのです。

 どこに詠み込んであるかは、きっとおわかり戴けることと存じます。


 では、今年もよろしくお願い申し上げます。


読み間違いの多い漢字・医学編(2) ー 「増悪」

 読み間違いの中には、間違えて読んだために別の言葉と誤解されてしまうものがあります。今回はそういう例を拾ってみましょう。


 これは必ずしも医学の専門用語ではないのですが、医療現場において使用される頻度が極めて多い言葉です。病気の症状などが悪化していくことを表す言葉ですが、皆さんはこれをどうお読みになりますか?

   「増悪」

 
 恐らく、答えは2通りに絞られるでしょう。それは

   「ゾウアク」



   「ゾウオ」

の2つです。

 これは、むしろ漢字に対する意識が高い人の方が間違えやすいかも知れません。

 実は正解は

   「ゾウアク」

なのですが、これを

   「ゾウオ」

と読んで涼しい顔をしている専門職も少なからず見受けられるのです。恐らく、そのように読んでしまう人には、「『悪』という漢字には『アク』だけじゃなく『オ』という読みもあるのだ」という意識が強いのではないかと思われます。そのため、素直に「アク」と読めばいいものをわざわざ間違えて読んでしまうわけです。


 ところが最初に述べましたように、この読み間違いには単なる間違いでは済まず、違う言葉と受け取られて誤解を生んでしまう危険があるのです。

 なぜなら、「ゾウオ」と読む言葉には字がよく似た

   「憎悪(ゾウオ)」

という言葉があるからです。これは「増悪」とはかなり意味の異なる言葉ですので、実際には取り違えることは少ないかも知れませんが、非常に悪い意味合いであるだけに、誤解を招くと厄介なことになりかねません。

 「増悪」と「憎悪」は互いに字もよく似ているのですが、同じ読みをすることはなく、厳格に区別して用いなければならない言葉です。


 では、医学用語では「悪」を常に「アク」と読んでいればいいかと言えば、面倒なことにそういうわけにもいかないのです。

 例えば、寒気がすることを

   「悪寒」

と言いますが、これは

   「オカン」

と読むのが正しく、

   「アクカン」「アッカン」

などとは読みません。


 それに、さらに厄介なことに、「読み方によって意味が変わる言葉」さえあるのです。

 それは

   「悪心」

という言葉です。これは

   「オシン」

と読むと「気持ち悪くて吐き気がする状態」を表しますが、

   「アクシン」

と読むと「悪い心」ということになって、意味が全く変わってしまうのです。


 このように、「悪」という漢字を「アク」としか読まないもの、「オ」としか読まないもの、はたまた両方に読むが意味が違ってくるもの、という具合に様々な場合があるわけです。

 これは、「一つの文字に複数の読み方がある」という日本語の特徴から生じる問題であり、他の言語にはほとんど見られないものであろうと思います(中国語にはわずかにそういう例があります)。

 私たちは日本語を使う際に、大変ではありますが、この問題を意識して言葉を適切に使い分けていかなくてはならないのです。


(続く)


読み間違いの多い漢字・医学編(1) ー 「褥瘡」

 医療の現場では一般に馴染みのない用語が使われることが多く、その中には書くのが難しい漢字も多いのですが、「読み」が難しい漢字も多いのです。「書き」の場合には記録に残るため、間違いも発見されやすいのですが、「読み」の間違いですと聞き流されてしまいやすいため、なかなか自覚できないことがあります。聞いている側も「何かおかしいな」と思っても、

   「まあ、似ているからいいや」

というような感じで済ませてしまうことが多々ありますので、必ずしも指摘してくれるとは限りません。そのため、間違った読み方をしてしまっても、それに気付くことなく延々と同じ間違いを繰り返す人が少なくないのです。医師や看護師といった専門職であっても例外ではありません。

 これから、そういった用語の例を拾っていきましょう。


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 まずとりあげるのは

   「褥瘡」

です。この言葉は「床ずれ」と同じ意味で、寝たきりの人などで背中や尻の皮膚が体重で圧迫されて血の巡りが悪くなったために起こる皮膚障害のことを指します。医学書によっては、「皮膚のきず(創)なのだから、『褥瘡』ではなく

   『褥創』

と書くべきだ」と主張していることもあります。

 いずれにしても読み方は同じなのですが、この用語はどう読むのが正しいのでしょうか?

 知っている人にとっては、実に簡単で間違えようもないことのように感じられることと思います。ですが意外にも、これを間違えて読んでいて、それを正しいと思い込んでいる人が結構いるのです。皆さんは如何でしょうか?


 実は、この言葉は

   「ジョクソウ」

と読むわけですが、これを

   「ジュクソウ」

と間違えて読む例が少なからず聞かれるのです。

 これと同じ漢字を使った

   「産褥(サンジョク)」

という言葉も、間違えて

   「サンジュク」

と読まれることがあります。また、医学用語ではありませんが、

   「修飾(シュウショク)」

という言葉も

   「シュウシュク」

と読み間違えられることが少なくありません。


 このように、「ジョク」(または「ショク」)を「ジュク」(または「シュク」)と間違えてしまうという例は他にもあるものと思われます。

 原因として明らかなものは考え難いのですが、恐らくは「ョ」と「ュ」の音が似ていることが最も大きいのではないかと思います。

 ただ、日常生活でよく使われる

   「侮辱(ブジョク)」

   「就職(シュウショク)」

のような言葉の場合は滅多に間違えませんので、単に発音が似ているだけではなく、

   一般に使用頻度が低い

ということも間違えやすい要因の一つということになるのでしょう。


(続く)


「いろは」について(4) ー 「いろは歌」以外のイロハウタ

 この項の最後として、「いろは歌」以外のイロハウタをご紹介しようと思います。

 「『いろは歌』以外のイロハウタ」と言うと矛盾しているようですが、矛盾ではありません。「イロハウタ」という言葉は、狭義では『いろはにほへと・・・』の「いろは歌」を指しますが、広義では「全ての仮名の音を一回ずつ使って作られている歌の総称」として使われる場合があるからです。


 この「広義のイロハウタ」に属するものは、実は「いろは歌」が最古ではなく、それ以前にも幾つかの手習い歌があったことがわかっています。

 「いろは歌」以前に成立していたものとしては、次の「大為尓(たゐに)の歌」と「阿女都千(あめつち)の歌」とがあります。


   「大為尓の歌」

     たゐにいて なつむわれをそ

     きみめすと あさりひゆく

     やましろの うちゑへるこら

     もはほせよ えふねかけぬ



     (解釈)

     田居に出で。 菜摘む我をぞ。

     君召すと。 求食り追ひ往く。

     山城の。 打酔へる児ら。

     藻干せよ。 得舟繋けぬ。
(*1)



   「阿女都千の歌」

     あめ つち ほし そら

     やま かは みね たに

     くも きり むろ こけ

     ひと いぬ うへ すゑ

     ゆわ さる おふせよ

     えのえをなれゐて
(*2)


 どちらの歌も、「全ての仮名の音を一回ずつ使って作られている歌」という条件を満たしてはいます。ですが、その内容はと言えば、ほとんど意味不明です。「阿女都千の歌」に至ってはただの単語の羅列に過ぎず、それさえも4行目の後半で既に崩れ出している有様です。つまり、これらの歌には歴史的な意味はありますが、歌としての価値は「いろは歌」の足元にも及ばないと言ってよいでしょう。


 では、「いろは歌」以後についてはどうでしょうか。


 江戸時代には本居宣長(もとおり・のりなが)による「雨降れば(雨降歌)」という歌があります。ほぼ五七調に従っていて意味も通るように作られてはいますが、字句の切れ目と意味の切れ目が一致せず、ややわかりにくいと思われます。


    「雨降れば」

      あめふれは ゐせきをこゆる

      みつわけて やすくもろひと

      おりたち うゑしむらなへ

      そのいねよ まほにさかえぬ



      (解釈)

      雨降れば 堰関を越ゆる

      水分けて 安く諸人

      降り立ち 植ゑし群苗

      その稲よ まほに栄えぬ



 それ以後では、坂本百次郎による「鳥啼歌(とりなくうた)」が最も有名です。


    「鳥啼歌」

      とりなくこゑす ゆめさませ

      みよあけわたる ひんかしを

      そらいろはえて おきつへに

      ほふねむれゐぬ もやのうち



      (解釈)

      鳥啼く声す 夢覚ませ

      見よ明け渡る 東を

      空色映えて 沖つ辺に

      帆舟群れ居ぬ 靄のうち


 これは、1903(明治36)年に当時の新聞がイロハウタを募集した際に第一等に選ばれた作品であり、一時は「いろは歌」と同様に使われていたとのことです。いろは四十七字に「ん」を加えた48字で完璧な七五調にまとめられていて、しかも内容も格調高く覚えやすい歌であり、何とも流石と言う他にありません。

 私は長いこと、この「鳥啼歌」が現代の最高のイロハウタだと思っていましたが、最近、これに優るとも劣らぬ歌に出会いました。


   「つわのいろは」(*3)

                                                        安野 光雅 作


     夢に津和野を思ほえば

     見よ城跡(しろあと)へうすけむり

     泣く子寝入(ゐ)るや鷺(さぎ)舞ふ日

     遠雷(ゑんらい)それて風たちぬ



 こうなると、さらに「現代仮名遣いでのイロハウタ」ができないものかと期待したいところですが、これは残念ながら無理という他にないようです。なぜなら、現代仮名遣いでは原則として「は行」の仮名を「わ行」のように読むことができず、「ゐ」や「ゑ」も使えないので自由度が大幅に制限されるからです。

 ですが、もしこれを成し遂げることができる人が現れたなら、きっとその人の名は後々まで語り継がれるであろうことは間違いありません。


(この項終わり)

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(注)

(*1)
 小松英雄『いろはうた 日本語史へのいざない』、講談社学術文庫(ISBN978-4-06-291941-8)、2009年、92頁。
 原文の『あさりひゆく』の部分が『求食り追ひゆく(あさりおひゆく)』と解釈されているのは、この「大為尓の歌」を研究した大矢透によって「お」が補われたためです。
 詳しくは上記文献をご参照ください。

(*2)
 小松英雄『いろはうた 日本語史へのいざない』、講談社学術文庫(ISBN978-4-06-291941-8)、2009年、140頁。
 「え」が2つあるのは、当時「え」という仮名が「ゑ」の他に2種類あった(「あ行の『え』」と「や行の『え』」)からです。
 詳しくは同文献の 144 - 145頁をご参照ください。

(*3)
 竹内政明『名文どろぼう』、文春文庫(ISBN978-4-16-660745-7)、2010年、17頁。


「いろは」について(3) ー 「いろは歌」の暗号説

 ここで、「いろは歌」について取り沙汰されている「暗号説」にも触れておきましょう。これは、「『いろは歌』には作者の仕組んだ暗号が隠されている」とする説です。


 「いろは歌」は通常、その意味の区切りに合わせて次のように書き表されます。


   いろはにほへと ちりぬるを

   わかよたれそ  つねならむ

   うゐのおくやま けふこえて

   あさきゆめみし ゑひもせす



 ですが、現存する最古の「いろは歌」とされている『金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)』(1079年)においてのそれでは、意味に関係なく頭から7文字ずつに区切った形で書かれています。平仮名で示すと、次の通りです。


   いろはにほへと

   ちりぬるをわか

   よたれそつねな

   らむうゐのおく

   やまけふこえて

   あさきゆめみし

   ゑひもせす


 この7字区切りの形で、各行の末尾の字をつなげると

   いろはにほへ

   ちりぬるをわ

   よたれそつね

   らむうゐのお

   やまけふこえ

   あさきゆめみ

   ゑひもせ

     → とかなくてしす


となりますが、これに濁点を補って読むと

   とがなくてしす」 → 咎無くて死す

と読めることから、これが作者の仕組んだ暗号ではないかと言われているのです。


 しかも、この「暗号説」は「咎無くて死す」の解釈の仕方によって2通りに分かれるのです。

 一つ目の解釈は、「咎無くて死す」を「疚(やま)しいことなく生涯を終える」というような、いい意味で解釈するものです。

 これは「理想的な人生」を表していると考えられ、「いろは歌」の境地に至った者は結果として「咎無くて死す」ことによって理想的に生を終えるのであると解釈するのです。つまり、「いろは歌」には「理想的な人生」という意味も意図的に盛り込まれていると考えるわけです。

 私はこの説に対しては2つの理由で賛成できません。一つは、「あまりにもでき過ぎているから」です。いくら「いろは歌」の作者が優れた才能を持っていたとしても、ここまで凝った仕掛けをすることはできないと思います。そして、もう一つは「暗号にする必要がないから」です。このような意味合いであるならば、初めから堂々と歌に詠み込めばいいわけで、わざわざ暗号化する必要はありません。もしこれが暗号であるとするならば、それだけの才能を持った作者がなぜ、歌自体にその意味を盛り込まなかったのかが不可解です。きっとその方が容易だったでしょう。

 二つ目の解釈は、「咎無くて死す」を

   「無実の罪で処刑される」

というとてつもなく悪い意味で解釈するものです。

 これであれば、「いろは歌」の内容と全くそぐわず、まさに「暗号らしい暗号」と言えます。

 この解釈をもとにして、「咎無くて死」した人物を柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(生没年未詳)と推定し、「『いろは歌』は無実の罪で処刑されようとしていた柿本人麻呂が残した、暗号による遺書である」という説を主張する人がいます(*1)。

 また、有名な人形浄瑠璃である『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』も、この暗号を意識して書かれたものであるという説があります。『いろはうた 日本語史へのいざない』の著者である小松英雄は同書の中でこの説に触れ、(『仮名手本忠臣蔵』という作品は)『咎無くして罪を受け、死んでいった赤穂の義臣四十七士を四十七字の仮名手本、すなわち以呂波(*2)に引き当てたもので、一七四八年初演であるから、すでにそのころには「咎なくて死す」が一つの常識のようになっていたらしい(*3)』と述べています。


 さて、これだけ色々と話題になっている「咎無くて死す」暗号説ですが、本当のところはどうなのでしょうか?

 前出の『いろはうた 日本語史へのいざない』では、『金光明最勝王経音義』において「いろは歌」が7字区切りで書かれた理由について、長い論考の上、次のような結論が示されています。

 「『いろは歌』の各仮名は、読み上げる際の声調の高低によって2つに分類される。『いろは歌』を何文字かずつに区切ると、その高低の配列がパターンを形成する。手習い歌として声調の学習に用いるためには、そのパターンが各行で異なるようにする必要があった。そのようにするために最も適していたのが7字区切りであった。47文字は7で割り切れないので、最後に5文字余ることになるが、この部分は手習い歌としては用いられなかった」

 つまり、「いろは歌」が7字区切りで書かれたのは、その形に(高低の)旋律をつけて読み上げるためであったというわけです。

 そうなりますと、この理由と暗号説を結びつけるのはやはり無理だと断ぜざるを得ません。なぜなら、「いろは歌」が7字区切りで書かれる理由が作者の関与するものと考えられない以上、作者がそれを見越して暗号を仕組むことなど不可能であるからです。

 結論としては、「いろは歌」には暗号など仕組まれてはおらず、「咎無くて死す」と読めたのは単なる偶然に過ぎなかったということとなります。


 「とかなくてしす」の他にも、7字区切りの形の各行5文字目を読んで「ほをつのこめ(本を津の小女)」、つまり「本を津にいる妻へ届けよ」という暗号だとする説もありますが、結局これも同じ理屈で否定されることになります。


(続く)

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(注)

(*1)
 小松英雄『いろはうた 日本語史へのいざない』、講談社学術文庫1941 (ISBN978-4-06-291941) 、2009年、56頁。

(*2)
 この本では「いろは歌」のことを『以呂波』と表記しています。

(*3)
 小松英雄『いろはうた 日本語史へのいざない』、講談社学術文庫1941 (ISBN978-4-06-291941) 、2009年、55頁。赤字は、同書での傍点を宮田が赤字に改変したものです。

(*4)
 小松英雄『いろはうた 日本語史へのいざない』、講談社学術文庫1941 (ISBN978-4-06-291941) 、2009年、84-85頁。

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ある日の寄席にて



爪亭八爪(つめてー・やつめ)(師匠):「八楼、おめぇまた座布団なしか! だいたいおめぇは日頃の修行がなってねぇんだ」

爪亭八面(つめてー・やつら):「そうだな。 稽古にしろ古典の研究にしろ、象みてぇにきちんと地に足つけてしなきゃな」

爪亭八空(つめてー・やから):「それで言やあ、おめぇなんかはまるで兎だもんなあ」

爪亭八楼(つめてー・やろう):「へ? 兎? あっしがでやんすか?」

八爪:「おめぇの他に誰がいるんでぇ」

八楼:「あっしが兎ってぇのはいってぇどういうことでやんしょ? あっ、もしかしてカワイイとか?」

八面:「んなわけあるか!」

八楼:「するってぇと、あぁ、さては兎みてぇにゼツリ バシッ! いてっ」

八爪:「いい加減にしろぃ! おめぇ、『サンジュウトガ』って知っとるか?」

八楼:「はぁ、それはそれはご愁傷さまで・・・」

八爪:「何のことでぇ」

八楼:「何って、『三重に咎(とが)を被る』ってことでやんしょ?」

八爪:「バーロー!! おめぇはそんなこったから兎みてぇだって言われるんでぇ! いいか、『三獣渡河(サンジュウトガ)』ってぇのはな、物事の修行の態度を3つの獣が河を渡る様子に例えたもんだ」

八楼:「するってぇと、さっき言ってた象ってぇのも?」

八爪:「そうでぇ。 三獣ってぇのは象と馬と兎で、象は河底にしっかり足をつけて渡る。馬は足をつけたりつけなかったりしながら渡る。そして、兎は初めっから最後までフラフラ浮かんだまま渡るっちゅうわけだ。どういうことかわかるか?」

八楼:「そりゃ、兎が一番泳ぎがうめぇっちゅう」

八爪:「わかってねぇな。 『三獣渡河』ってぇのは元々仏教の修行から来てて、深く仏道を極めて悟りに至るのを象に例えて『菩薩道(ぼさつどう)』って言ったりするんでぇ。 それにくらべて浅いのを馬に例えて『縁覚道(えんがくどう)』、一番浅いのを兎に例えて『声聞道(しょうもんどう)』って言ったりするな。 大学で言やぁ、ゼミや教授室に通いつめ、自分で研究テーマを掘り起こして自分なりの解答を与える論文書いて卒業するようなのを象とすれば、大学は「卒業証書をもらうための所」と割り切って、バイトやサークル活動に明け暮れ、単位だけはそつなく取って卒論は誰かのコピペ(コピー&ペースト)で済ましちまうようなのを兎って呼ぶわけでぇ」

八面・八空:「さすが師匠! 学がありやすなぁ」

八爪:「今頃わかったんか?! 噺家なら、落語の道を極めなきゃなんねぇ。 落語を通じてお客さんに笑いと癒(いや)しを与えなきゃいけねぇんだ。 ようし! そんなわけで、今回のお題は『癒し』と行こう! 『癒し』をテーマに何かひとこと言って戴くってわけだ。 さぁどうだ?」

八面:「はいっ!」

八爪:「よし八面!」

八面:「疲れたら 鴨のごはんだ カモミール」

八爪:「ほぉぉ、カモミールってなそういう意味だったんかい? 勉強になるなぁ(八面:「ウソに決まっとろーが」)。 よーし、座布団1枚やれ」

八面:「よっしゃあ!」

八空:「へいっ!」

八爪:「はい、八空」

八空:「『リラックマ』 ちょっと怒ると 『イラックマ』」

八爪:「カワイイじゃねぇか。 癒されるねぇ。 よし座布団2枚!」

八空:「やりぃ」

八楼:「へ、へぃっ!」

八爪:「よーし八楼、行ってみな!」

八楼:「『フットバス』 点々つけると 『ブットバス』」

八爪:「ブットバスぞこの野郎」

八楼:「な、なんでだぁー!」

八爪:「つまらん! それに、いってぇどこが『癒し』だ? ぁあ?!」

八楼:「でやんすから、そ、その・・・フットバスが・・・」

八爪:「へぇぇ、そうけぇ! ブットバスのが『癒し』かい?」

八楼:「い、いえっ! 『フットバ・・・」

八爪:「そうかいそうかい! ブットバスのが『癒し』なんだな?! ようし! おい、お前たち。 こいつ相当疲れてるようだから、お前たちで目一杯『癒し』てやれ!!」

八面:「へぇ、任しておくんなせぇ」 ポキポキ ポキポキ

八空:「さぁ、一緒に路地裏に行こうか」 ポキポキ ポキポキ

八楼:「な、何だてめぇら! は、離せっ! やめろー、やめてくれーー!!」



※ その後、八楼の姿を見た者はなかった。



八楼:「な、何であっしがこんな目に・・・」


「いろは」について(2) ー 「いろは歌」の解釈

 さて、「いろは歌」の原文は以上の通りですが、その意味はどう解釈すればよいでしょうか?

 「いろは歌」成立当時の日本語には濁点や半濁点はなく、それらは読む者が適宜つけ加えて解釈していたわけです。もっとも、仮名が作られた当初は清音と濁音とを書き分ける試み(「か」を「可」で書き、「が」を「我」で書き表して区別するなど)も行われていましたが、それも後になくなってしまいました。

 ですから、「いろは歌」を解釈するには、私たちが適切に濁点・半濁点を補う必要があるのです。


 一般に、「いろは歌」は次のように読むとされています。


   いろはにほへど ちりぬるを

   わがよたれぞ つねならむ

   うゐのおくやま けふこえて

   あさきゆめみじ ゑひもせず



 漢字仮名交じり文で表すと以下の通りです。


   色は匂へど 散りぬるを

   我が世誰ぞ 常ならむ

   有為の奥山 今日越えて

   浅き夢見じ 酔ひもせず



 この文を見ると、これだけでも何となく言いたいことはわかるような気がしますが、難解な箇所がある(特に後半)のも確かです。


 平安時代後期の僧・覚鑁(かくばん、1095-1143)は、『密厳諸秘釈(みつごんしょひしゃく)』という書の中で「いろは歌」の解釈に触れ、その意味を

   『諸行無常、

    是生滅法、

    生滅滅已、

    寂滅為楽』

と説明しています。

 つまり、言い直せば「全てのものはとどまることなく絶えず移り変わっていく。これが物事の生まれそして滅していく法則なのである。この生滅の法則はすでに滅した。この滅したことを大楽と為すのである」ということであり、「涅槃経(ねはんきょう)」の中の「無常偈(むじょうげ)」の意訳であると解釈したのです。

 この覚鑁の解釈は有名ではありますが、まだ定説となっているわけではありません。それに、難解であるという点では「いろは歌」本文と大差なく、一般には受け入れられ難いものと思われます。


 そういうわけで、現在のところ、「いろは歌」の現代文での解釈に「定番」と言えるものはないようですので、浅学菲才を顧みず、ここで私なりの解釈を試みようと思います。

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宮田篤志による「いろは歌」解釈

 色(しき)、つまりこの世の全ての形(かたち)あるものは、美しい香りを放つことがあっても一時(ひととき)であり、いずれ散って消え去ってしまうものであるという事実を見れば、この我々の世界でいったい誰が常態を保っていられようか。
 この、深山にも例えられる越え難きこの世の無常を、今日ようやく超克したからには、もはや浅い夢さえも見ることはなく、幻に酔うなどということもないであろう。


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 ご批判は多々あろうかと存じますが、私は今のところ「いろは歌」をこのように解釈しております。


 ただ、「いろは歌」の読み方には、少なくとも2箇所に大きな問題があり、それらの読みようによっては違う解釈が成り立つ可能性があるのです。

 一つは、冒頭の『いろは』の読み方の問題です。

 一般的には3文字目の『は』を助詞と見なし、

   「色は」

と読んでいます。しかし、それですと「『色』とはいったい何の色なのか」という素朴な疑問が生じてしまうのです。花の色か葉の色か、はたまた女性の容「色」のことか、それこそ「色々な」推測はできますが、どうしても曖昧な点が残ります。そこで私は、この『色(いろ)』を般若心経(はんにゃしんぎょう)に出てくる『色(しき)』、つまり「この世の全ての形あるもの」と解釈して曖昧さを排除したわけです。

 ですが、もしここで『いろは』を

   「色葉」

と読むこととすれば、これでも曖昧さは解決してしまうのです。葉が「匂へど」というのはやや変な印象もありますが、絶対におかしいということはありません。この「色は」と「色葉」のどちらが正しいかについても定説はないのです。

 二つ目の問題は、第4行の『あさきゆめみし』の『し』の読み方についてです。

 既に述べました通り「いろは歌」成立当時は濁点というものはありませんでしたので、それは読む者が適当に付け加えて読んでいたわけです。だからこそ、この『し』も「じ」と読まれて

   「浅き夢見じ」

と解釈されるのが一般的になっているのです。ですが、ここであえて濁点を付けずに

   「浅き夢見し」

と読んでみたらどうでしょうか。意味はほぼ逆(「見じ」だと「見まい」という否定の意思を表すが、「見し」だと「見た」という過去を言っていることになる)になりますが、通じないということはないのです。これは「いろは歌」全体の解釈にも関わる重大な違いですが、やはりどちらが正しいという定説はありません。


 結局のところ、「いろは歌」は仏教的な無常感を歌ったものである点についてはほぼ間違いないと考えられますが、細部においてはどうしても曖昧な点が残り、解釈に異論の余地が生じてしまうのが現状なのです。


(続く)

「いろは」について(1) ー 「いろは歌」と「いろは順」

 このブログも始めてから早くも1年が過ぎました。そこで、初心に返る意味も含めて、日本語の基本である

   「いろは」

について考えることと致しましょう。


 「いろは」とはよく「物事の基本」という意味合いで使われる言葉ですが、元はと言えば「いろは歌」、つまり「『ん』を除く全ての仮名の音(*1)を1回ずつ使って作られている歌」のことから来ています。「ん」が入っていないのは、この「いろは歌」が作られた当時にはまだ「ん」という仮名がなかった(「む」と書かれていた)からですので、当時としては「全ての仮名の音を使っていた」ということになります。

 この「いろは歌」は、日本で最も有名な手習い歌であり、その仮名の並び順は「いろは順」と呼ばれ、今でも項目を数え挙げる際に

   「(イ)、(ロ)、(ハ)、・・・」

のようによく使われています。

 昔は何と、辞書まで「いろは順」に従っていたそうで、その成立は五十音順(アイウエオ順)の辞書よりも古かったのです。つまり、当時の人々にとっては五十音順よりも「いろは順」の方が親しまれていたというわけです。


 それだけ広く日本に普及していた「いろは歌」ですが、残念なことに、現在は最後まで間違えずに言える人が少なくなってきているようです。皆さんは如何でしょうか?

 ここで一度確認しておきましょう。


   いろはにほへと ちりぬるを

   わかよたれそ つねならむ

   うゐのおくやま けふこえて

   あさきゆめみし ゑひもせす



 今はめっきり使用する機会が減っていますが、まだまだ「日本人としての最低限の教養」などと言われることもあるくらい基本的なものですので、うろ覚えの方はここでしっかり覚え直しておかれることをおすすめ致します。

 ただ、「いろは歌」が成立した当初は、まだ平仮名などは作られていませんでしたので、書き方は上の通りではなく万葉仮名(*2)で書かれていました。その当時の雰囲気を味わうために、一例として「平仮名の元になった漢字」を使った万葉仮名で書いてみましょう。

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いろは歌




















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   以呂波仁保部止 知利奴留遠

   和加与太礼曽 
(*3)弥奈良武

   宇為乃於久也末 計不己衣天

   安左幾由女美之 恵比毛世寸


                                      暠純書(「暠純(こうじゅん)」は私の雅号です)



 「いろは歌」の作者は弘法大師空海(こうぼうだいし・くうかい)と言われていますが、実際はほとんど否定的です。「いろは歌」の内容が無常感を表していると解釈され、仏教の教えに通じることから、「全ての仮名の音を1回ずつ使うという厳しい制約のもとで、これだけの深い内容を表現できる人と言えば空海しかいない」というような考えで、空海作と伝えられているものと考えられます。「いろは歌」の真の作者については、小松英雄(こまつ・ひでお、1929-)がその著書『いろはうた 日本語史へのいざない』(ISBN978-4-06-291941-8) の 196頁において『真言宗系の学僧と推定される』と述べています。少なくとも、空海の存命していた時代よりも百年以上後にできたことはほぼ間違いないものとされています。


 なお、「いろは歌」には「ん」が入っていないため、47文字となっており、現代の仮名の数と合わないとの理由から、末尾に「ん」を付け加えることがありますが、これは正式な「いろは歌」ではなく、もちろん「いろは順」としても正しくありません。

 ところで、「いろは歌」を使ったものとして「いろはかるた」というものがありますが、これは現代の仮名の数と同じ48枚になっています。「いろは歌」は47文字しかないのに、なぜ48枚なのでしょうか?

 これには意外に知られていない事情があるのです。

 1枚多いからには、何か「いろは歌」にない文字が一つ加わっているわけですが、いったい何の文字が加わっているかおわかりになりますでしょうか? これに即答できる方はかなり日本語に造詣の深い方に違いありません。

 日本語には原則として「ん」で始まる言葉はないので、答えは少なくとも「ん」ではありません。おそらく、これは知らなければ幾ら考えても正解には辿り着けないでしょう。

 実は、正解は

   「京」

という字であり、1つだけ漢字が入っているのです。「京」に対しては「京の夢大坂(*4)の夢」とか「京に田舎(いなか)あり」という諺(ことわざ)が割り当てられています。なぜ最後に「京」という文字が付けられているのかについては、「東海道五十三次の終点が京都三条大橋だから」という説と、「拗音(ようおん)(『ゃ』、『ゅ』、『ょ』の音)を代表させる意味で『きょう』と読む字を入れた」という説があります。この「いろはかるた」のならび順のように、「いろは歌」の最後に「京」の字を付け加えた並び順を「いろは順」と呼ぶ場合もあります。


(続く)

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(注)

*1:
 ここで『全ての仮名』と書かずに『全ての仮名の音』と書いた理由は、その当時には「1つの音に対応する仮名が複数あった」からです。例えば「い」という音に対応する仮名には「い」の他に「以」、「伊」、「意」、「移」などの漢字から作られた

変体仮名「い」-1






















のような仮名が沢山あり、これらも「い」と同様に普通に使われていたのです。ですから、『全ての仮名』と言ってしまうと、これらの仮名もみな含むことになってきりがなくなってしまうので、具合が悪いわけです。


*2:
 万葉仮名とは、「漢字を、本来の意味と関係なく仮名的に、つまり、単なる表音文字として用いたもの」のことです。特に万葉集がほとんどこれで書かれているため、このように呼ばれます。ですから、万葉仮名は仮名ではありますが、それ単独で見た場合、漢字との区別は全くできません。つまり、例え楷書で書かれていても、万葉仮名は仮名であり、漢字ではないのです。書体は関係ないのです。万葉仮名か漢字かは、その前後の文字の連なりから判断するしかないことになります。


*3:
 一般に、「つ」の元になった漢字は「川」とされていますが、これについては国語学者の江守賢治(えもり・けんじ)が幾つかの根拠を挙げて「『川』ではなく『門』である」と主張しています。私も江守説に同意していますので、ここでは『門』と書くことと致しました。


*4:
 「オオサカ」は今は「大阪」と書かれますが、この表記は明治初期に変えられたものであり、それ以前は「大坂」と書かれていました。そのため、ここでは『大坂』と書くことと致します。


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日本語および、日本に関すること全般が好きです。特に好きなもの:折紙、書道、けん玉。