森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

「情けは人のためならず」に思う

2021-07-20 14:50:19 | 人類の未来

リタイア後、趣味で声楽を一所懸命やってきました。愛好家部門ですがコンクールで、オペレッタでは1昨年1位、オペラでは昨年2位になりました。昨年からシャンソンを歌うようになり、今年はシャンソン・コンクールの参加をいくつか予定しています。でも明日7月21日は、第1回国際声楽コンクール東京があって、愛好家部門ではなく音大生、声楽家を含む一般の歌曲部門に出てO del mio amato benを歌います。埼玉予選で川口市リリア音楽ホールで夜7時30分ですが、正直合格か不合格か半々と思っています。

生物学では、カザリシロチョウを使った分子系統研究から種問題に発展し、さらに関連して「人間の持つ利己性と利他性」について思考を深めてきました。今年4月の市民シンポジウムでこのテーマを扱ったのは、私にとってはとても大きなプラスとなりました。6月17日に毎日新聞のコラム「くらしの明日」で、近藤克則千葉大学教授の随筆“人に情けを掛ける意味”が掲載されました(添付記事)。

「情けは人のためならず」の意味を尋ねると(ア)人に情けをかけると巡り巡って結局は自分のためになる、が45.8%、(イ)人に情けをかけて助けることは結局はその人のためにならない、が45.7%でほぼ同じとのことです。(イ)が、国語文法上の誤りだと以前から指摘されていますが、この近藤教授は実際場面からそれを示しました。つまり、9万人の高齢者を3年間追跡して色々調べ、ボランティアなどで情けを受けた人は認知症発生率が低くなることを指摘しています。

これはこれでとても興味深いです。でも私の視点はそこではなく、情けをかけることは(ア)しかないのか?という点にあります。言葉を変えれば、人に情けをかけることつまり利他は、結局は自分に返ってくるつまり利己なのかという点です。何もかも全て自分のためなのか?自分の得にならない無償の行為つまり純粋利他は、この世に存在し得ないのでしょうか?

この問題を考えるにあたって、まずハミルトンの包括適応度方程式に突き当たりました。
Fi = Fd + B x r - C
Fiは包括適応度、すなわち未来に生命をつなぐ可能性を示します。Fdは当事者の適応度、Bは他人(の適応度)です。今ある人が、自分の適応度(例えば自分の持つ財力、エネルギーなど)Cを、他人Bに注ぎ込んだとします。つまり利他をすれば、それだけ自分個人は未来に生命をつなぐつまり遺伝子を残す可能性を失うわけです。ところがBも自分と同類の遺伝子を持っています。Bの同類遺伝子の頻度率をrとします。ハミルトンは、B x r > Cの場合のみ、利他は進化する(生き残る)と言ったのです。Cを他人に与えます。自分自身はCだけ、未来に生命をつなぐ可能性を失います。しかし、Cを与えられた他人も自分と同類遺伝子を持っています。この世で利他が存在できるのは、利他のために自分が失った適応度CよりもB x rがより大きい場合のみだと、ハミルトンは断言したのです。この発見で彼は、京都賞を受賞しました。

この方程式は、見れば見るほどすごい方程式です。この世の総ての生き物の存在可能性、つまり生命のあり方を表しています。この地球における生命の仕組みそのものを式に表したといってもいいでしょう。言葉を変えれば、この式は生命方程式と言えるでしょう。また、リチャード・ドーキンスの有名な著作『利己的な遺伝子(The selfish gene)』にある“利己的な遺伝子”は、この世に存在しないことがわかります。生物が持つ利己性とは、単体の遺伝子、あるいは遺伝子の複合による部分的作用ではなくて、生命の仕組みそのものだからです。

こういうと多くの人が反発するでしょう。
「総ての利他は、自分の得のために、自己利益のためにやっているのか!そんなバカな話はない。無償の愛、無償の行為を人は美しいと感じ、感動し、涙した。いつの世でもそうだった。文学を見ろ!歴史を見ろ!それがすべて自分の利益のためにやっていた???自分のためにやっていたのなら、そんな行為に誰も感動などしない!涙など流さない!!」
これを“天動説”といいます。そうありたいから、そう見えるから、人がそう願うから、そう望むからそう見えるのです。“天動説”とは、はっきり言えば間違い、錯覚のことです。なんという話でしょう。全ては自分のためだったなんて・・!人間は、錯覚に感動し、涙してきたのでしょうか。
そうであれば、あまりにも悲しいと、人類の存在価値はどこにあるのか!とすら、私は思います。

ボウルズ&ギンタスが『A cooperative species(協力する種)』という本を上梓しました。上梓は2011年、日本語訳は2017年に出ました。ボウルズもギンタスもハーバード大学で学位をとった著名な経済学者です。両人とも分厚い専門書を何冊も出版した、社会に功なり名をなした方です。その二人がなぜ、70歳を過ぎてからわざわざ利己と利他という専門外の生物学に関わるような本を出版するのでしょうか。

彼らの主張は、ハミルトンの包括適応度方程式が示す人間の利他性は利己の範囲内、ではないと言いたいのです。この考え方に我慢がならないのです。それを言うために、やはり方程式を持ち出し、今度はプライスの方程式ですが、それを用いて利他性が利己を超えて人類に広く広がることを示しました。さまざまの人類社会の事例なども加えた大変な労作です。
70歳を過ぎてのこの心意気は、私はとても高く評価しますが、残念なことに着想がちょっと筋が悪い・・、彼らの主張はこの本の訳者自身すら・・、否定的な解説をしています。
ハミルトンの包括適応度方程式は絶対です。間違いはありません。でも、ボウルズ&ギンタスの心もよく分かります。なぜなら、私と同じ気持ちだからです。彼らの気持ちはよくわかります。人類に対して気概を持つ人間なら誰だってそう思うのじゃないでしょうか。

この人の世に存在する利他性は、全て利己性に基づくものなのでしょうか?では人類が長い間かかって思索を積み重ね見出してきた、善、仁、徳といったものは初めからないものねだりなのでしょうか?ソクラテス、プラトン、孔子・・・、近代ではカント、日本では『善の研究』で著名な西田哲学、それらの全ては人類が最初から持ってもいない夢、幻を追いかけてきたのでしょうか?

この生物学の定説を、覆したいと私は思います。
8月に生物学基礎論(生物哲学)研究会、来年4月に開催予定の市民シンポジウムでこれにチャレンジしたいと思います。

 

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