日本語には漢字、ひらがな、カタカナが存在して、文章には地の分、描写文、会話文が存在する(「3種類の文章を使い分ける」を参照)。
そして、これらをどう配分するかで、その作者の文体は決まってくる。
このブログを始めて間もないころは、漢字や敬語にまで文句をつけてくるとは(笑)、わたしのアルテはあまりにも不自由で、表現の自由に反していると言われたこともあった(これに対する見解は、「敬語を正しく使った方がいい理由」をご参照いただきたい)。
実際、上記の要素(漢字、ひらがな、カタカナ、地の分、描写文、会話文)をどう使うかは、完全に本人の自由である。ただし、自由であるがゆえに、その結果も100%引き受けなければならない。
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多くの作家志望者が、同じような登場人物、同じような世界感を描いている。それなのに、なぜ読んでもらえる作品と読んでもらえない作品に、きれいに別れてしまうのか
それは最初の数行で、「読みにくい、マニアックな、疲れる文章だな~」というマイナスの印象を持たれている可能性が高いからである。
(注:あくまで文学賞の大賞を取るくらいの、一定の基礎力があると仮定したうえでの結論である。)
ブログはあくまでブログなので、判断は慎重にしなければならないが、
ほとんど皆さま例外なく、文章があまりにも難しすぎる。
本当にここまで凝りに凝った難解な文章を、多忙な生活の傍らで、一定のペースで書き続けているのかそう疑問に思えてならない。
やはり手書きではない。
構成から完成まで、ほぼパソコンしか使っていないはずである。
最初のプロット、登場人物の大枠、大まかなストーリー、草稿、推敲、仕上げ、決定稿・・・、どの段階でも、残念ながら、手書きが入っているような形跡はほとんど見受けられない。
(手書きの方が良い理由は、「手書きのススメ」をご参照あれ。)
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難解な漢字、読めない漢字を多用してルビを振り続ける・・・いかにも文学的で、活字好きにはたまらない。その効果をあえて狙って、一定の読者を得ている作家は、わずかながら存在する。
ただし、これから文学賞の大賞を取ってデビューする新人は、やらない方が無難だろう。
なぜなら、日本の文学(純文学からラノベまで)は、より簡潔で、よりわかりやすい文体を求める傾向が非常に強い。
世界的にそうなっているが、日本はその傾向がきわめて顕著で、年々拍車がかかっており、後退する可能性はほとんどない。
つまり、難解な漢字やルビを多用した文章は、あまりにも時代遅れなのだ。
登場人物の性格、ストーリー、伏線、全体の構成、山場、結末、取材による裏付け、的確な推敲・・・これらの方がはるかに大事である。
考えなければならないことは山ほどあるのに、悪い意味でマニアックで、読みにくいと一刀両断されるリスクを犯してまで、なぜ難解な漢字やルビにこだわるのか何もメリットはない。
凝るべきは漢字やルビではない。小説や物語の内容である。