人は美しいものに目を魅かれ、心を奪われるものである。
それは、出会った瞬間に心を揺さぶられるもので、そこにはどんな説明もエビデンスもいらない。
これが美しさの定義かもしれない。
1930年以降、自由主義(リベラリズム)という思想が強く語られるようになり、それは多様性に象徴とされる一部の政治思想に留まらず、芸術の分野においても跋扈するようになった。
リベラルの美しさは時に非常に難解で、長い説明が必要であったり、時に個人的背景を知ることでのみ理解できるものであった。
もちろん1910年代から前衛美術という自由な創作は始まっていたのだが、シュールレアリスムや抽象絵画のそれは、伝統的手法が裏付けにあった上での先端性であり奇抜性であった。
伝統や技術的基礎の裏付けがない美しさには、調和性の欠如、つまりフラクタル構造がない。その不規則性の不快さを乗り越える説明(言い訳)が必要となってくる。
得てしてその言い訳はとても長く、無駄に難解である。
神の創造とも思える自然界の物はフラクタル構造(ミクロとマクロの幾何学的相似性)で成り立っている。
雪の結晶、人間の細胞、宇宙の構造、そのすべてが不思議なほどに幾何学的相似性を有している。
だからこそ自然界の一部である私たち人間は、その美しさに安堵し、直感的に理解し、瞬時に感動できるのであろう。そこには無駄な説明など必要ないし、真実に言い訳など当然無用である。
昨今では、リベラルのでたらめさや嘘が露呈すると共に、神なる自然への畏敬、伝統への回帰が進んでいるように思う。
そこにある本当の美しさは、芸術分野だけでなく、あらゆることに通ずる道である。
極めればそれはスポーツも然り、料理やその作法も然り、建築やその他のあらゆる物づくりも然りである。
当然私が従事しているトリートメント技術においても然りである。
当セラピストスクールの授業においても、施術のリズムや形など、その美しさが伝統と基礎に裏付けられているのかということが大切な要素になってくる。
今は亡き和食の料理人だった父の口癖が心に響く。
「どんなことも美しさが大切だ」
イングリッド・バーグマンと歌舞伎鑑賞が大好きな父だった。
私がこの言葉の意味に気づくには少し時間が掛かってしまった。
今夜はAmazon Primeで「カサブランカ」でも観ることにしよう。
明日の美しい夢をみるために・・・。