教師を辞めよう! |   八女でゆったり 一日一生

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          子どもが好きだから小学校教員になりました
                   未知の世界を見たくて海外に飛び出しました
                    現在はお茶どころ福岡県八女市に住んで世界とつながっています

承認欲求の強かった私は、
校内の分掌の仕事や
研究部会の役職などを積極的に引き受けました。

目標にしていた『良い教師』になるために
放送大学の大学院で専修免許を取得し、
教育カウンセラーや音楽療法士の資格も取りました。

すると
「不登校の子のカウンセリングをしてほしい」
「音楽の授業をみてほしい」
とさらに仕事が増え、
当時の教頭に
「世間では『芸は身を助く』っていうけど、
 教師の世界では『芸は身を滅ぼす』だよ」
と言われました。

先を見通さずにそんなことをしていたために多忙で
自分でもどんどん仕事の質が落ちていくのがわかりました。


目の前のことをやるのに精一杯で
授業のアイディアが浮かんでこない、
振り返りをする時間がとれないから成長を感じられない、
楽しかった分野の仕事まで楽しくなくなり、
だんだん「良い教師になるぞ!」
という意欲もなくなっていきました。
 

 

「教師を辞めよう!」
と最初に思ったのは、
ある大きな研究大会の事務局をやった時です。

睡眠時間も家族との時間も、
時には本業である授業の時間も削って
事務局の仕事を「やらされ」、
ノイローゼになるほどでした。

最後の方は、
コピーの取り方がわからなくなって、
身の危険(脳の危険?)を感じました。

研究大会は無事に成功し、
1年半これに打ち込んだ私は
研究大会終了と同時に寝込みました。

そんなに頑張ったのに
研究大会で発表された数々の実践を
活かせる場はごくわずかで、
子どもたちに与える影響はとても小さく、
完全に関係者の自己満足の世界だったことを悟りました。

そしてたくさんの「犠牲」を払ったのに見合う評価もされず、
昇級があるわけでもなく、
昇給があるわけでもなく、
自分たちが『大きな研究大会』と思っていたものは
全国的にはごくごく小さな大会だったのです。

大会成功の恩恵を受けたのは
学校を異動する時だけで、
それも「うちの学校が研究校になるからその担当をしてほしい」
という理由で引っ張られ、
またしても本業ではないことに時間を奪われることになりました。




教員の仕事をする中で
身につけられたことはたくさんありました。

勉強もいっぱいしました。

でも、
「これは私のやりたかった仕事ではない」
という思いと
「このまま学校現場にいたら心身を病んでしまう」
という恐れの方が大きくなってしまったのです。