魔界の水の秘密

見たような景色が再び目の前で起こった。逃げていたはぐれメタルが滑る床の勢いそのままに階段の下へと落ちて行き、それを追うプックル、そしてリュカとビアンカもまた抗いようもなく下り階段へと転がり落ちるしかなかった。そこは先ほどと全く同じ場所で、リュカたちは滑る床の上を滑り通して一周してきたのだった。
「ビアンカ、大丈夫か?」
「いたた……ええ、一応ね。怪我はしていないみたい」
このやり取りもつい先ほど、息子のティミーと交わしたばかりだと思いつつ、リュカはビアンカの身体を支えて起こす。ビアンカの様子は気になったのか、プックルも後ろを振り向くと彼女の傍に寄り添おうと歩き出すが、その表情が固まった。
「がうがうがうっ!」
プックルの声にリュカとビアンカはすぐさま後ろを振り向く。上から大きな熊のような影が降って来る光景を見て、リュカはビアンカの手を引いて慌てて階段を駆け下りて行った。リュカたちを後から追って来たムーンフェイスが滑る床の勢いそのままに階段へと飛び込んでくるのを、リュカたちは辛うじて階段の下へ駆け下りて避けた。仲間のガンドフほどに大きな身体をしたムーンフェイスが階段の途中で倒れる姿を見ると、思わずその哀れさに手を差し伸べたくもなるが、言葉の通じない、どころか言葉を交わそうとすれば何が起こるか分からないような相手に無暗に手を差し伸べるものでもないと、リュカもビアンカもその気持ちをぐっと堪える。
プックルが追いかけていたはぐれメタルが、階段の途中で倒れるムーンフェイスの脇をすり抜けるようにして、再び階段を上って行ってしまった。階段の幅は十分に広い。どうやら動きの鈍い紫の魔物をやり過ごして脇をすり抜けるくらいはリュカたちもできるだろうと、二人ははぐれメタルを追うために改めて階段を見上げる。なんにせよ、ティミーたちはこの階段の上にいるのだ。
倒れるムーンフェイスが起き上がろうと身体を動かす。リュカはビアンカをプックルの背に乗せ、先に行けとプックルの尻を叩いた。ビアンカはリュカを信じ、プックルを信じて、躍動して駆けるプックルの背にしがみついて先に階段の上へと向かった。そしてリュカもまたすぐにその後を追いかけようと、身を起こそうとしているムーンフェイスの脇を駆け上がろうとする。その際、ふと大きな一つ目と目が合い、リュカは駆ける足を思わず緩め、その目を見返してしまう。仲間のガンドフと似ていることが、リュカの心を揺さぶる。
「ごめんね。僕たちは先を急がなきゃいけないんだ」
言葉が通じないと分かっていても話さずにはいられないと、リュカはつい立ち止まり、目の合ったムーンフェイスに話しかけてしまう。敵とも言えるこの紫の魔物から、微塵も悪意を感じないのだ。恐らくこの者はリュカたちと通じる言葉を持たず、その身には不可思議極まりない能力だけが備わり、そしてその訳の分からない呪文の効果故に、他の魔物からも忌避されているようにも感じられた。他の生き物と関わり合いを持ってみたいと思っているであろうこの者に対して、リュカは必然と同情心を抱いてしまう。
「また後で、会うことがあったらどうにか話をする手段を考えてみるよ、うん」
そう言って、リュカはとにかくその場を立ち去らなければならなかった。先を急いでいるのは本当で、ここで足止めを食らっているわけにはいかない。この場所には母マーサがいたはずで、この善悪どちらにも当てはまらないような魔物ともいつしかどうにかして話すことができるかも知れないと、希望を捨てずにリュカは階段を上へと向かった。その後ろで一瞬、凄まじい光が放たれ、リュカは目の前の景色が一瞬消えてしまったと感じた。何が起こったのかは分からない。再びムーンフェイスがパルプンテの呪文を放ったのかも知れない。しかし己の身に何事も変化がないことを感じつつ、リュカは振り返ることなく階段を上まで上り切った。
リュカは決して嘘偽りを口にしたつもりはない。また後でと彼が言うのは、彼が母と同じく、この魔界と言う世界を見捨ててはいないという意思の表れだった。
「とっても遠くに来ちゃったんじゃないかしら……」
「すっごい運ばれちゃったもんなぁ」
「リュカ殿たちと完全にはぐれてしまいました」
「この床、進む向きを反対にできたりしねぇのかな」
ティミーたちを乗せて運んだ滑る床は、彼らが思っていたよりも延々と続き、抗うこともさせずに遠くまで彼らを運んでしまっていた。途中、何度か角を曲がる度に、後ろに見えていた道は視界から消え、ただただ自動で運ばれてくるその道のりが果たしてどれほどのものかという実感を、ティミーたちに沸かさせない。しかし歩いて戻るとすればかなりの距離を行かねばならないだろう。
仕方がないから来た道を戻るしかないと、第一に父たちとの合流を考えて後ろを振り返るティミー。これだけ広い場所で、おかしな仕掛けもあるようなこの場所で、他に道があるのではないかと辺りを見渡すポピー。今のこの場所に相変わらず悪しき気配はせず、そもそもこの場所をリュカの母マーサが使っていたところなのだと考えれば、ピエールには自然と奥に響く水の流れる音が聞こえる。アンクルは一人その場で宙に浮きあがり、乗せられてきた滑る床を上から見てやろうと思ったが、魔力が底を尽いている状態では宙に浮きあがる力も弱く、宙でふらついてしまっていた。
「くそっ、上手く飛べねえ。マズイな……」
「そうだった、ボクたちみんな、今は呪文が使えないんだよね」
ティミーの声に緊張感は漂っていなかったが、冷静に考えれば考えるほど、その状況には恐怖しかなかった。彼らがいるのは魔界の中でも最も危険な場所に違いないエビルマウンテンであり、一切の呪文が使えない状態であるにも関わらず、これから彼らは大魔王ミルドラースのいる場所にまで行こうとしているのだ。その目的を成し遂げようとすること自体、今は夢であってほしいと思えるほどに、まるで現実味を感じられなかった。目の前に敵となる魔物がいれば、嫌でも現実を見ることになるのだろうが。
「我々はあの光を目指していたのではなかったでしょうか」
ピエールがドラゴンキラーを装備する右腕を前に出し、方向を指し示す。それはティミーたちが滑る床を進んできた方向より右手、離れた場所ではあるが、そこに宙に浮かぶ一つの小さな光を見ることができた。ここにプックルがいれば、あれが何なのかをはっきりと見ることができたのかも知れない。しかしピエールやアンクルにはそれが何であるかは分からないほどに、まだ距離が相当に離れている。
「多分、そうだと思うわ」
ポピーは目を細めて見てみるが、辛うじてそこに小さな光があると見えるだけで、それが何であるかなど全く見当がつかない。その光を起点に、魔物が出現すると言われてもあり得ることだとも思えてしまう。何せ彼女たちは不思議極まりない魔物ムーンフェイスによる呪文パルプンテの、際限のなさそうな効果を目にし、体験したばかりなのだ。あの小さな光から魔物が出現しようとも、流星が降り注ごうとも、そのまま意味もなく消えてしまっても、何が起こっても不思議ではないと思うほどに、彼らの思考はあらゆる状況に広がりを見せていた。
「あん時見ていたよりも近いよな」
「ねえ、行ってみようよ。ボクたちで確かめて来ようよ」
「呪文、使えないけど……大丈夫かしら」
「幸いにもこの場所には悪しき魔物はいないようですから……あの妙なモノ以外は」
「☆★〇●△▲□■▽▼~」
どうしてこれほど大きな魔物の存在に気付かないのか、それ自体が不思議なことだが、気づかないものはどうしようもない。神出鬼没でもあるのだろうか、一体のムーンフェイスがふと、アンクルの後ろに立っていた。相変わらず何かは分からない言葉を発し、素早く振り向いたアンクルに驚いたように身を引いて、まじまじとその大きな一つ目で見つめている。
「……今、喋ったよな、コイツ……」
「…………。…………」
「な、何か起こる!? のかな??」
「でも、なんにも、ない……?」
ティミーとポピーが揃って両手で頭を上から抑えながら、キョロキョロと辺りを見渡すが、彼らの不安に思うような流星の気配などは一切現れない。頭上に唐突に黒い空間が開き、そこから暗黒にも思える目がこちらを見るわけでもない。既に底を尽いている魔力が更に削られるような、手足の先が冷たくなりそうな気配もない。周囲に異変もなければ、自身にも異変は感じられない。
「〇●△▲□■▽▼☆★~」
同じような事を言っているような気もするが、やはり内容は一つも分からない。そしてムーンフェイスの声に合わせて起こると思われた、パルプンテの呪文の効果はどこにも見当たらない。その状況に、改めて落ち着いてムーンフェイスの大きな顔を恐る恐る覗き込むポピーが、ふとその目の色を見て気づく。
「もしかして……あなたも魔力が底を尽いてるの?」
ポピーの言葉が分からないムーンフェイスはただ先ほどと同じように、彼らの言葉と思われる声を発するだけだ。その不快な機械音のような声に思わず耳を塞ぎたくなるが、それよりも何も起こらないことにポピーはそうと確信する。恐らくこのムーンフェイスという魔物、パルプンテと言う謎の呪文が使えてしまうものの、その呪文を発動させるような魔力をほとんど持っていないのだ。
「なあんだ、そうなんだ。じゃあもうあのヘンテコなことは起こらないんだね」
「確かになぁ、もう二回も喋ってるのに、なんにも起こんねぇみたいだ」
「いや、しかし何も起こらなかった、ということもあり得るのでは……油断は禁物です」
ピエールがそう言った傍から、ムーンフェイスは近くで自身を見上げる一人の人間の少女に近づき、目に痛いような紫の色の腕を伸ばしてくる。ポピーはどうしてもこの魔物に対して敵意を抱くこともできず、その場から退くことができなかった。ポピーがそうならと、ティミーも油断した。アンクルも、もしこの得体の知れないものと何かしらのやり取りができるとしたら、リュカの次にはこのポピーだと、根拠もなくただ信じていた。ピエールは油断するなと声をかける一方で、もしかしたら彼女ならリュカと同じように魔物との交渉ができるのではないかという期待も同時に抱いた。
得体の知れない魔物ムーンフェイスの指には、仲間のガンドフと同じように、熊のごとく鋭い爪がある。ただ力加減が分からないだけなのだろう。その腕が一見乱暴に振り下ろされ、ポピーは魔物の意図しない攻撃にあっさりと倒されてしまった。床に倒れたポピーの横で慌ててしゃがむティミーだが、魔力が底を尽いているために回復呪文を使うことができない。アンクルが力の盾を倒れたポピーに当て、回復を試みる間に、ピエールは剣を構えてムーンフェイスの動きを牽制する。場合によっては斬りつけ、この者を倒さなくてはならないと、兜の奥からムーンフェイスの喉元に狙いを定める。
「……ピエール、止めて。私は大丈夫だから」
完全に回復はしないものの、力の盾の治癒力を以て身体を起こしたポピーが、ピエールの意図を読むように止めた。ピエール自身も本心では、この不思議な生き物を剣の錆にしたいとは思っていない。そもそもこの広い場所において、悪しき気を感じず、今も彼らには奥に流れる清らかな水の流れる音が聞こえている。マーサが遺したこの洞穴の祭壇の場は、主を失ってもまだその力を失ってはいない。
「だけどな、やっぱりコイツとは話はできねぇよ」
「ポピーならって思ったけど……勝手に思ってごめん、ポピー……」
仲間たちが言葉を交わすのを後ろに聞きながら、ピエールは決して剣を下ろさない。仲間を守るためにはやむを得ないという覚悟が、ピエールの集中に現れている。
「アンクル、王子と王女を抱えろ」
「おうよ。だがなぁ、オレは今、あんまり飛べねぇぞ」
「とにかくこの場から逃げるだけだ」
「来た道を戻る……わけじゃねぇよな?」
「リュカ殿が向かおうとしていたあの場所を目指す」
ムーンフェイスは再び何事かを言葉にしてきたが、何をどうしても彼らの言葉は分からない。言葉の他のコミュニケーションをと思っても、それもどうやら上手くは行かない。互いに敵意はないというのに、互いの手を取り合えない現状に対し、今はそれに時間を割いてはいられないと、ピエールは迷いなく行動を決める。
「悪い子じゃないのに……」
「でも、いつか、どうにかなるよね、ピエール?」
ポピーもティミーも逃げることは本意ではないと言うように、アンクルの両脇に抱えられながらそう零す。来た道を戻らないと決めたピエールに反することはなく、二人は自身らの保護者の一人でもあるピエールを信じ切り、ただ悪意ない魔物への対応に名残惜しそうな反応を示すだけだった。
「時間はかかるでしょう」
今この場でどうにかなることではないと言い切り、ピエールは自身へと伸ばされたムーンフェイスの鋭い爪を剣で弾き返す。それも、彼の配慮だった。迂闊に魔物の腕に斬りつけないよう、的確に鋭い爪だけを剣で弾いたのだ。
「ですが、あのお方がこの者を、諦めるとお思いですか?」
誰よりも自身のことはさて置き、周りの者たちを救う方法を先ず考えるリュカと言う主のことを信じているのだと、ピエールは言葉に表す。物事には機というものがある。優先順位と言うものもある。今はこの得体の知れない魔物にじっくり向き合う時間はない。そして物事の片が付いた後にまた機会を作り、この不思議極まりない生き物と向き合いたいと思うのがリュカと言う人間だと、主は恐らく大魔王ミルドラースに対しても全く希望を失っていないとピエールは信じている。
「いつか、どうにかなります」
曖昧極まるような言葉だが、それを言い切ってしまうことで、その言葉から曖昧さは消える。いつもはリュカが使うような言葉を、ピエールは真似をするでもなくただ自然に口にするだけで、気持ちは前を向き、心は軽くなった。そうして先に双子を抱えたアンクルを走らせ、ピエールもまたその後を追いかけた。躊躇いなく逃げ、遠ざかっていく彼らの姿を、残された一体のムーンフェイスは大きな一つ目をぱちくりと瞬かせてただ見つめていた。
「あ、あれ? いない?」
階段を上った先の景色は先ほどと同じはずで、そこにはティミーたちの姿があるはずだった。しかしリュカたちの視界に映るのは、ただそこここで明るい火が燃える音と、遠くで流れを止めない水の音が静かに響く大きな空間だけだ。そしているはずであったティミーたちの代わりに、滑る床を挟んで立つのは、やはりあの不思議な紫色の熊たちだ。一体この洞窟内にあの魔物はどれだけいるのだろうかと思うと、母マーサがよく無事でいられたなと考えざるを得ない。
「がうう……」
「リュカ、どうしよう、あの子たちが……」
子供たちの姿が見えなかったことで明らかに狼狽えてしまうビアンカを宥めるように、リュカは彼女の背をさする。彼女も当然のようにそこに、ティミーたちの姿があると思っていたのだ。
「大丈夫。ピエールとアンクルもついてるから、一緒に行動しているはずだよ」
「そ、そうよね、子供たち二人だけじゃないものね。大丈夫、大丈夫……」
ビアンカがそう言って自身に言い聞かせている隣で、リュカは階段を上りきったところで落ち着いて滑る床の並びの景色に目を向けた。先ほどうっかりリュカたちが乗り込んでしまった場所の近くに、ムーンフェイスらがこちらを向いて立っている。一方、階段の脇に並ぶ床には向きを表す印が魔物たちの立つ場所に向かって描かれている。ティミーたちはこの床の上に乗って、あの魔物らの立つ場所に着いたのだろうと理解したが、今リュカたちがそこに乗ってしまえば同じように魔物たちの面前へと身を運ぶことになる。
「がうがう」
プックルが小声で知らせるのは、更に奥から姿を現すムーンフェイス三体の存在だった。身体は大きいというのに、悪しき気配を微塵も持っていないために、プックルでもその気配に気づくのが遅れるようだ。キラーマシンのような機械造りの魔物の方がまだプックルの耳にはその気配が届く。
「あっ、あの子、いつの間にかあっちにいるわ」
プックルが追い続けていたはぐれメタルが、リュカたちの気づかない内に既に滑る床の並びの外へと出てしまっていた。まさしくムーンフェイスらの真ん前に姿を晒しているにも関わらず、まるで水溜りのようなその特殊な形と、驚くほどの素早さを身に着けているはぐれメタルからすれば、決して動きが速くはないムーンフェイスの脇をすり抜けることなど朝飯前だと言わんばかりに、きらきらきらきらとあちこち自ら普通の床の上を滑って移動している。
「プックル、勝手に先を行っちゃダメよ」
「がうっ」
「あ! いいこと考えた。ちょっとこっちに……って、急いで!」
リュカが慌てたのは、先ほど脇をすり抜けてやり過ごした階段の下にいたムーンフェイスが、リュカたちを追って階段を上ってきていたからだった。ティミーらはこの魔物が有する魔力はさほどではなく、パルプンテの呪文は一度しか発動されないことを知ったが、リュカたちはまだその事に気付いていない。いつ再び何が起こるか分からない状況に追い込まれるかを避けなくてはと、リュカはビアンカの手を引いて走り、プックルもその横をトットットっと軽やかに歩いて行く。
リュカは並ぶ滑る床の手前で止まり、床を挟んで正面にムーンフェイスの群れを見る形を取る。滑る床は一つ一つが非常に大きな床だ。そしてその床の進む方向を示す印は、先ほどリュカたちがうっかり踏み進んでしまった方向へと流れて行き、あの階段へと続いているはずだ。
「おびき寄せよう」
「ああ、なるほどね。あの魔物たちをこの床に乗せちゃうってワケね」
「……がう?」
「僕たちは後で、あっちから外に出るんだ」
「ほーんと、おかしな床よね。でもちゃんと考えれば行きたいところへ行けるってことかしら」
「がう~?」
「母さんが作った……のかな。分からないけど、ただ面白半分で作られたものではないだろうね」
この広い洞窟に悪しき魔物が寄り付かないのは、洞窟内に満ちる聖なる空気の他にも、この厄介な仕組みがそこここに敷かれているために、魔物らはこの場所に敢えて寄り付くことがないのかも知れない。人間でも魔物でも、面倒事は嫌うのだろう。そのような面倒事を張り巡らせることで、何か大事なものを守るという行動をするのは、人間という面倒な生き物だけではないだろうか。
リュカが呪文で風を起こそうとするが、風は起こらない。魔力が切れていることを思い出し、困ったようにこめかみを指で搔いている隣で、ビアンカがマグマの杖を手に取る。注意を引き付けて、魔物らが前に足を踏み出すのを誘えばよいだけだと、杖頭に溜まるマグマを花火のように弾けさせ、派手な景色を大きな一つ目が並ぶ前に演出する。明るい橙のマグマが宙に弾け、見たこともないような美しい景色が目の前に現れるのを、ムーンフェイスらは大きな一つ目を更に大きくして、口元にはいかにも楽し気な笑みを浮かべ、見入っている。その表情を見ているだけで、リュカもビアンカも、無邪気な子供を騙しているような気になり、思わず罪悪感に顔をしかめてしまう。
「がうっ、がうっ」
後ろからのっしのっしとムーンフェイスが歩いてきていると、プックルが忠告する。リュカはビアンカの手に手を添え、マグマの杖を彼らの頭上に掲げて、双方に立つムーンフェイスの注目を惹きつけるようにする。ビアンカもまた魔力が底を尽いていながらも、まるで呪文が使える時と変わらない様子で、マグマの杖に籠る魔力を引き出し、杖頭から見事な花火を上げる。
間近にまで歩み寄り、後ろから追いかけてきたムーンフェイスが、打ち上がる花火をその手につかまえようとしたのか、宙に弾けた橙の火花に向かって飛び込むように両腕を伸ばしてきた。それに合わせ、リュカはビアンカの手を掴んだまま、もう片方の手で腰を支えて横へと共に飛び退いた。リュカたちが立っていたのは、滑る床の手前ぎりぎりのところだった。手を伸ばしてきたムーンフェイスはバランスを崩し、そのままよろけるように前のめりに数歩進んだ。最後の一歩で、ムーンフェイスの足は滑る床を爪先で踏むと、床は侵入者を的確に感知し、床の魔力が発動した。何が起こったのか分からないというような顔つきのまま、一体のムーンフェイスが滑る床の上を滑っていく。
すると今度はムーンフェイスの群れの視線が揃って、滑る床の上を流れて行った同族へと注がれた。その景色に、他の楽しい遊びを思い出したように次々と滑る床の上へと歩いてくる。その様子を見てリュカたちは下手に刺激をしないようにと見守り、無事にムーンフェイスの群れは滑る床の上を流れて行った。その表情がいかにも楽し気で、魔物らの無邪気に明るい表情を見て、リュカもビアンカもいくらか心の中の罪悪感が薄れるのを感じていた。
「ちゃんとお話できればいいのにねぇ」
「まあ、そのうちね。とにかく今は急ごうか」
「がうっ」
ゆっくりしていればその内に見える階段のところへムーンフェイスらが流れてきてしまうと、リュカたちは印の向きを確認しつつ、滑る床に囲まれた場所から外へと無事に出た。待ってましたと言わんばかりに、はぐれメタルがきらきらきらきらと楽し気な輝きを見せ、素早い動きでプックルを挑発する。プックルが本能的に低い姿勢になったところで、リュカは友達の赤い尾をむんずと掴んだ。
「プックル、今は遊んでいる場合じゃないだろ」
「……がう」
リュカの言葉に分かってると返事をするプックルだが、つい追いかけようとしてしまうのは本能的なもので仕方がないのだという理由がその声に籠っていた。リュカに言われれば大人しく低い体勢を止めることもできるのだと示すように、プックルはすっくと身を起こした。
「えーっと、君……母さんから名前はもらってないのかな」
プックルとの追いかけっこを楽しむ一方で、その視線は常にちらちらとリュカを見つめているはぐれメタルは、間違いなくこの場所でマーサと何度もやり取りをしているはずだ。母ならば何かしらの名をつけそうなものだがとリュカは思ったが、人間の言葉を持たない目の前の魔物が自ら己の名を言えるわけもなく、ただどこか期待するような目でリュカを見つめるだけだ。
「さっきの紫のガンドフはたくさん仲間がいるみたいだけど、あなたは一人なの?」
「仲間とはぐれちゃったのかな。あんまりにも速いから、気づいたらはぐれてたとか?」
ビアンカとリュカが迷子になった子供を心配するような様子でしゃがみながら話すが、当のはぐれメタルには微塵も悲壮な様子はない。他に仲間がいたとして、たとえはぐれたところで何も悲しいことはないと言うように、ただ床の上をズザザッ、ズザザッと、身軽なフットワークを見せ、自ずとプックルの凝視を受けている。
「顔はスラりんやスラぼうみたいだよね。じゃあ……はぐりん、でどうかな」
「キュルッ、キュルッ!」
「あら、喜んでるんじゃない? もしかしたらお母様も同じ名前で呼んでいたのかも知れないわねぇ」
「よし! じゃあ、はぐりん、僕たちを案内してもらっても……」
リュカの言葉を最後まで聞かないまま、はぐりんは猛スピードで洞窟の奥へと走り去ってしまった。予想しなかった置いてきぼりを食ったリュカたちは唖然としたままその場に立っていたが、間もなく再びはぐりんは猛スピードで戻ってきた。その表情はどこか不満そうで、リュカたちを横目に見上げている。ついてこなかったリュカたちをまるで責めるような顔つきだった。
「いや、もうちょっとゆっくり行ってくれると助かるなぁ……」
「急いでるのは急いでるんだけど、ちょっと私たちじゃ追いつけない速さだわ……」
「がう~」
リュカやビアンカ人間には到底追いつけない速度で、速さ自慢のプックルでも追いつけるかどうか怪しい速度で先に行かれてしまってはどうにもならないと各々口にすると、はぐりんはまるで溜め息でも吐くような雰囲気でその液状にも見える身体を上下させた。その行動一つ取っても、はぐりんのどこか生意気な性格を見たようで、リュカとビアンカは顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
「うふふ、もしかしたらちょっと生意気なガキんちょ、ってところなのかしら」
「あはは、僕には小さい頃の君にちょっと似てるかなぁって思えたけどな」
「がうっ、がうっ」
「何よそれ! 二人して失礼じゃない?」
リュカたちの場違いにも和やかな会話を尻目に、はぐれメタルのはぐりんは再び滑らない床を滑るように一気に進んでいく。しかし見えなくなるほどの距離を進んでしまうことは止め、見えるところで止まってリュカたちを振り返り、きちんと様子を窺っている。リュカたちもまた、はぐりんにもう一度溜め息を吐かせないようにと、すぐさまその後を追いかけ始めた。
「あそこに見えてるんだけどなぁ」
「周りを全て囲まれていますね」
「おい、あんまりのんびりしてると、また後ろからあの気味悪いのが来るぜ」
「でもうっかりこの床に入るわけには行かないし……」
一切の対話ができないムーンフェイスの前からは逃げてきたものの、この洞窟内が広いとは言え、どこまでも逃げ切れるものではない。ティミーたちにすっかり興味を持っているムーンフェイスはゆっくりではあるものの、明確にティミーたちを追って近づいてきている。
「でも囲まれているとは言っても、どこかからは絶対に中へ入れるはず……」
ポピーが険しい顔をして広がりの奥にまで敷き詰められている滑る床の景色を眺める。びっしりと敷き詰められている滑る床の上には、一見何の法則性もないようなバラバラの向きを示す印がそれぞれ描かれている。見れば見るほどに頭がおかしくなりそうな記号の羅列に見えるが、ポピーはどこかに入口があるはずだと集中して睨む。
「アンクル、私を上に上げてくれる?」
「んあ? ああ、いいけどよ。あんまり高くは飛べねぇぞ」
「いいの。ちょっと上から見てみたいだけだから」
普段通り会話をしていると、誰もが魔力が尽きていることを忘れがちになるが、アンクルがポピー一人を小脇に抱えて宙に浮き上がるだけでもやっとという状態に、今が非常に危険な状況であることに改めて気づく。アンクルの力を借りて、高くから滑る床の敷き詰められている景色を俯瞰するポピーは、素早く全体の印を頭の中でまとめる。全体呪文や遠隔呪文すら使うポピーにとって、広く全体の景色を見渡すことは、本人も気付かないような特技のようなものだった。彼女の頭の中に広げられた景色はどこもぼんやりすることがなく、細部に至るまで明確に浮かび上がるのだ。その特技も相俟って、彼女はこの世では封印されていたはずの移動呪文ルーラをも習得してしまったという経緯もあった。
「あっちに水が流れてるよ。あの水ってきっと飲めるよね。ここっておばあちゃんがいた場所だし……」
「そうでしょうね。しかしそちらは行き止まりです、王子。魔物に詰められたら危ういので、今はお止めになった方が良いかと」
彼らが立つ左手には水の流れる音が近くに響き、その涼やかな音と清かな空気に、必然とこの魔界に存在するジャハンナの町を思い出す。魔界と言えども、実際にはこうして命の源である水の流れの止まない場所が残されている。多くはマーサの力に依るものなのは確かだろうが、ジャハンナの町の住人はそれを保つために毎日己の手で水の入れ替えを行っている。流れない水は澱み、腐る。そうならないように流れを保ち、常に一つ所に留めないことが大事なのだと言うように、ジャハンナの町を回る水も流れを止めず、エビルマウンテンの山中にある水もまた、流れ続ける。
しかしティミーたちは気づく由もなかった。この魔界へ地上世界からの清き水を引き込んだマーサがこの世を去ったがために、実際に水の流れは鈍くなり始めていた。山頂の祭壇で仲間のゴレムスがマーサの想いを受け、それを残すべく自らの姿を祈りの石像へと変えたが、それでマーサの力が全て引き継がれ残ることはない。マーサ自身の力を失った今となっては、この魔界を覆う闇は今後深まるばかりだ。このままだと、今はまだ流れを止めない水も、そのうちに止まり、水は澱み、腐ってしまうのかも知れない。
「分かったわ! アンクル、ありがとう、もう下ろしていいわ」
「ふう、助かったぜ。飛んでるだけでこんなに辛いもんかよ、魔力がなくなると」
ただ宙に浮いていただけだというのに、アンクルの顔には苦悶の表情が浮かんでいた。顔には汗が浮き出て、ポピーを床に下ろすと、疲れたように膝がしらに手をついて屈み、深く息をついた。
「お兄ちゃん、そっちでいいのよ。あの水の流れる脇から、ヘンテコ床に入れば……」
ポピーがそこまで言葉にした時、彼らの耳に疾走してくるような足音が聞こえ始めた。追ってくるムーンフェイスとはまだ距離があると思っていたために油断していたと、彼らが一斉に素早く振り返ると、そこにはのっしのっしと歩いてくるムーンフェイスを追い越してこちらへ向かってくるプックルの姿が見えた。その背にはビアンカと、後ろにリュカが支えるように乗っている。
「お父さん!」
「ええっ!? プックル、大丈夫なの?」
リュカとビアンカ二人を同時に背に乗せ、いつものように疾走してくるように見えるプックルだが、その表情にはいつにない必死さが見える。非常に力強い走りぶりに、見ているポピーもティミーも思わず喜びよりも不安げな顔つきになる。
「うわっ!」
「なんだぁ!?」
ピエールとアンクルの立つ脇を、何かが光の速さで駆け抜けて行った。何が駆け抜けて行ったのかも分からず、ただ足元近くに風が起こった後に振り返れば、その光を思わせるものは滑る床手前できっちりと止まり、ピエールとアンクルをきらきらとした目で見上げている。
どうやらこの光の速さで移動するはぐれメタルを追って来たプックルが、重さに耐えきれないと言うように、潰れるように前のめりに倒れた。唐突に勢いを失ったプックルから弾き出されるように、リュカがビアンカを支えながらプックルの背から飛び降りる。
「はぐりん、ありがとう」
「はぐりん?」
「うん、あの子、はぐりんって言うんだ」
「あっ、さっきのあの子! はぐりんって言うの、お父さん?」
「リュカが名前をつけてあげたのよ、いつも通り」
興味を示す双子がその名をいくら呼んでも、はぐりんは気ままなもので決して近づいては来ない。ただ興味はあるようで、人間の子供を交互に見ながらフットワーク軽く、床の上を素早く掃除するように左右に動きまくっている。
「おい、遊んでる場合じゃないだろ。ほら、あの気味悪いのが来るぞ」
「王女、道が決まったのなら進みましょう」
「あっ、うん、そうよね」
「がううっ」
「悪かったよ、プックル。でも仕方なかっただろ」
「あの魔物に構いたくなかったからねぇ。ちょっと無理させちゃったわよね」
「ねえ、早く行こうよ。ほら、はぐりんも一緒においで!」
ティミーが声をかけても、はぐりんはただ様子を窺うように床の上を絶えず左右に動いて、攻撃にも退避にも構えるような仕草を見せる。先に進めばついてくるのかも知れないと、ティミーは皆を先導するポピーの隣を歩きながらちらちらとはぐれメタルの動きを確かめていた。
流れる水路の真横に並んでいる滑る床の前まで来ると、ポピーは頭の中でもう一度考えるように目を閉じて確認し、一つ頷くと目の前の床を指差した。
「ここを乗っていけば中に入れるはずよ」
「何だか複雑な並びになっているようだけど……ポピーが言うなら間違いないだろうね」
「私、こういうの苦手……好きなところへ歩けなくてイライラしちゃう……。ポピーに任せるわ」
「ボクもこういうのはよく分からないよ。適当にその辺に乗っちゃえばいいんじゃない? って思うだけだし」
「よく分かんねぇけど、とっとと行こうぜ。あのヘンテコに構いたくねぇんだよ」
「がう」
「皆で同時に乗り込めば問題ありません。さあ、参りましょう」
ピエールの言外にはたとえ間違えたとしてもという意味合いも含まれていたが、現実にとにかく皆で同時に乗り込まなくては、再びはぐれてしまう可能性があるのだと一行は一塊になる。その様子をはぐりんは近くでただ見上げている。
歩いてくるムーンフェイスが首を傾げながらも、大きな一つ目を一度激しく光らせた。まともに見ていれば目も眩み、視界を塞がれたような状況に陥っただろうが、幸いにも誰もムーンフェイスの放った眩しい光を直視していなかった。むしろその光を切欠に、彼らは一斉に滑る床の上に乗り込んだ。近くでその様子を見ていたはぐりんもまた、同じように隣の床の上へとズザザッと乗り込んだ。
複雑に並ぶ滑る床の上を、リュカたちはただ印の差す方向へと流れるように進んでいく。隣の床に乗り込んだはぐりんは初めから、全く別の方向へと流されて行った。みるみる遠ざかっていくはぐりんの姿を「あーっ!」と声を上げて眺めるティミーだったが、床の魔力に逆らう術を持たない彼らにはどうしようもない状況だ。その姿は広い洞窟内で、あっという間に見えなくなってしまった。
途中何度も角を曲がり、その度に曲がる方向とは逆へと身体が揺さぶられ、リュカとポピーは次第に気分が悪くなっていった。どうしたらこの気持ち悪さから逃れられるだろうかと、結局父と娘は広い床の上に寝っ転がっていた。一方で、ビアンカとティミーは四つん這いになりながら前に続く印の方向を見て、次はあっちだこっちだと予想しながら、どこか楽し気に言葉を交わす。プックルは体幹を安定させ、角を曲がる時にも動じずに立ち、アンクルはその大きな身体を窮屈そうに縮こまらせ、後ろに乗るピエールは同じ方向へと滑って移動してくるムーンフェイスの姿を困った様子で眺めていた。
最後の角を曲がり、滑る床の囲いの内側へと一斉に放り出された彼らは、各々ごろごろと床に転がったり着地したりと、兎にも角にもポピーの見立て通りに目的の場所へとたどり着くことができた。しかしそこですぐさま安心はできないと、ピエールが皆に大声で「ここから離れて!」と呼びかける。
リュカたちの後を追って床を移動してきたムーンフェイス一体が、同じように広く囲われた滑る床の内側へと流れ着いた。大きな紫色の熊がごろごろと転がって来るその光景に、リュカたちは一様に困ったなぁと顔をしかめるが、事態はそれに留まらなかった。
見れば、今も尚、滑る床の上を連なって流れているムーンフェイスの群れがあった。その道筋は間違いなく、リュカたちが通ってきたものと同じで、それは即ちリュカたちの辿り着いたこの場所に多数のムーンフェイスらが流れ込んでくると言うことだった。それに気づけば、誰もが困惑などという感覚に留まらず、疑いようもない危機なのだと、各々戦いのための体勢を整える。
巨大な石柱が離れて二本、微塵の傷もなく堂々たる様相で立っている。そのちょうど真ん中に、リュカたちが遠くから目にしていた光がある。遠くからではそれが何であるかが分からなかったが、近くに来た今はそれが美しい曲線を描いた一つの水差しであることが知れた。魔力を帯びているであろうそれは、自ずと宙に浮かび上がり、この場所にまでたどり着いたリュカたちを静かに見つめているようだった。リュカはその静かな眼差しを受けつつも、美しい水差しを背に守るように立ち、ぞろぞろとこの場に入り込んでくるムーンフェイスらと対峙する。
「ビアンカとポピーは後ろに下がってて」
魔力が底を尽いている状態での二人を戦いの場に立たせることはできないと、リュカは冷静にそう指示する。ビアンカとポピーもまた、自身らの状態をよく把握しているために指示を聞き、静かに後ろへと下がった。しかしリュカたちも魔力が底を尽いているこの状況で敵とどのように対峙するのかと、下がりながらもビアンカとポピーは各々隙なく武器を手にしている。
囲いの中に入り込んできたムーンフェイスは八体。どうやら初めにリュカたちの後を追いかけてきた一体の後を、ぞくぞくと残り七体のムーンフェイスが几帳面に同じ場所から入り込んできたようだった。八体どれもが、まるで敵意なく、ただ純粋に珍しいものを見るような目でリュカたちを見つめている。その姿は仲間のガンドフと重なり、どうしても攻撃意欲を削がれてしまう。剣を持つリュカの手にも、ティミーの手にも、ピエールの手にさえも思うような力が入らない。
「がうっ!」
「おい、どうすんだよ、攻撃しねぇのかよ」
「いや……ちょっと相手の出方を見た方が……」
プックルとアンクルがせっつくが、リュカは明確に躊躇し、半ば自身に言い訳をするかのようにそんなことを言う。もしかしたらこの中にまともに話ができる者がいるかも知れないと、リュカは無いに等しいほどの可能性に賭けるように、声を掛けようとした。
が、先に話しかけてきたのはムーンフェイスの方だった。しかも八体が順々に話してくるようなこともなく、八体全てが一気に声を発したために、リュカたちはその後何が起こったのかを一つ一つ把握することができなかった。
突然混乱を来し、風神の盾を掲げて、敵味方構わず光の彼方へと消し去ろうとするピエール。気を失ったように前のめりにバタンと倒れ、豪快な鼾と共に眠り込んでしまったアンクル。目の前に幻影が見えだし、まるで見当違いのところに向かって剣を構えるティミー。やたらと全身に力が漲るものの、周りに起こっている不思議で不安でしかない状況に動くことができないポピー。いつもは誰かに対して唱えるバイキルトの効果を自身に感じ、ただ戸惑うビアンカ。一瞬で全身の感覚が消え、激しい麻痺により立てなくなってしまったプックル。突如目の前に現れた魔人の姿に心臓が止まりそうになったリュカだが、あやうく踏み潰されそうになったティミーを突き飛ばして、共に床に倒れた。
そんな忙しない状況の中で、どうにか気を確かに保っていたビアンカとポピーが、己の中になければならないものが突如として戻ってきた感覚を得た。それまで全身がどこか冷めきったような感覚に包まれていたが、唐突にそれが完全に充填され、途端に全身の血の巡りが良くなったような気がした。母と娘は無言の内に顏を見合わせ、小さく頷き合うと、同時に両手を八体のムーンフェイスらに向かって突き出した。
ビアンカがベギラマを唱えたのは、やはりムーンフェイスという生き物に対しての敵意が沸かず、彼女の躊躇がそこに現れていたからだった。しかしポピーは容赦しなかった。とにかく目の前にある脅威を遠ざけなくてはならないとそれだけを思い、彼女が唱えたのは最強爆発呪文イオナズンだった。彼女らに限らず、リュカたち全員の魔力がすっかり休息を得た後のように回復し、満ちていた。
心臓が止まるほどの衝撃を受け、ピエールは混乱の最中から立ち直った。アンクルも唐突に訪れた眠りから飛び起きた。ティミーもまた、それまで目の前に見えていた幻影の世界から離脱した。プックルはまだ全身の麻痺から抜け出せない中で、唐突な爆発音にただ息を呑んだ。リュカも倒れたティミーの身体を庇ったまま、心臓が飛び出そうなほどの衝撃を受けていた。
凄まじい爆風を受け、当然そのような爆風を予期していなかったムーンフェイスらは、一体残らず吹き飛ばされた。彼らがいる場所は、滑る床に周りを囲まれた場所だ。爆風に吹き飛ばされたムーンフェイスらがただ本能的に爆風に大きな一つ目をぎゅっと瞑り、滑る床の魔力の上に突っ込む。侵入者を感知した床はすぐさま律儀に反応し、無感情にムーンフェイスを一体一体運んでいく。どこか分からない場所へ運ばれて行くムーンフェイスの表情に相変わらず笑みが浮かんでいたことが、リュカたちの中に生まれる罪悪感をいくらか和らげていた。
「……ポピー、さすがね」
「お母さん、手加減したでしょ?」
「う、うん、ごめんなさい。だってどうしてもあの子たち、悪いようには見えなくって」
「そうよね……それにお母さんの呪文はあの子たちを焼け焦げにしちゃうものね。それって可哀そう……」
目の前の困難が去り、母と娘は安心したように息を突きながら言葉を交わす。彼女らの声が聞こえ、遠くない場所から水の流れる音が再び聞こえるようになり、リュカもティミーも大きく息を突きながらその場に立ち上がった。
「ピエール、プックルを手当てしてやってくれるかな?」
「あ、はい、直ちに」
皆が起き上がる中でプックルだけは麻痺の苦しみから逃れられず、ピエールはリュカの言葉に従いすぐさまプックルの麻痺をキアリクの呪文で取り除いてやった。不満そうに低い声を立てながらもその場に飛び起きたプックルだが、他に特別異常は見当たらなかった。
後ろを振り返れば、それまでのリュカたちに起こったことを静かに見守り続けていた銀色に輝く水差しが、穏やかにふわふわと宙に浮いている。誰一人、無遠慮に近づいてはいけないと言うような雰囲気を感じる中で、リュカだけがそれへと歩み寄る。銀色の水差しに描かれる植物の文様に、ゴレムスの手の上に乗る母マーサの、まるで命の大樹のごとき姿を思い出し、リュカはその聖なる水差しを迷いなく両手に取った。
すると、聖なる水差しは新しい持ち主を確かめるように、目もないのにリュカをじっと見つめるような雰囲気を醸す。その雰囲気は真実で、実は強烈な魔力を帯びる水差しが今度は自ら蓋をポンと取り外し、それに呼応するように、リュカたちに聞こえていた水の音がゴゴゴゴと激しくなった。と感じるや否や、滑る床の向こう側に流れていた水の流れがまとまり、一本の鞭のようにしなりながらリュカの方へと飛んで来る。鞭を本能的に嫌うリュカだが逃げることは思いつきもせず、ただ水差しを両手にその流れを見つめていると、蓋の空いた口へと大量の水が次々と注ぎ込まれて行くのを目の当たりにした。水差しの大きさなど意味はないのだというほどに、あり得ないほどの量の水が水差しの中へと入りこんで行き、まるでこの水差しの中に一つの池が出来てしまったのではないかと思うほどのところで、鞭のような水は止まり、聖なる水差しは自ら蓋を閉じた。その不思議極まる出来事を目にして、誰もが言葉を発する余裕を失くしていた。
エルヘブンの大巫女であるマーサはこの魔界にも水の恵みをと、地上世界から清らかなる水を引き込み、その恩恵に多く預かっているのが魔界の人間の町ジャハンナだ。いったいどのように地上世界の水を魔界へと流したのか想像もつかないことだったが、もしかしたらこの聖なる水差しがその役割を果たしていたのかも知れないと、リュカは両手に持つまでもないほどに小さな銀色の水差しを見ながらそう思った。
リュカの手に収まった聖なる水差しは、今や宙に浮かぶ魔力を失くし、完全にリュカの手に身を委ねているような状態だった。本来ならばこの場所から持ち出すべきではない代物だと考えられるが、今は違う時なのだと、リュカは己の両手の上でまるで祈りを捧げていた母のごとく静まる水差しを見下ろし、その声を聞いたような気さえした。
「これは僕が持って行くよ」
リュカの言葉を聞いた誰もが、無暗な返事をしなかった。リュカが語りかけているのは彼の母マーサなのだと、誰もがそう感じていた。リュカはグランバニアの王であると同時に、エルヘブンの大巫女の唯一の継承者でもある。その血筋を、この聖なる水差しを受け取ることで、改めて認めることになるのだとリュカは感じた。
そして聖なる水差しがリュカの手にその身を委ねたことは、マーサの守ったこの場所にも大魔王ミルドラースの脅威が迫っていることを意味していた。もはやこの場所に安全は無いと言うように、マーサの形見ともなる聖なる水差しはリュカと共に行くことを決め、彼の力になるという意味を帯びた。
「ぐるるる……」
マーサの命は消えたのだ。今、このエビルマウンテンの山は彼女が残した祈りの力の余韻で、まだ持ち堪えているような状況なのだろう。それを仲間のゴレムスが必死に残し続けようと、大魔王が魔界の空から落とす雷にも耐える石となり、強烈な意志の下に祈り続けている。しかしそれもこのままでは徐々に弱められていくだけだ。現に、プックルが感じたのは、この場所をも脅かそうとしている悪しき魔物の気配だった。
「キュルッ、キュルッ!」
滑る床の上をつつつーっと滑っていくはぐりんが、その素早い動きで何度もリュカたちの立つ内部へと入ろうと試みつつも、失敗していた。しかしそのお陰でリュカたちは進むべき場所を見つける。プックルが両耳を立てて音を探っている方向も、はぐりんが動き回っている場所の向こう側だ。
「はぐりん、ありがとう」
そう言ってリュカたちは皆、はぐりんの滑っていく床に向かって駆けて行く。しかし同時に床から下りたはぐりんは、プックル同様に悪しき魔物の気配をその身に感じたのか、ぶるっと身を震わせると、そのままズザザザッと音だけを残してどこかへ身を隠してしまった。小さな隙間にも入り込んでしまいそうな液状のはぐりんを見つけることなど困難で、リュカたちはついてきたければいくらでも後から追いかけて来るだろうとはぐれメタルの驚異的なすばしこさを信じ、滑る床の外側へと出るとすぐに先を急いだ。