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意思による楽観のための読書日記

墓が語る江戸の真実 岡崎守恭 ***

お墓の並び方から、そこに葬られた人たちの関係性を語るのが本書。筆者は日経新聞社で政治部長や大阪支社編集局長を務めた歴史エッセイスト。

薩摩島津家墓所には28代斉彬とその正室とともに、27代斉興の墓があるが、その隣には「お由羅騒動」で有名な由羅の墓があり、正室だった弥姫の墓は離れた場所に斉彬の子たちと並んで置かれている。正室は鳥取池田家から周子として輿入れしてきた賢夫人、子には漢籍を説いて聞かせ自ら乳も与えて大切に育てたという。その子の一人が斉彬、もうひとりの娘は侯姫で土佐藩山内家に嫁ぎ容堂で知られる豊信を養子に迎え養育した。弥姫の異母妹も佐賀藩鍋島家に嫁ぎ、後の鍋島閑叟を生む。そしてお由羅は江戸の町娘、薩摩藩江戸高輪屋敷に奉公に上がり斉興に見初められ久光を生む。正室は江戸藩邸に居たので、お由羅は薩摩藩に置かれたとされるが江戸にも帯同したという。斉興の治世は42年に及ぶため、息子の斉彬は40歳になっても若殿、その跡継ぎは久光を跡継ぎに据えたいお由羅の呪詛で次々に死んだと言われるほど。これが藩を揺るがす「お由羅騒動」となり、西郷隆盛の遠島、大久保利通の免職・謹慎にもつながる。斉彬は1858年に、斉興は1859年に死去、お由羅は1866年まで生きた。斉彬は遺言として、久光の子忠徳のちの忠義を斉彬の娘婿として跡継ぎとしたが、久光が後見人として「国父様」と呼ばれる。ちなみに、お由羅の子忠義の子には、久邇宮邦彦王妃の俔子がおり良子女王のちの香淳皇后を生む。その子貴子さんは島津家に嫁ぎ島津貴子となる。お由羅血筋は立派に生き残っている。

高野山奥の院に進む参道で一番大きくそびえ立つのは徳川二代将軍秀忠の妻、お江のもの。立てたのは跡継ぎの家光ではなく、お江がことのほかかわいがったその弟忠長。お江はもちろん浅井長政の三姉妹の末娘、長女は秀吉に嫁いだお茶々で秀頼を産み、お江の子、千姫が嫁ぐことになる。お江は男子では家光と忠長を産み、家光が乳母春日局に養育される。三代将軍には家光が指名され、不満な忠長は乱行、お江と秀忠の死後には蟄居、切腹させられてしまう。しかし忠長はお江が死去した際には葬儀を取り仕切り、高野山に巨大な墓石を建てていた。

その他のエピソードは、小石川伝通院の家光と摂関家から徳川家に最初に嫁いできた鷹司孝子、光秀の一の家来とされた斎藤利三の娘お福は稲葉正成の後妻となり、その後家光の乳母となるが、家光は実は春日局が産んだともされる、湯島麟祥院の春日局と淀藩稲葉家。家康の次男秀康は結城氏を継ぎ、関ケ原の功績から越前68万石に移封、越前松平家の始祖となる。その16代が松平春嶽。福井大安禅寺の松平秀康と越前家。上野寛永寺のお保良と綱吉のご落胤とも囁かれた柳沢吉保。徳川家に気配りしたのは金沢野田山墓地の前田利久と利家、徳川四天王と呼ばれた名門なのに、吉原からの身請けに6000両も使ってしまった池袋本立寺の高尾太夫と榊原政岑。春日大社では、秀吉、家康とバランス良く仕え32万石にまでのぼりつめた藤堂高虎と徳川将軍家。高輪泉岳寺の切腹せず逃げたとされる寺坂吉右衛門と赤穂浪士の墓。

いずれのエピソードも兄弟や親子の確執、跡継ぎ争いなどの逸話が絡んでくる、江戸時代、愛憎と恩讐の物語である。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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