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意思による楽観のための読書日記

われら軍人の子 石光勝 ***

筆者は文化放送、東京12チャンネル(テレビ東京)を経て、現在はテレビ東京ダイレクトの社長を務める。テレビ東京草創期に番組作りや編成に携わった。父親が太平洋戦争期に職業軍人で経理大佐、1934年生まれの筆者はその陸軍高官の子、国民学校の生徒として戦争を体験し戦後を迎える。

終戦時のショックは、その時の年齢により微妙に、親の職業や環境で大きく異なり、本人としては甚だしく異なる受け止め方がある。1929年生まれの加賀乙彦は幼年学校在学中に終戦を迎え、聖戦遂行のため命を捨てる覚悟を教えてきた教官たちの豹変ぶりに大人への不信を植え付けられた。1930年生まれの野坂昭如は焼け跡派と呼ばれ「火垂るの墓」を書いた。兵隊として南方戦場で辛酸を嘗めた大岡昇平は「レイテ戦記」を書き、思想犯として兵隊を経験した野間宏はリンチや暴力がはびこる兵隊の日常にある「真空地帯」を書いた。

こうした悲惨で壮絶な戦争体験に比べるとずっとソフトな戦争体験だったように感じるが、それでも戦後の昭和や平成生まれの世代に比べれば筆者体験は充分に激動の時代である。筆者が本書で自分と比較したかったのは、陸軍最高司令官であり大元帥陛下の子明仁親王と、軍医の頂点陸軍中将軍医総監の子藤田嗣治、レオナール・フジタである。陸軍高官の家族として恵まれた戦中・疎開生活を過ごした筆者だったが、戦後は戦犯の家族としての批判にさらされ、近隣住民や知人たちの豹変ぶりにショックを受けた。

フジタは国内では芸術面での不評があり、恵まれた経済環境を背景にフランスに美術留学し、そのままパリで暮らす。戦前のパリでの評価は独特の色使いと絵画手法でうなぎのぼり。しかし日中戦争が始まる頃日本に帰り、将官待遇で従軍画家となる。この期間で描いた絵「アッツ島玉砕」に筆者は衝撃を受ける。戦後は日本画壇から戦争協力者として批判を浴び、失意のまま戦後は再びアメリカ経由でパリに帰り、フランス国籍を取得してレジオンドヌール勲章を受け人生を終える。

昭和の皇太子殿下だった明仁親王は、戦争犯罪人として連合軍からの批判にさらされた昭和天皇の子として戦後を迎える。戦後の民主主義、基本的人権などの価値観を学ぶために家庭教師として招聘されたのがヴァイニング夫人。明仁親王12歳から17歳の重要な期間、誠実、率直、自由、公平、質素、平等などの価値観を教えたという。昭和天皇も、終戦後は国民との対話を心がけられたが、明仁親王は平成の天皇として戦争の記憶を辿る慰霊訪問を継続したことで記憶している人も多い。終戦後は反戦、反アメリカの空気が濃かった時代があり、その時代には天皇制度への反感、日の丸と君が代への苦々しい記憶を持つ国民も多かった。こうした時代を経て、現在日本における最高の平和主義者は、平成から令和につながる天皇家ではないかと思うくらいにまで世論は変化してきた。喉元に刺さるのは戦争犯罪人が合祀されてしまった靖国神社。分祀、もしくは慰霊シンボルの別の場所への移転が必要である。明仁親王が天皇を経て上皇になられる期間を通して体現してきた反戦と戦争への反省に敬意を表する。本書内容は以上。

2018年、レオナール・フジタの展覧会があり、そこで「アッツ島玉砕」の絵を見る機会があった。それは乳白色の裸婦を見てきた来館者が一瞬たじろぐような迫力を持って観るものの目の前に現れた。平成の明仁天皇が慰霊のペリリュー島で美智子皇后とともに一礼する報道映像は強烈な印象を与えた。加賀乙彦の「帰らざる夏」の価値観転換ショックも強烈だった。こうした記憶は戦争体験はなくても戦争をしてはならないという思いを共有するための触媒となるはずだ。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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