見出し画像

意思による楽観のための読書日記

銀座、祝祭と騒乱 銀座通りの近代史 野口孝一 ***

江戸時代、江戸の町は何度も大火災にあった。今では東京の代表的なメインストリート銀座通りも例外ではなかったが、江戸時代の銀座通りは場末の通りだった。そこに並んでいたのは、表通りが質屋、古道具、豆腐屋、舶来物、蝋燭、人力車、古本、小道具、水油、居酒屋、仕立て、挽物、籐細工、手遊物、枡酒、医師、裏通りは芸妓屋、寄席渡世、車持ち、手跡指南、医師、通勤など。明治維新後、銀座通りでの最初の祝祭は、天皇東行後の東京入京お披露目だった。海外からの最初の賓客は英国王子エジンバラ公、将軍家の庭園だった浜離宮を改築し延遼館と命名され宿舎とした。

維新後の銀座通りは横浜から鉄道が通った新橋停車場と一番の繁華街だった京橋、日本橋をつなぐ通りとなり、明治5年の大火のあと、レンガ造りの街に建て替えることになった。表通りを一級、裏通りは二級、三級の煉瓦家屋として民間に払い下げられることになったため、江戸時代の住民は高価な価格に逃げ出し、代わって新聞社、見世物興行、舶来物など新たな住民が集まってきた。

鉄道開通後は多くの上京者や海外賓客が銀座通りを通り見物客が集まる場所となる。明治時代の祝祭を並べると台湾出兵凱旋、前米国大統領グラント将軍来日、大日本国憲法発布記念、東京開府300年祭、明治天皇大婚25年祝賀、日清戦争戦勝祝賀会、奠都30年祝賀会、新橋・京橋開橋式、市電開通、日露戦争凱旋パレード、石橋日本橋開橋式と続く。明治35年の銀座通りの1丁目から8丁目までの詳細な地区割と商店街名称が残っており圧巻である。出雲町一番地に福原有信が開設した間口五間の調剤薬局は資生堂となり、銀座3丁目の家屋は原胤昭がキリスト教布教のための十字屋を開設、横浜から仕入れたオルガンなどを売り出した。後に楽器店十字屋となる。

大正時代になると、第一次大戦の中国青島攻撃司令官となった神尾中将の凱旋、東京駅開業記念、大正天皇大典奉祝、東宮殿下成年祝賀、奠都50年祭、東京市制30周年祝賀会、明治神宮創建奉祝と続く。明治の最初に植えられた街路樹は桜、松、楓だったがすべて枯れ、代わって植えられた柳が根付いて育ったので、銀座通りの街路樹は柳になっていった。明治の最初の街路灯はランプ、明治7年にガス燈、そして明治15年には最初の電気灯が灯る。明治の間それらは混在し、大正10年まで多くはガス燈のままだった。明治時代には夜の店は少なく、夜間街を歩く人はあまりいなかったが、大正に変わる頃からはカフェーが現れ、洋食店、中華の店も現れる。ガス灯に美しく映える柳の並木は通行人にも愛され、こうした夜の繁華街は日本に現れた初めての夜の街の情景だった。この美しい情景は1923年の関東大震災で大きな被害を受ける。

震災復興後の昭和時代になると、昭和天皇即位大礼奉祝、帝都復活祭、市民公徳行列、柳植樹祭とやなぎ祭りなどが行われる。昭和5年の商店街一覧と地図も残っていて、一覧すると今でも存在する百貨店や商店が見られる。その後は徐々に戦時体制に移行する中でも銀座通りはパレードが行われた。地下鉄銀座駅開通、アメリカ大リーグ選抜チーム歓迎パレード、築地市場開場、日露戦争勝利30周年、満州国皇帝溥儀奉迎、上海事変5周年、銀座祭り、昭和12年には東京ロンドン間の飛行機録を樹立した神風号記録達成記念、南京陥落祝賀提灯行列、ヒトラーユーゲント来日記念、戦車軍事行進、陸軍記念日行進、愛馬行進、海軍記念日記念、紀元2600年祭と戦争関連の行事が続いて、空襲による破壊へとつながっていく。本書内容は以上。

銀座通りの歴史を見ていると、それは日本近代史そのものだと言うことがよく分かる。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事