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意思による楽観のための読書日記

卑弥呼以前の倭国五〇〇年 大平裕 ****

中国大陸、遼寧、吉林省、朝鮮半島での遺跡発掘で、新たに銅鐸、明刀銭(燕の通貨)、多鈕鏡(複数の紐を通す穴がある鏡)などの出土品があり、「山海経」などの古代文献を通して、日本列島における弥生時代は定説より500年遡ることが分かってきたという。中国大陸の殷(BC1400-1027)末期、周(BC1027-BC771)の時代には、すでに日本の王朝との交流があった。これは卑弥呼が登場するAD237よりも800年以上遡る。これを実証するため、多鈕鏡、明刀銭、銅銭などの実物を見るため北京、瀋陽にも現地取材してきた。

「山海経」は、古代中国人の伝説的地理認識を示すものとされ、信ぴょう性には疑義もあるが、そこには倭人は燕に属すと記されている。燕は周の同時代にあった春秋・戦国時代に存在した国の一つで、BC222秦により滅ぼされた。燕の南にあった斉には「東海三神山信仰」があり、秦の始皇帝も同じ信仰があり、秦の方士徐福伝説は有名だが、始皇帝は徐福を三度も東渡させ、日本列島にも多く残されている徐福伝説があり、単なるおとぎ話とも考えにくい。

銅鏡は春秋時代に入ると爆発的に増え、北方の色が強い多鈕鏡は、遼寧、吉林省から北部・西部朝鮮半島を経て、遅くともBC300頃までには北部九州に到達している。その鋳型がBC200頃の発掘物とともに福岡県春日市須玖遺跡で発掘された。小銅鐸は国産化されおもちゃ、玩物として珍重されこれが中型化、大型化され、国内では種々の銅鐸に発展した。明刀銭は戦国・春秋時代の燕で使われた貨幣で、これも遼寧、吉林省から朝鮮半島平安北道・南道を経由して列島各地に到達、時代は燕滅亡のBC222より前のこと。春秋戦国時代に日本列島に一番近い燕が楽浪郡をおさえ倭国との通商を行っていた。その交流の跡が青銅器(銅鐸、小銅鐸)、明刀銭、多鈕鏡だ、というのが筆者の主張。

筆者は邪馬台国の読み方は「ヤマト」であるとしている。後漢書の記述「邪馬臺」は7世紀には李賢、19世紀には清朝の学者王先謙により音の訛りが指摘され、発音は「ト」とすべきとされている。魏志倭人伝では「邪馬壹」と記され、これは後漢書からの転写ミスと考えられる。後漢書の撰上は5世紀なので魏志倭人伝のほうが古いとの解釈があるが、書き始められたのは後漢書が先で後漢王朝の乱れがあり取りまとめに時間がかかったため。「隋書倭人伝」における裴世清の記述で、608年筑紫より瀬戸内をめぐりながら、倭国の境域について東西徒歩5ヶ月、南北徒歩3ヶ月で海に至るとし、邪靡堆(やまと)を王都とする、としている。卑弥呼は日御子であり、記紀における天照大神であるという。

邪馬台国は大和盆地にあり、「後漢書」に記された大倭王の居館が唐古・鍵古墳、倭国大乱の時代にすぐ近くの清水風遺跡の場所を経由して古墳時代の幕開けとなる纒向遺跡に移動した。唐古・鍵遺跡こそが、弥生時代の渡来人たちが水田耕作に適した平地であり大和川水系を使い、河内地方との同一経済圏だった地域。唐古・鍵遺跡が弥生時代全期から古墳時代にまで引き継いだ場所で、吉備、伊勢からの土器が集積された場所。ちなみに筆者は大平正芳の子で現在は記念財団代表。本書内容は以上。

これだから古代史は面白い!
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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