終わりの見えない恐怖。それでも希望を見つけて生きていく

コロナ禍になって約1年。

まだまだ感染者が増えていて、ワクチンが出たようですが、先の不安でいっぱいの日々だと思います。

こんな状態では自律神経も乱れがちで、目の痛みや頭痛など訳の分からない症状が続くことがあります。

外を出ると、マスクをするのが「常識」であるかの状態になり、公共の交通機関の中で、咳やくしゃみをすると白い目で見られるようになりました。

何も覆わずに、くしゃみや咳をしていた人が大勢いた時代は大昔のように思えます。

咳エチケットが浸透してきたのは喜ばしいのですが、このコロナ禍は、いい加減終わりになって欲しいですね。

ワクチンの接種が始まっているようですが、それを打つか打たないかも人それぞれの考えで、ワクチンを接種したからと言っても、即、安心にはつながりません。

 

私は昨年の今頃は、絶望しか感じられなく、変な意識に引っ張られていました。

人が言っていることを、自分の考えのように取り入れ、なんか違う?と思いながらも、そこから抜け出せずにいた状態でした。

言葉では前向きなことを発していても、心の中では「絶望と恐怖」。

もう生きていけないと思い、今の状況から、逃げたい逃げたい。
どうか逃げる道をくださいと願っていました。

なぜ両親は、私をそっちの世界に呼んでくれないのか?と毎日考えて、呼んでもらえることを願っていました。

それでなのか、自分が無くなり、知人が無茶苦茶だと思うことを言っていても、それに乗っかりそうになり、自分や人に絶望し、誰かに会うのが嫌になったり。

心と体がバラバラの滅茶苦茶な状態でした。

何とか踏ん張ることができたのは、数年前に引きこもっていた時のほうが辛かったからだと思います。

 

昨年の前向きなフリをしていた日々に比べたら、今はあまりにも穏やかです。

今でも恐怖は常に襲ってくるけれど、誰のせいでもないし、自分のせいと言ってしまうのも何か違う気がする。

諦めたような、どうでも良いような、それとも達観といった状態でしょうか。

去って行く人は去って行けばいい。

人を利用しようとする人は淋しい人。

ちゃんと前を向いて生きろと言われても、出来ない時もある。
でも、そんな自分も必要。

心に背いて、ムリに動いても動かなくても、行きつくところは同じ気がしています。

失ったものに執着したり、取り戻そうとするよりも、これからの新しい何かを手に入れるために動く方が楽しい。

それもまた、しんどいけれど、過去を悔やんでグダグダした気分でいるよりは、明るい未来を想像して、そこに向かって動く方が希望に変わります。

自分の価値観を大事にして、誰かの言っていることに引っ張られないようにして、これからも穏やかに生きていけたら良いなと思っています。

いつ終わるか分からないコロナ禍。

いろんなことを我慢我慢で、もうウンザリですが、その中に少しでも楽しい事や希望を見出して、自分らしく生きていきたいですね。