「自分が貢献した結果・やり遂げた目に見えるモノ」が絶えず欲しい
自分の存在を確認したいから
でも結局結果はモノではなく、「心に何を願っているか」だけが永遠に残ります
キリストに何を願うか
キリストがどんな方か知れば祈りの内容が決まっていきます
だからキリストがどんな方か知り愛することが人生の主な目的になります
キリストを知ることは本来の愛と赦しと命と伴い・友情を知ることです
祈る時、キリスト・聖霊にどう祈ればいいか、神はその課題をどう思っているのか、そう聞きながら祈る人は
神からの新しい視点・発見がある
思いを知ることで愛が深まる
目に見える結果を出すよりも心の思いに安らぎがあるか、愛や平和を心から静かに望めているか
神に聞きながら祈る人に
教会でほとんど会ったことがありません
教会の決まり言葉で祈る人ばかりです
それが最大の悲劇です
祈りは心がそのまま表れるものでしょうに
私たちは目の前の結果・モノを期待して執着すると道を誤ります
心の問題に無頓着な人、良心や常識をまったく期待できない人に期待したりあわれみを持って良いものを与えても、引き裂かれて捨てられ心を廃墟のようにされます
良い発想、人を生かし救う発想は、それを本当に心から願う人にしか生まれようがありません
「周りはあなたが思う程あなたに関心は無い、
しかしあなたは自分が思うよりも周りに大切に思われている」
誰でもそう、大切な存在です
結局、毒になる親・毒になる教会は「現世の見栄・栄光」を求めて他人を洗脳し無理な目標と即結果を迫る虐待を繰り返すだけに過ぎません
キリストの心がある人は、絶えず願う人になっている
その心にあるものが表れます
私たちが心に信じられる唯一のものは、生きているキリストご自身でしょう
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福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。
自分の存在を確認したいから
でも結局結果はモノではなく、「心に何を願っているか」だけが永遠に残ります
キリストに何を願うか
キリストがどんな方か知れば祈りの内容が決まっていきます
だからキリストがどんな方か知り愛することが人生の主な目的になります
キリストを知ることは本来の愛と赦しと命と伴い・友情を知ることです
祈る時、キリスト・聖霊にどう祈ればいいか、神はその課題をどう思っているのか、そう聞きながら祈る人は
神からの新しい視点・発見がある
思いを知ることで愛が深まる
目に見える結果を出すよりも心の思いに安らぎがあるか、愛や平和を心から静かに望めているか
神に聞きながら祈る人に
教会でほとんど会ったことがありません
教会の決まり言葉で祈る人ばかりです
それが最大の悲劇です
祈りは心がそのまま表れるものでしょうに
私たちは目の前の結果・モノを期待して執着すると道を誤ります
心の問題に無頓着な人、良心や常識をまったく期待できない人に期待したりあわれみを持って良いものを与えても、引き裂かれて捨てられ心を廃墟のようにされます
良い発想、人を生かし救う発想は、それを本当に心から願う人にしか生まれようがありません
「周りはあなたが思う程あなたに関心は無い、
しかしあなたは自分が思うよりも周りに大切に思われている」
誰でもそう、大切な存在です
結局、毒になる親・毒になる教会は「現世の見栄・栄光」を求めて他人を洗脳し無理な目標と即結果を迫る虐待を繰り返すだけに過ぎません
キリストの心がある人は、絶えず願う人になっている
その心にあるものが表れます
私たちが心に信じられる唯一のものは、生きているキリストご自身でしょう
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
コリント人への第一の手紙 2:9-16 JA1955
https://bible.com/bible/81/1co.2.9-16.JA1955
偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。
マタイによる福音書 15:7-18 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.15.7-18.JA1955
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
マタイによる福音書 23:25-28 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.23.25-28.JA1955
よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
マルコによる福音書 11:23-24 JA1955
https://bible.com/bible/81/mrk.11.23-24.JA1955
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NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。