ヤコブは、神が自分と語られた場所を
ベテル(神の家)と名付けた。
創世記35:15

 

百人隊長や
一緒にイエスの見張りをしていた
人たちは、
地震やいろいろの出来事を見て、
非常に恐れ、
「まことに、この人は神の子だった」
と言った。
マタイ27:54

 

 福音書:ヨハネ19:16~30

 使徒書:Ⅱコリント5:(14b~18)19~21

 旧約:イザヤ書52:13~53:12

 説教:マタイ27:33~54

 日課:1ペテロ3:18~22

 通読箇所:マルコ15:42~47

  (ローズンゲン『日々の聖句』3/29聖金曜(受難)日

 

   ―――― α&ω  ――――

 

 天の神、主は、
イエスが生まれる700年ほど前に活動した
預言者イザヤを通し、次のように預言しておられます。

 

「見よ、わたしのしもべは栄える。

彼は高められ上げられ、きわめて高くなる。

多くの者があなたを見て驚き恐れたように、

その顔だちは損なわれて人のようではなく、

その姿も人の子らとは違っていた。

そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。

王たちは彼の前に口をつぐむ。

彼らが告げられていないことを見、

聞いたこともないことを悟るからだ。」

 

私たちが聞いたことを、だれが信じたか。

【主】の御腕はだれに現れたか。

彼は主の前に、ひこばえのように芽生え出た。

砂漠の地から出た根のように。

彼には見るべき姿も輝きもなく、

私たちが慕うような見栄えもない。

 

彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で、病を知っていた。

人が顔を背けるほどに蔑(さげす)まれ、

私たちも彼を尊ばなかった。

 

まことに、彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みを担った。

それなのに、私たちは思った。

神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、

私たちの咎(とが)のために砕かれたのだ。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

その打ち傷のゆえに、私たちは癒(いや)された。

 

私たちはみな、羊のようにさまよい、

それぞれ自分勝手な道に向かって行った。

しかし、【主】は私たちすべての者の咎(とが)
彼に負わせた。

 

彼は痛めつけられ、苦しんだ。

だが、口を開かない。

(ほふ)り場に引かれて行く羊のように、

毛を切る者の前で黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない。

 

(しいた)げとさばきによって、彼は取り去られた。

彼の時代の者で、だれが思ったことか。

彼が民の背きのゆえに打たれ、

生ける者の地から絶たれたのだと。

彼の墓は、悪者どもとともに、

富む者とともに、その死の時に設けられた。

彼は不法を働かず、

その口に欺(あざむ)きはなかったが。

 

しかし、彼を砕いて病を負わせることは

【主】のみこころであった。

彼が自分のいのちを

代償のささげ物とするなら、

末長く子孫を見ることができ、

【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。

 

「彼は自分のたましいの

激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、

その知識によって多くの人を義とし、

彼らの咎(とが)を負う。

 

それゆえ、

わたしは多くの人を彼に分け与え、

彼は強者たちを戦勝品として和勝ち取る。

彼が自分のいのちを死に明け渡し、

背いた者たちとともに数えられたからである。

彼は多くの人の罪を負い、

背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ52:13~53:12)

 

 

 イエスが十字架刑で処刑された後の様子を、
マルコは次のように書いています。

 

さて、すでに夕方になっていた。
その日は備え日、
すなわち安息日(土曜日)の前日であったので、
アリマタヤ出身のヨセフは、
勇気を出してピラトのところに行き、
イエスのからだの下げ渡しを願い出た。
ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。

 

ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。
そして百人隊長を呼び、
イエスがすでに死んだのかどうかを尋ねた。
百人隊長に確認すると、
ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。

 

ヨセフは亜麻布を買い、イエスを(十字架から)降ろして
亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。
そして、墓の入り口には石を転がしておいた。

マグダラのマリアとヨセの母マリアは、
イエスがどこに納められるか、良く見ていた。(マルコ15:42~47)

 

 

 使徒パウロは言います。

私たちはこう考えました。
一人の人がすべての人のために死んだ以上、
すべての人が死んだのである、と。


 

キリストはすべての人のために死なれました。
それは、生きている人々が、
もはや自分のためにではなく、
自分のために死んでよみがえった方のために
生きるためです。~~

 

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

これらのことはすべて、神から出ています。
神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、
また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

 

すなわち、神はキリストにあって、
この世をご自分と和解させ、
背きの責任を人々に負わせず、
和解のことばを私たちに委ねられました。

 

こういうわけで、
神が私たちを通して勧めておられるのですから、
私たちはキリストに代わる使節なのです。
 

私たちはキリストに代わってお願いします。
神と和解させていただきなさい。
神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。
それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(Ⅱコリント5:14b~21)

 

 

 神は、罪を知らない方イエスを、罪として
十字架刑で処刑され、
そのイエスの死によって私たち、人間のすべてが
死んだものとされました。

 

そして、イエスの三日目の死人の中からの

新しいからだへの復活、
そして、もう一人の方、【聖である霊】と呼ばれる方が
私たちに派遣されることによって、
私たちの心に【父である神】の御思いを置き、
私たちのうちに【父である神】の御思いがあるようにし、
受け入れる者が【父である神】と思いを一つにして生きる、
新しく生きる道を開いてくださいました。

 

 

 私たちも、この百人隊長のように、
このイエスこそ神の御子であることを認め、神と和解し、
【聖である霊】と呼ばれる方をお迎えし、
神の御思いで生きる道へと進みたいものです。

 

私たち一人ひとりを「ベテル(神の宮)」としていただいて、
神が私を通してしようと思われることをしていく今日を生きて。

今日も。

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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正義は国を高める。
罪は民の恥となる。
箴言14:34

 

イエスはそこを出て、
いつものようにオリーブ山に行かれると、
弟子たちも従った。
目的の場所に来ると、
イエスは弟子たちに、

「誘惑に陥らないように祈りなさい」
と言われた。
ルカ22:39~40 

 

 説教/福音書:ヨハネ13:1~15、34~35

 使徒書:1コリント11:(17~22)23~26(27~29、33~34a)

 通読箇所:マルコ15:24~41 

    (ローズンゲン『日々の聖句』3/28;聖木曜日)

 

   ―――― α&ω  ――――

 

 イエスが十字架刑での死刑を受けられる前の晩の、
木曜日の夕食の席でのことを
使徒ヨハネは次のように記しています。

 

さて、過越しの祭りの前のこと、
イエスは、この世を去って父のみもとに行く、
ご自分の時が来たことを知っておられた。
そして、世にいるご自分のものたちを愛してきたイエスは、
彼らを最後まで愛された。

 

夕食の間のこと、
悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、
イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、
またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを
知っておられた。

 

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、
手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、
腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 

こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、
ペテロはイエスに言った。
「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは彼に答えられた。
「わたしがしていることは、今は分からなくても、
後で分かるようになります。」

ペテロはイエスに言った。
「決して私の足を洗わないでください。」
イエスは答えられた。
「わたしがあなたを洗わなければ、
あなたはわたしと関係ないことになります。」

シモン・ペテロは言った。
「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。
全身がきよいのです。
あなたがたはきよいのですが、
皆がきよいわけではありません。」

イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。
それで、皆がきよいわけではない」と言われたのである。

 

イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、
彼らに言われた。
「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。
そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
主であり、師であるこのわたしが、
あなたがたの足を洗ったのであれば、
あなたがたもまた、
互いに足を洗い合わなければなりません。
わたしがあなたがたにしたとおりに、
あなたがたもするようにと、
あなたがたに模範を示したのです。

  ~~~

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、
あなたがたがわたしの弟子であることを、
すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:1~15、34~35)

 

 

 そのあとイエスは弟子たちと一緒に
ゲツセマネの園へ行かれました。

「いつものように」とあるので、
イエスはよく、そこに行かれていて、
イスカリオテのユダもそのことをよく知っていたようです。

 

そして弟子たちに、
「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、
ご自分はさらに奥に進み、
これからご自身が受けようとしている十字架刑での死刑を、
できることなら過ぎ去らせてほしいと
父である神に祈られました。
 

「しかし、わたしが望むことではなく、
あなたがお望みになることが行われますように」と。

 

 

 そこへ、
ユダを先頭にやって来た人たちがイエスを捕らえ、
大祭司の家に連れて行きました。

そこでのサンヘドリン(最高法院)の裁判で
イエスを自分を神の子とし、神を冒涜した者として
死罪の判決を下しました。

 

当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、
相当の自治は与えられていましたが、
死刑を執行する権限は与えられていなかったため、
大祭司たちはイエスをローマ総督ピラトに引き渡し、
死刑を執行するよう要求しました。

 

ピラトはイエスに罪がないことを認め、
釈放しようとしますが、
群衆はイエスを十字架につけるようピラトに要求し続け、
暴動になりそうなのを見てピラトは
イエスに死刑判決を下し、兵士たちに引き渡しました。

 

兵士たちはイエスを、
ゴルゴダ(どくろの場所)に連れて行き、十字架につけた。
彼らがイエスを十字架につけたのは、午前9時であった。
イエスの罪状書には、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、
一人は右に、一人は左に、十字架につけた。
 

通りすがりの人たちは、
頭を振りながらイエスをののしって言った。
「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

 

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、
代わる代わるイエスをあざけって言った。
「他人は救ったが、自分は救えない。
キリスト、イスラエルの王に、
今、十字架から降りてもらおう。
それを見たら信じよう。」

また、一緒に十字架につけられていた者たちも
イエスをののしった。

 

さて、12時になった時、闇が全地をおおい、
午後3時まで続いた。
そして3時(神殿で過越しの小羊が屠られる時間)に、
イエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
訳すと「わが神、わが神、
どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。

 

そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。
「ほら、エリヤを呼んでいる。」
すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、
葦の棒に付け、
「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、
イエスに飲ませようとした。

しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。

 

すると、神殿の(聖所と至聖所を隔てている)幕が
上から下まで真っ二つに裂けた。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、
イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。
「この方は本当に神の子であった。」

 

女たちも遠くから見ていたが、
その中には、マグダラのマリア、
小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
イエスがガリラヤにおられたときに、
イエスに従って仕えていた人たちであった。
このほかにも、
イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちが
たくさんいた。(マルコ15:24~41)

 

 

 このようにして、旧約聖書で預言されていたとおりに、
【父である神】は、御子である方を木に掛けられ、
私たち、すべての人間の
創造の目的からの「的外れ」の責任を
イエスに背負わせて処刑し、
私たちの死刑が完了しているものとしてくださり、
【聖である霊】と呼ばれる方が私たちに来てくださる道を
開いてくださいました。

 

この方、【聖である霊】と呼ばれる方が、私たちの心に
【父である神】の御思い置き、書き記してくださって、
私たちのうちに【父である神】の
私たちそれぞれに関わる御思いがあるようにし、
私たちが【父である神】と思いを一つにして生き、

御思いのとおりに国に公義と愛をもたらすようにと。

今日も。

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、
永遠の命を得るためである。
ヨハネ3:14b(3/24の週の聖句)

 

主よ、
あなたが祝福されたものは、
とこしえに
祝福されるのですから。
歴代誌上17:27

 

そうして、王は
右にいる人たちに言う。
「さあ、わたしの父に祝福された人たち、
天地創造の時から
あなたがたのために用意されている
国を受け継ぎなさい。」
マタイ25:34 

 

福音書:ヨハネ12:12~19

説教/使徒書:フィリピ2:5~11

旧約:イザヤ書50:4~9

通読箇所:詩篇88

(ローズンゲン日々の聖句3/24;Ⅳ日曜 受難週聖日)

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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人間は、
自分のために
神々を造れるだろうか。
エレミヤ書16:20

 

だから、地上の体に属するもの、
すなわち、
淫らな行い、汚れた行い、
情欲、悪い欲望、
及び貪欲を殺してしまいなさい。
貪欲は
偶像礼拝にほかなりません。
コロサイ書3:5

 

 黙示録14:1~3(4、5)

 マルコ14:43~52(通読箇所)

    (ローズンゲン日々の聖句3/23;土)

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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かつてあなたは地の基を据えられました。
天もあなたの手の業
(わざ)です。
詩篇102:26

 

天にあるものも地にあるものも、
見えるものも見えないものも、
万物は
御子において造られたからです。
コロサイ書1:16

 

  ヘブル書10:1、11~18
 マルコ14:32~42(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句3/22;金)

 

   ―――― α&ω  ――――

 

 聖書を通しご自身を啓示している神、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)は、
地の基を据えられ、天、宇宙の星々を造られた方。

 

御子なる神は、「神のことば」として、
この天地、宇宙の創造に関わられた方なのですね。

 

「初めにことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神ととものおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、
この方によらずにできた物は一つもなかった」(ヨハネ1:1~3)
と書かれているとおりに、
天にあるもの、地にあるもの、万物は、
この方によって造られたのだそうですから。

 

 

 この、万物そして私たち人間を創造された方が、
私たちの贖(あがな)いの代価(身代金)として
自分のいのちを差し出すために、人間となって、
人間の世に来られたと聖書はいうのですね(マタイ20:28)。

 

 

 ヘブル書の記者はいます。
「律法には来るべき良きものの影はあっても、
その実物はありません。
ですから律法は、
年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって
神に近づく人々を、完全にすることはできません。

 

さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、
同じいけにえを繰り返し献げても、
それらは決して罪を除き去ることができませんが、
キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、
永遠に父なる神の右の座に着き、
あとは、敵が
ご自分の足台とされるのを待っておられるのです。

 

なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、
一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

 

聖霊もまた、私たちに証ししておられます。
というのも、『これらの日の後に、
わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。

——主のことば—— 

わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、
彼らの思いにこれを書き記す』と言った後で、
『わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない』
と言われるからです。
罪と不法が赦されるところでは、
もう罪のきよめのささげ物はいりません。」(ヘブル10:1、11~18)

 

 

 イエスは、【父である神】の御思いに従い、
この、私たちの罪(神の創造の目的からの的外れ)の
罰金としてご自身のいのちを支払うために
十字架刑で処刑される道を進んでくださいました。

 

その様子をマルコは次のように記しています。

最後の晩餐(過越しの食事)をした後、
彼らはゲツセマネという場所に来た。
イエスは弟子たちに言われた。
「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。
イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
ここにいて、目を覚ましていなさい。」

 

それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、
できることなら、
この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。

 

そしてこう言われた。
「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。
どうか、この杯をわたしから取り去ってください。
しかし、わたしの望むことではなく、
あなたがお望みになることが行われますように。」

 

イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、
ペテロに言われた。
「シモン、眠っているのですか。
一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。
霊は燃えていても肉は弱いのです。」

 

イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
そして再び戻って来てご覧になると、
弟子たちは眠っていた。
まぶたがとても重くなっていたのである。
彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。

 

イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。
「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。
時が来ました。
見なさい。
人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。
さあ、行こう。
見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」(マルコ14:32~42)

 

 

 このように、
【神のことば】、【御子である神】と呼ばれる方が、
人間イエスとしてこの人間の歴史の中に来られ、
神が呪われた者となって十字架刑での処刑を受ける道を
歩んでくださいました。

 

私たちを、神が
「彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われるようにし、
【聖である霊】と呼ばれる方が私たちに来られて、
神の御思いを私たちの心に置き、書き記してくださって、
私たちのうちに【父である神】の御思いがあるようにし、
私たちが、〔生まれたときからの私〕という
自分から出て来た思いで動くのではなく、
この【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いで生きるようにするために。

 

それで私たちはこの新しい契約、
新しい生き方で進んでいくのですね。

今日も。

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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主は世界中至るところを見渡され、
ご自分と心を一つにする者を
力づけようとしておられる。
歴代誌下16:9

 

 

この方はあなたがたの心の目に
光を与えてくださいます。

それは、あなたがたが
どのような希望へと
この方によって招かれているのか、
また私たち信仰者に
大いに力強く示される神の御力が、
いかに圧倒的なものであるかを、
あなたがたが悟ることができるように
してくださるためなのです。
エフェソ書1:18、19(ド)

 

 ガラテヤ書6:(11~13)14~18

 出エジプト記7:14~25(通読箇所)

    (ローズンゲン日々の聖句2/26;月)

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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喜びながら主に仕えよ。
喜び歌いつつ
その前に進み出よ。
詩篇100:2

 

善を行い、
気力を失わないでいましょう。
怠ることなく励んでいれば、
キリストの時に至り、
私たちも刈り入れを迎えることに
なるのですから。
ガラテヤ書6:9(ド)

 

 ヤコブ書4:1~10
 出エジプト記4:18~3 1(通読箇所)
     (ローズンゲン日々の聖句2/22;木)

 

   ―――― α&ω  ――――

 

 聖書を通しご自身を啓示している方、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)に仕えるのですね。
私たち。
喜び歌いながらこの方の御前に出て行って。

 

 

 私たち人間は、元々、
この方、天の神、【主】の
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、
われわれに似姿に」(創世記1:26)との御思いによって
創造されたものなのだそうです。

 

「われわれ」、
【父である神】、【御子である神】、
【聖である霊】と呼ばれる神が、
互いに愛し合っておられ、
自由意思で、自発的に、
「自分の思いが成ることよりも、
相手が思っていることが成るように」と願い、
思いを一つにしておられる、
その「一つ」の中に、
愛において、自由意思で、自発的に加わる者をとの
願いによって。
それが喜び、生き甲斐である者にと(ヨハネ6:38、8:28)。

 

 

 けれども私たちは、
この、「神と思いを一つにする」在り方を捨て、
「神の一人のようになり、
善悪を知る者」となって(創世記3:22)、
天の神、【主】と対立、対抗して、
自分の理性だけよる「善悪」の判断で生きる者に
なっています。
生まれたときから、神の創造の目的から「的外れ」な者に。

 

 

 イエスは、
私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受け、
私たちの、この「神の一人のようになろう。
自分の理性の判断だけで善悪を決めよう」とする
「的外れ」になった〔生まれたときからの私〕という霊を、
死刑が完了したもの、死んだものと
手続きしてくださいました。

 

そしてイエスは、死んで墓に納められ、
三日目、日曜日の早朝、
新しい霊のからだに復活し、
40日にわたり弟子たちに何度も現れ、
神の国のことを語り、
御自身が生きていることを証明したあと、

オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、【父である神】の右の座に復帰されました。

 

そこで、【父である神】は、
かねてからの約束のとおり
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル11:19~20、36:25~28)
このイエスを通して、
もう一人の方、
【聖である霊】と呼ばれる方を私たちに遣わし、
この方によって御自身の思いを
私たちの心に置き、書き記して、
私たちのうちにご自身の思いがあるようにし、
私たちがご自身と思いを一つにして生きるようにと
回復してくださいました。

喜び歌いながら御前に出て、
自分の思いをしていくことよりも、

この方が思われることをしていく者にと。

 

気力を失い、あきらめてしまうことなく、仕え続けていれば、
キリストの時が来て、
御霊から永遠のいのちを刈り取ることになるのですから。

 

 

 

 イエスの弟のヤコブは手紙で書き送っています。

「あなたがたの間の戦いや争いは、
どこから出て来るのでしょうか。
ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う
欲望から出て来るのではありませんか。
あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、
人殺しをします。
熱望しても手に入れることができないと、
争ったり戦ったりします。

 

自分のものにならないのは、
あなたがたが求めないからです。
求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと
悪い動機で求めるからです。
 

節操のない者たち。
世を愛することは
神に敵対することだと分からないのですか。
世の友となりたいと思う者はだれでも、
自分を神の敵としているのです。

 

それとも、聖書は意味もなく語っていると思いますか。
「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、
ねたむほどに慕っておられる。
神はさらに豊かな恵みを与えてくださる」と。

 

それで、こう言われています。
「神は高ぶる者に敵対し、
へりくだった者には恵みを与える。」

 

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。
そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
 

神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
罪人たち、手をきよめなさい。
二心の者たち、心を清め(単一にし)なさい。
嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。
あなたがたの笑いを悲しみに、
喜びを憂いに変えなさい。
 

主の御前でへりくだりなさい。
そうすれば、主があなたがたを
高く上げてくださいます。」(ヤコブ4:1~10) 

 

 

 

 通読箇所、出エジプト記の続きです。

 ヘブル人(イスラエル人)の男の子が生まれたら
ナイル川に投げ込めとのエジプト王の命令で、
葦のかごに入れられ、
ナイル川の葦の茂みの中に置かれた赤ん坊は、
水浴びに来たエジプト王女に拾われ、
モーセ(水の中から引き出したもの)と名づけられ、
王女の子として育てられることになりました。

 

大人になったモーセは、
苦役の中にある同胞を救おうと願い、
ヘブル人(イスラエル人)を打っているエジプト人を打ち殺し
砂の中に埋めました。

 

しかし、それがエジプト王の知るところとなり、
また、同胞からは、
「だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか。
おまえは、あのエジプト人を殺したように
私も殺そうというのか」と拒否され、
ミデアン(シナイ半島の
アカバ湾をはさんだサウジアラビア側)の地に逃げ、
羊を飼う者となっていました。
そして40年、イスラエルの人々は苦役にうめき、
神に叫びました。

 

モーセは、ミディアンの祭司、
しゅうとイテロの羊を飼っていて、
神の山ホレブ(シナイ山)まで来ました。
そこで燃える柴を見て
「なぜ柴が燃え尽きないんだろう」と近寄ったとき、
神がモーセに現れ、
「わたしは『わたしはある(I am)』という者」と名乗られ、
モーセをエジプトに遣わすと言われました。

 

モーセは答えた。
「ですが、彼らはわたしの言うことを信じず、
私の声に耳を傾けないでしょう。
むしろ『【主】はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」

 

【主】は彼に言われた。
「あなたが手に持っているものは何か。」
彼は答えた。「杖です。」
すると言われた。「それを地に投げよ。」
彼はそれを地に投げた。
すると、それは蛇になった。
その蛇の尾をつかむと杖に戻った。

 

また、モーセが手を懐に入れるとツァラートに冒され、
雪のようになり、
もう一度、懐に入れ、出すと元の手に戻った。

 

さらに、ナイル川の水を汲んで乾いた地に注ぐと
血となるしるしを与えました。

 

しかし、なお、「私はことばの人ではないから」と
尻込みするモーセに、
「人に口をつけたのはだれか。
だれが口をきけなくし、耳をふさぎし

目を開け、また閉ざすのか。
それは、わたし、【主】ではないか」と答え、

雄弁なモーセの兄、レビ人アロンが会いに来るから、
「彼に語り、彼の口にことばを置け。
わたしはあなたの口とともにあり、
また彼の口とともにあって、
あなたがなすべきことを教える。
彼があなたに代わって民に語る。
彼があなたにとって口となり、
あなたは彼にとって神の代わりとなる。

また、あなたはこの杖を手に取り、
これでしるしを行わなければならない」と
モーセを説得します。

 

そこでモーセは行って、しゅうとイテロの元に帰り、
「どうか私を、
エジプトにいる同胞のもとに帰らせてください」と伝え、
イテロから送り出されて、
モーセは妻子を連れ、エジプトへ帰ることになりました。

 

さて、【主】はアロンに言われた。
「荒野に行って、モーセに会え。」
彼は行って、神の山(シナイ山)でモーセに会い口づけした。
モーセは、
自分を遣わすときに【主】が語られたことばのすべてと、
彼に命じられたしるしのすべてをアロンに告げた。
 

それからモーセとアロンは行って、
イスラエルの子らの長老たちをみな集めた。

アロンは、【主】がモーセに語られたことばをみな語り、
民の目の前でしるしを行った。
民は信じた。
彼らは、【主】がイスラエルの子らを顧み、
その苦しみをご覧になったことを聞き、
ひざまずいて礼拝した。(出エジプト記4章より)

 

 

 若い時、同胞を解放する熱意に燃えていたモーセ。
失意のうちに40年の時が過ぎ、熱意も気力もなくして、
尻込みするしかない弱いモーセを神は選び、
エジプトへ遣わされました。

 

私たちも、ありのままの、実体そのもので、
神の働きの現れを運ぶ手足、口、耳として
用いていただくのですね。
神が思われる思いと思いを一つにして。

喜び歌いながら単一な心、

悲しいなら悲しいだけ、
怒りなら怒りだけの私で御前に進み出て。

今日も。

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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神の子が現れたのは、
悪魔の働きを滅ぼすためです。
Ⅰヨハネ3:8b

      (2/18の週の聖句)

 

主よ、
あなたの業
(わざ)はなんと大きく、
あなたの計らいはいかに深いことか。

        詩篇92:6

 

全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、驚くべきもの。
諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、
かつ真実です。
黙示録15:3

 

 ヤコブ書1:1~6(7~11)12、13

 出エジプト記2:11~25(通読箇所)

    (ローズンゲン日々の聖句2/19;月)

 

   ―――― α&ω  ――――

 

 【御子である神】が、
天の栄光の座をあとにして、
人間イエスとして人の世に来られたのは、
悪魔の働きを滅ぼすためだと言われるのですね。

 

 悪魔(サタン)は、元々は天使長の一人として、
神に最も近い場所で神に仕える者でしたが

    (イザヤ14:12~15、エゼキエル28:12~17)、

自分が神のようになろうとして神に反逆し、
神の前から追放され、
やがて、滅びる運命にある者なのだそうです。

 

それで、悪魔は人間を、
その滅びの道連れにしようとしているのですね。

 

イエスは、その悪魔のわざを滅ぼし、
私たち人間を神の創造の目的のとおりに回復し、
神の子、神の家族の身分を与え、
神と思いを一つにしながら生きる者にしてくださる
というのですね。

全能者である神、主は、諸国の民の王であり、
正しく、真実な方なのですから。

 

 

 イエスの弟のヤコブは、手紙で書き送っています。

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、
離散している12部族にあいさつを送ります。

私の兄弟たち。様々な試練にあうときは
いつも、この上ない喜びと思いなさい。
あなたがたが知っているとおり、
信仰(神への信頼)が試されると忍耐が生まれます。
その忍耐を完全に働かせなさい。

 

そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、
成熟した、完全な者となります。
あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、
その人は、だれにでも惜しみなく、
とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。
そうすれば与えられます。

 

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。
疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういう人は二心を抱く者で、
歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。

 

身分の低い兄弟は、
自分が高められることを誇りとしなさい。
富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。
富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くからです。
太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。
すると花は落ち、美しい姿は失われます。
そのように、
富んでいる人は旅路の途中で消えていくのです。

 

試練に耐える人は幸いです。
耐え抜いた人は、神に愛する者たちに約束された、
いのちの冠を受けるからです。
 

だれでも誘惑されているとき、
神に誘惑されていると言ってはいけません。
神は悪に誘惑されることのない方であり、
ご自分でだれかを誘惑することもありません。
人が誘惑にあうのは、
それぞれ自分の欲に引かれ、
誘われるからです。(ヤコブ1:1~14)」

 

 

 

 通読箇所は、出エジプト記です。

兄たちに憎まれ、売り飛ばされたヨセフは、
エジプト王ファラオの侍従長ポティファルの奴隷として

買い取られました。

 

そして、王の夢を解いたことで王に次ぐ者に抜擢され、
神が王に夢で告げられた7年の大豊作と
7年の大飢饉に供える対策を実施し、
エジプト全土を支配する者となりました。

 

そして、飢饉の中、一族をエジプトに招きました。

それから400年ほどの時を経て、
エジプトに下ったとき70人だったイスラエル一族は、
20歳以上の戦うことのできる男だけで60万人という
一つの民族に成長しました。

 

そのころ、
ヨセフのことを知らない別の王朝がエジプトに起こり、
イスラエルの民は奴隷として酷使され、
それでも増え広がるので、
王はイスラエル人の男の子が生まれたら
ナイル川に投げ込むように命令しました。

 

そんな時、モーセは生まれました。
両親は3ヶ月、隠して育てましたが隠し切れなくなって、
水が入らないよう工夫した葦のかごに
赤ん坊のモーセを入れ、
ナイル川の葦の茂みに浮かべました。

 

ちょうど、水浴びにナイル川に下りて来た
エジプト王ファラオの娘がそのかごを見つけ、拾い上げ、
モーセはこのファラオの娘の子として
育てられることになりました。

 

大人になったモーセは、
同胞たちのところに行き、その苦役を見ました。
そして、一人のエジプト人が
イスラエル人の一人を打つの見て、
まわりにだれもいないことを確かめ、
そのエジプト人を打ち殺し砂の中に埋めました。

 

次の日、また外に出てみると、
二人のイスラエル人が争っているのを見て、
「どうして自分の仲間を打つのか」と言うと、
「だれがおまえを、
指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。
おまえは、あのエジプト人を打ち殺したように、
私も殺そうというのか」と反論され、
また、このことを知ったファラオが
モーセを殺そうと探していたので、
ミディアン(サウジアラビアの北西部)に逃れました。

 

そしてそこで、羊飼いをしている
ミディアンの祭司レウエルの娘たちを助けたことから、
この人のところに住むようになり、
レウエルは娘ツィポラを与えました。
彼女が男の子を産んだのでモーセはその子を
ゲルショム(異国にいる寄留者)と名づけました。

 

それから何年もたって、エジプト王は死に、
イスラエルの民は重い労働にうめき、泣き叫んだ。
神は彼らの嘆きを聞き、
アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になり、
彼らをみこころに留められた。(出エジプト記1~2章)

 

 

 天の神、主は、このように人間の歴史の中で
みわざを進めていかれる方なのですね。
全能の力と正義と真実をもって。
私たちをサタンの道連れの滅びから救い出し、

ご自分の家族にしようと。

 

だから、困難の中にあるときも、
心を定め、期待し待ち続けるように、と。

今日も。

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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(神である主のことば)
「わたしの聖なる名を
汚してはならない。」
レビ記22:32

 

(イエスのことば)
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、
なぜわたしの言うことを
行わないのですか。」
ルカ6:46

 ルカ5:33~39
 テトス書3:1~7(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句2/13;火)

 

   ―――― α&ω  ――――

 

 聖書を通しご自身を啓示している神、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)は、聖なる方。
人間の延長線上にある神ではない、
人間とは全く別なる方なのですね。

だから、人間の延長線上にある神々と
同じ扱いをしてはならないのですね。

 

イエスを「主」と呼びながら、
イエスが言われることを行わないのは、
イエスを「主」としていないことなのでしょうから。

 

 私たちの〔生まれたときからの私〕という霊は、
「わたしたちと思いを一つにする者を」(創世記1:26)との
神の創造の目的から的外れになっていて、
神の一人のようになり、
神を無視して自分の理性の判断だけで
善悪を決める者となっています(創世記3:22)。

神に対立、対抗する者に。

 

 その、神に従おうとしない私たちの霊を、
神はなお、惜しんでくださって、
創造の目的のとおりに回復しようと計画してくださいました。

【御子である神】が、人間イエスとして人の世に来られ、

私たちすべての人間の「的外れ」の責任を
御自身の身に負われ、

神に呪われた者となって十字架刑での死刑を受けられて。

 

神は、私たちをイエスの十字架刑での死に合体させ、
死んだものと手続きしてくださいました。

 

十字架刑での処刑を受けられたイエスは、
死んで墓に納められ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活され、

40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
ご自分が確かに生きていることを弟子たちに見せ、
神の国のことを語った後、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の【父である神】の右の座に復帰されました。

 

【父である神】は、そのイエスを通して、
もう一人の方、【聖である霊】と呼ばれる方を
私たちにお遣わしくださり、
この方によって私たちの心に、ご自身の思いを置き、
私たちのうちにご自身の思いがあるようにされます。

エレミヤ31:31~34、エゼキエル11:19~20、36:25~28、ヨハネ17::21~23)

 

それで、私たちは、
この、うちに来た神の御思いによって生きる者、
神と思いを一つにしながら生きる者にと、
新しく生まれさせていただけるのですね。
イエスのことばを行う者にと。

 

 

 パリサイ人(神の律法を守ることに熱心なグループ。
自分たちは他の人たちとちがって
義人だと自負している)たちや律法学者たちは、
また、イエスに言いました。
「(バプテスマの)ヨハネの弟子たちはよく断食をし、
祈りをしています。
パリサイ人の弟子たちも同じです。
ところが、あなたの弟子たちは
食べたり飲んだりしています。」

 

それでイエスは彼らに言われました。
「花婿が一緒にいるのに、
花婿に付き添う友人たちに断食させることが、
あなたがたにできますか。
しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、
その日には彼らは断食します。」

 

イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。
「だれでも、新しい衣から布切れを引き裂いて、
古い衣に継ぎを当てたりはしません。
そんなことをすれば、その新しい衣を裂くことになり、
新しい衣から取った布切れも古い衣には合いません。
 

まただれも、新しいぶどう酒を
古い革袋に入れはしません。
そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を裂き、
ぶどう酒が流れ出て、革袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒は、
新しい革袋に入れなければなりません。

 

まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、
新しいものを望みはしません。
「古いものが良い」と言います。」(ルカ5:33~39)

 

 

 

 パウロの、テトスへの手紙は続きます。

「あなたは人々に注意を与えて、
その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、
すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。
 

また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、
すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。
私たちも以前は愚かで、不従順で迷っていた者であり、
いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、
悪意とねたみのうちに生活し、
人から憎まれ、互いに憎しみ合う者でした。
 

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと
人に対する愛が現れたとき、
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、
ご自分のあわれみによって、
聖霊による再生と刷新の洗いをもって、
私たちを救ってくださいました。

 

神はこの聖霊を、
私たちの救い主イエス・キリストによって、
私たちに豊かに注いでくださったのです。

 

それは私たちがキリストの恵みによって義と認められ、
永遠のいのちの望みを抱く
相続人となるためでした。」(テトス3:1~7)

 

 

 私たちも、この、イエスを通して来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方によって心に来る
【父である神】の御思いと
思いを一つにして生きるのですね。
永遠のいのちの望みを抱く、神の国の相続人として。

今日も。

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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忍耐して主の助けを待ち望むのは
味わいに満ちたことだ。
哀歌3:26(ド)

 

自分に定められている競争を
忍耐強く走り抜こうではありませんか。
信仰の創始者また完成者である
イエスを見つめながら。
ヘブル書12:1~2

 

 Ⅰテサロニケ1:2~10
 テトス書1:1~9(通読箇所)

    (ローズンゲン日々の聖句2/8;木)

 

   ―――― α&ω  ――――

 

 「忍耐して」とは「がまんして」というよりも、
むしろ「期待し続けて」という感じでしょうか。
「天の神、【主】の助けを期待し、待ち望むのは
味わいに満ちたことだ」というのですね。

 

新改訳聖書2017年版では、この箇所は、

「【主】の救いを静まって待ち望むのは良い」と
翻訳しています。

 

私たちを、【父である神】との信頼関係に入れてくださる
イエスご自身が、
私たちの、その【父である神】との信頼関係を
完成させてくださる方。
だから、この方、イエスを仰ぎ見ながら、
この人生を走り抜こうと勧めておられるのですね。

 

 

 パウロはテサロニケにいる、
神に信頼して生きる生き方をしている人たちに
書き送っています。

 

「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、
あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。
私たちの父である神の御前に、
あなたがたの信仰(信頼)から出た働きと、
愛から生まれた労苦、
私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた
忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

 

 神に愛されている兄弟たち。
私たちは、
あなたがたが神に選ばれていることを知っています。
私たちに福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と
強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。

 

あなたがたのところで、私たちが
あなたがたのためにどのように行動していたかは、
あなたがたが知っているとおりです。

 

あなたがたも、多くの苦難の中で、
聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、
私たちに、そして主(イエス)にならう者になりました。

 

その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいる
すべての信者の模範になったのです。
主のことばがあなたがたから出て、
マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、
神に対するあなたがたの信仰(神に信頼して生きる生き方)
が、あらゆる場所に伝わっています。
そのために、私たちは何も言う必要がありません。
人々自身が私たちのことを知らせています。
 

私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、
また、あなたがたがどのように
偶像(人間が考え出した神)から神に立ち返って、
生けるまことの神に仕えるようになり、
御子(イエス)が天から来られるのを
待ち望むようになったかを、知らせているのです。

 

この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、
やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださる
イエスです」(Ⅰテサロニケ1:2~10)と。

 

 

 また、弟子のテトスに宛てた手紙で書き送っています。

「神のしもべ、イエス・キリストの使徒パウロから。
——私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が
信仰(神との信頼関係)に進み、
敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためで、
それは、偽ることのない神が
永遠の昔から約束してくださった、
永遠のいのちの望みに基づくものです。

 

神は、定められた時に、

みことばを宣教によって明らかにされました。

私はこの宣教を、私たちの救い主である神の命令によって
委ねられたのです。—— 

 

同じ信仰(神との信頼関係)による、
まことのわが子テトスへ。
父なる神と、私たちの救い主キリスト・イエスから、
恵みと平安がありますように。

 

私があなたをクレタに残したのは、
残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに
町ごとに長老たちを任命するためでした。

 

長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、
子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、
反抗的であったりしないことが条件です。

 

監督は神の家を管理する者として、
非難されるところのない者であるべきです。

わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、
乱暴でなく、不正な利を求めず、
むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、
正しく、敬虔で、自制心があり、
教えにかなった信頼すべきみことばを、
しっかりと守っていなければなりません。
健全な教えをもって励ましたり、
反対する人たちを戒めたりすることが
できるようになるためです」(テトス1:1~9)と。

 

 

 私たち、惑わされたり、心動かされたりする者ですが、
イエスを通して来てくださっている
【聖である霊】と呼ばれる方によって心に来る
【父である神】の御思いによって、
期待をもって待ち望み、
私たちを完成してくださるイエスを見つめながら
生きていきたいですね。

 

ここで、長老や監督の資質として述べられているような心を
与えていただきながら。

今日も。

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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