というわけで、繁忙期を終えて、、
ゆるり久々にブログでもと思いつつ、、
さて、この夏に扱っているとある高校生の英語の教材にこんなお話が載っていたのでほほー!と思い、シェア、、
ある小さな女の子は、いつも窓の外を眺め谷を越えて向こう側に見える綺麗で大きな家に憧れていたのだそう、、
日が昇ると向こうのその家はキラキラと輝き黄金の光を放っているように見えた、、
いつしか大きくなったらあの家に住みたいと思うようにもなっていた、、
そして月日は経ち、一人で出かけられるほどに成長した彼女は夢にまで見たその家へ行ってみようと自分の家を後にした、、
旅の道中、思った以上に遠くにあるがため何度か休みを取りながら、やっとの思いで憧れの家に辿り着いた彼女が目にしたのは、自分が夢にまで見た家とは似て非なるものだった、、
彼女の目の前には古びた大きな家が立っているだけだった、、
落胆に暮れる彼女がその場を後にしようと来た道を振り返ると、、道の向こうにキラキラと輝く家があることに気づく、、
驚いた彼女が歩みを進め徐々に近づいてみると、、その輝く家は、夕日に照らされて黄金に輝く自分の家だった、、
めでたしめでたし、、
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といわけで、なかなかいい教訓を与えてくれているように思うこのお話、、
外側の輝くものを求めてはるか遠くへ出かけた先に見つけたのは、、実は自分は、「初めから輝く場所」 に居たというシンプルさ、、
今あるものがたとえ受け入れがたいものであっても、ただそれ共に在ること、それ以外を望む心が沸き起こってもその場をしかと見て、その場に根差しその場を生きること、、
ある意味でその受容の力が驚くべき変容を起こすカギになり得るということもあるでしょう、、と言ってもこれは、、どこかに行ってはいけないという意味ではなく、どこに居てもどこへ行ったとしてもそこが宇宙の唯一の姿、今ここであるということには他ならないわけです、、
悟りを開き体現しているもっとも偉大な禅の師も、アドヴァイタの聖賢も、この絶えず変化を続けていて考えではつかめない出来事、つねに完全な今この瞬間の出来事と切り離された存在ではありません。
解放はとても単純で、とても簡単で、すぐに手が届き、無条件に自由です。それは、したいことをしたり、こうありたいという理想通りの人間になったり、他のすべての人たちを思い通りにしたりする自由ではありません。今ある通りの自分でただいるという自由です。
向かうべき場所もなければ何かになる必要もないというそのこと、私自身何度も繰り返し発見しているそのことは、とても大きな安堵をもたらします。
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最期にはどんどん単純になっていきます。雲を眺め、鳥が歌うのを聴き、コーヒーを飲み、息を吸って息を吐き、指を噛み、貧乏揺すりをし、ハートを開き、<ここ・今>であるとき-------あなたがそれ以外のものであることができないこれとしてあるとき--------、ただのこれ以上に大切なことなど何もありません。
というわけで、、
海の彼方にはもう探さない、輝くものはいつもここに、私の中に見つけられたから、、
※今年はスイカが失敗し、歯ごたえ満点の硬いメロンをゴリゴリ食べている今日この頃です、、
今日も読んで下さり、ありがとうございます!