探求とは、いみじくも、「探し求める」と書いたりします、、
私たちの迷いや混乱、その出口や真実を求めて、どこかへ探しに出かけようというその根本には、
迷いや混乱が本当に存在しているのだという思い込み、、
出口や真実がきっと違う場所にあるはずだという誤解を一切の疑いもなく妄信してしまっているからと言えるかもしれません、、
それはまるで、「すでに日本人である」人が、必死になって、
自分はどうやったら「日本人」になれるのだろう、、
「日本人」になるためにはどうすれば良いのだろう、、
「日本人」になるために必要な境地や経験は一体何なのだろうと、
見当違いの何かやどこかを探し求めているのと同じようにも思えます、、
迷いや混乱の中で、言い知れない「不安」や「恐れ」を感じて絶えず振動している自我が、自らが一刻も早く満たされ安心できるために目に見える何らかの形や状況をただ無意識的に求めているだけだということに気づいてみること、、
出口や真実が「ここにはない」ということ自体がまったくの勘違いで、出口以前にそもそも入口すらも存在していなかったこと、出口も入口も単なる観念でしかなかったこと、自分が勝手にそういう思い込みの枷を作り上げていたこと、ありふれて平凡に見える今の状況よりも明らかに崇高で華々しい真実がきっとどこかにあるはずだという考えが誤りだということを知ること、、
悟りとは、、そうした誤解や勘違いの終わりであって、何か特別なことを見つけることではありません、、
そうした誤解や勘違いに幕が下りるとき、自然と実相は明かされます、、探し求めて分かろう、分かりたいと思っていたことがひっくり返り、分かりえない、分けられないという明白さ、「知っている」「知っていた」「そうであった」ということの再発見、、
悟りとは、、達成ではなく、帰還なのです、、
※今日も読んでくださり、ありがとうございます