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2021年10月19日
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カテゴリ:絶対存在論
神の存否-204
 「観念(かんねん)」の意味は、物事に対する考えや物事について抱く意識です。「概念(がいねん)」の意味は、事物の本質をとらえる思考の形式です。哲学では、思考の対象となる意識の内容・心的形象の総称を意味します。仏教では、「観察し思念すること。仏陀の姿や真理などに心を集中してよく考えること」を意味します。仏教においては、「観」は「観察」で「念」は「念想」を意味します。仏教でいう真理や仏の覚りを正しく見極めて精神を集中させて思い考えることを表します。亦、仏の姿を観想することを「観念念仏」、観じたことを行うことを「観念修行」と言いますが、仏は人間としての正覚者であり世界を在らしめるものを俯瞰したと見られます。その意味では観念や概念を超えた究極の「真覚=神」を捉えたのかも知れません。此れは釈迦入滅後の最大の後継者と目される大乗仏教哲学の祖ナーガールジュナ(龍樹)の「空論」に行き着きます。スピノザの捉える神の実体、そして自身が観相する観念とその概念は「龍樹の空論」に近似します。此れを現代物理科学の最先端を走る量子重力理論に当て嵌めれば、ナーガールジュナ(龍樹)の「空論」の世界であっても其の成り立ちが虚無ならば何ものも発生顯現しない。其の隠されたエネルギーの原元を求めることが現代物理科学の最先端を走る量子重力理論の使命だと云えます。
 定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。
 証明 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であるのは第一部公理四 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるものと解するから明白である。なぜなら、結果として生ぜられたおのおのの物の観念は、そうした結果を生じた原因の認識に依存するからである。
 系 この帰結として、神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば、神の無限な本性から形相的(フォルマリテル)に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神のうちに想念的(オブエクティヴェ)に、すなわち観念として起こるのである。
 備考 先へ進む前に、ここで、我々が以前に示したことを記憶に呼び戻さなくてはならぬ。それはすなわち、無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚され得るすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのであるということ、これである。同様に、延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されているまでである。(このことは二、三のヘブライ人たちもおぼろげにではあるが気づいていたらしい、なぜなら彼らは神と神の知性と神によって認識された物とが同一であることを主張しているのだから)。例えば自然の中に存在する円と、同様に神の中にあるこの存在する円の観念とは同一物であり、それが異なった属性によって説明されるのである。ゆえに我々が自然を延長の属性のもとで考えようと、あるいは思惟の属性のもとで考えようと、あるいは他の何らかの属性のもとで考えようと、我々は同一の秩序を、すなわち諸原因の同一の連結を、言いかえれば同一物の相互的継起を、見いだすであろう。
 私が先に、神はただ思惟するものである限りにおいてのみ、例えば円の観念の原因でありまた延長した物である限りにおいてのみ円の原因であると言ったのも、その理由とするところは次のようなものにほかならない。すなわち、円の観念の形相的有(エッセ・フォルマーレ)はその最近原因としての思惟の他の様態によってのみ知覚され、思惟のこの様態はさらに他のそれによって知覚され、このようにして無限に進み、こうして物が思惟の様態として見られる間は全自然の秩序あるいは原因の連結は思惟の属性によってのみ説明されなければならぬし、物が延長の様態として見られる限りは全自然の秩序もまた延長の属性のみによって説明されなければならぬ、という理由からにほかならない。そして同じことが他のすべての属性についてもあてはまると私は考えるのである。ゆえに、神が無限に多くの属性から成っている限りにおいては、神は真に、それ自体においてあるがままの事物の原因である。私はこのことを現在のところこれ以上明瞭に説明することができない。
 以上のことからスピノザの云う神が、人間を観念するとか想念するとかは殆どに可能性を失います。あくまでも、我々が自然を神の延長の属性のもとで考えようと、あるいは思惟の属性のもとで考えようと、人間の理知が神を捉えたにしても、神に影響を齎すことは有り得ません。然し乍ら、其の人間は随喜の心に満たされる筈です。



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最終更新日  2021年10月19日 06時01分00秒
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