カテゴリ:絶対存在論
神の存否-205
スピノザの云う「E T H I C A II. DE NATURA ET ORIGINE MENTIS」定理八「存在しない個物ないし様態の観念」をその文章の儘に読み込むと曲解しそうです。此処では、現代科学、なかでもミクロの物理及びマクロの物理双方の「先端物理学の理論」を「存在しない個物ないし様態の観念」と読み換えれば解りやすと思われます。人類の感覚及び認識器官が身体に囚われている以上、喩え超高度量子コンピューターに頼ろうとする人間は其の結果が感覚及び認識出来なければ盲目です。その辻褄を合わせるのが人間の思考が生み出す論理的思考力である理論でしょう。 定理八 存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。 証明 この定理は前の定理から明白であるが、さらに前の備考からいっそう明瞭に理解される。 系 この帰結として次のことが出てくる。個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。 備考 もし誰かがこの事柄をもっと詳細に説明するために例を求めても、私がここに語っている事柄は特殊な事柄だから、これを十分に説明するいかなる例も私は挙げることができないであろう。しかし私はできる限りこの事柄を一つの例をもって解説することに努めよう。 円は、その中でたがいに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相互に等しいような本性を有する。ゆえに円の中には、相互に等しい無限に多くの矩形が含まれていることになる。しかしこういう炬形は、どれも、円の存在する限りにおいてでなくては存在すると言われえない。同様にまたこれらの矩形の観念は、どれも、円の観念の中に包容されている限りにおいてでなくては存在すると言われえない。今、かの無限に多くの矩形の中でただ二つだけ、すなわちEおよびDの線分から成る矩形だけが現実に存在すると仮定しよう。そうすればたしかに、それらの矩形の観念もまた、単に円の観念の中に包容されている限りにおいて存在するだけでなく、さらにまたそれらの矩形の存在を含む限りにおいても存在する。そしてこれによってそれらの矩形の観念は、他の矩形の観念と区別されるのである。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年10月20日 06時01分15秒
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